遊郭の流行り病編

第9話

 泥のような眠りだったと思う。生と死の狭間を行き来して、何度も消えそうになった。苦痛のあまり、死を受け入れても良いのではないかと思ってしまった。

 けれど、消滅しそうになる度に彼の声が、叫びが、脳裏に響くのだ。


「紅姫!」


 だから、私は消えなかった。


 ***


「…………うぅ」


 息苦しさを覚えて、紅姫は覚醒した。身動ぎしようとしても、何かに四肢を拘束されていて動けない。呼吸をすると、鼻に布地が引っ付いた。

 瞼を持ち上げてみれば、目の前に着物のあわせと締まりのある胸板があった。


「……?」


 紅姫は状況を把握しかねて瞬きする。


「……起きたか、紅姫」


 そんな声が頭上から降ってきて、優しい手つきで頭が撫でられる。先の負傷もあって、まだ思考が寝惚け気味な紅姫はその心地良さに吐息を漏らして、甘えるように目の前の胸板に頬を寄せた。

 すると、ふっと苦笑する気配がして、拘束が微かに強くなる。


「珍しいな。寝惚けるとは。傷はもう癒えたか?」


 笑みを含んだ声を聞いて、紅姫は一気に目が覚めた。


「若様!」

「俺の霊気で覚醒が早まったか。神が重傷箇所を再生させて下さったようだが、覚醒するには霊力が枯渇していたからな。おじい様よりも俺の若い気の方が余程効いただろう?」


 にやにやと愉しそうな笑みを浮かべる彰比古の顔を見上げた紅姫は不満そうに頬を膨らませた。


「主様の霊力だけでも覚醒出来ましたのに」

「そう言うな。俺が方針を誤ったから、お前はあれ程の傷を負った。償いくらいさせてくれ」


 そんな反省の言葉を口にする割に、彰比古は紅姫の髪に顔を埋めて、幸せそうな極めてだらしない顔を晒している。

 彰比古の好きにされながら、紅姫は先の戦いを思い出した。負傷した紅姫を抱えていた彰比古は本気で怒っていた。命を危険に晒して式神を守るなど術師としては無駄な行為に近いが、それでも傷ついた自分を案じて本気で怒った彰比古を責める気にはならなかった。

 それどころか、何故か少し嬉しく感じてしまう自分もいて、紅姫は自身の感情が理解できずに困惑する。

 いつの間にか霊力を回復させて紅姫の私室に侵入し、寝床にまで潜り込んでいる彰比古に色々と言いたいことはある。だが、それらを口にする気分ではなかった。

 暫く彰比古の好きにさせてやろうと紅姫はそっと吐息を零した。

 覚醒できたとは言え、まだ霊力は回復し切れていない。それは彰比古も同じなのか、紅姫の背中に回されている彼の手は温かくなってきていた。そして、二人で惰眠を貪り始め、数刻が過ぎた頃。彰比古が自室で大人しく眠っていないことに気付いた政彦が乱入し、軽く騒ぎが起きたが、この程度のことは、この屋敷では日常のうちだった。


 ***


 あれから幾月か経過した頃。ある日、彰比古は縁側を陣取り、祖父を相手に花札に興じていた。


「三光か。……こいこい」

「そうか。それなら儂は……うむ、猪鹿蝶」


 遊びに興じる彼らの傍らには、秘蔵の酒瓶を手に酌の準備を整えて端座する紅姫。何が賭けられているかは明白な光景だった。


「おじい様、こいこいは」

「せぬ」

「嘘だろ、クソ爺」

「これ、主に向かって何という口を利く。この悪たれ式神が」


 扇子でぺしりと頭を叩かれても、彰比古は諦めない。紅姫が絡むと彰比古は異常に諦めが悪くなる。それは、彼の祖父も同様だが。


「もう一戦、おじい様もう一戦やりましょう」

「何を言うか。勝敗は決まったじゃろうて。……紅姫や。酌を頼む」

「はい、主様」


 大輪の華が綻ぶような至高の微笑を浮かべて主に酌をする紅姫。政彦もこれ以上ない程に、幸せそうな顔をして注がれた酒を口にしている。

 一方で、賭けに負けた孫は不貞腐れて仰向けに寝転がった。


「おじい様は引いてばかりで勝負に出ない」

「勝ち逃げして何が悪い。それに、術でイカサマはしておらんぞ」

「してたら問題です!」


 飄々として食えない祖父に彰比古は吼える。そして、再び今度は横向きに寝転がると深く溜息を吐いた。


「屋敷にいると紅姫はおじい様ばかり構う」

「当たり前でしょう、主様なのですから」

「これなら命懸けでも、おじい様に扱き使われて二人旅していた方がマシだ」


 花札で負けたことにより完全に拗ねてしまった彰比古を見て、紅姫は嘆息を漏らした。


「何故、若様はもう少し大人になるということができないのでしょうね」

「惚れた女が自分に見向きもしないんだ。焦るのは当然だろう」

「……見向きもしない、ですか」


 酒の瓶を置いて、紅姫は端座した体勢のまま、腕を使って彰比古の傍に寄った。


「本当にそう思っているのですか?」


 問いながら、紅姫は彰比古の頭を撫でてやる。すると、政彦が渋面を浮かべた。


「紅姫、随分と彰比古に甘くなったな」


 と、苦言を呈した。

 紅姫は拗ねてしまった彰比古の機嫌を窺うように、緩慢な手付きで頭を撫で続けている。

 その時、空いていた彰比古の手に細くて白い手が重ねられた。


「そんなにもお寂しいのでしたら、遊郭においでなさいませ。若君様」


 政彦は気付いていたようだが、彰比古と紅姫は吃驚する。いつの間にか、庭に上等な着物を纏った美女が立っていた。色っぽく衿を抜いて項を露にし、髪にはチリチリと淡い光を放つ髪飾りがいくつも挿してある。艶やかな紅をした唇は妖艶な微笑を浮かべて、彰比古を誘うようにその手を握る。

 彰比古は起き上がって美女と向き合うように胡坐をかいた。一方、紅姫は一歩下がり、少し頭を下げて隠形おんぎょうし、一旦その場から姿を消した。

 彰比古は祖父の式神になったとしても、紛れもなく次期当主の身。しかし、紅姫はどこまでいっても造り物の人形に過ぎない。このような場合は、大人しく控えるのだ。


時雨しぐれ姐さん。お久し振りです」

「若君様、ますます好い男になったこと。遊郭にいらっしゃれば、女達が放っておきませんわ」

「恐縮です。姐さんも息災そうで。今日はどうしたんです?」


 この時雨という美女、遊郭にまで平気な顔で出入りしている神出鬼没な情報屋だった。そんな時雨の頭頂部と臀部でんぶには徒人には見えないモノが


「当主様に調査を依頼したくて。寄らせて頂きました」

「ほう? 今宵はどのような話で」


 それまで沈黙を貫いていた政彦が面白そうに微笑む。

 時雨は縁側に座って、政彦の方を向いた。


「私が出入りしてる遊郭の話です。……女達が謎の熱病に侵されて、次々に死んでおりまして」

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