26. 粛清の時

 人気のなくなった館内は、どこか不気味だった。

 消灯こそしてはいないのだが、夜の闇が隙間から潜り込み、徐々にその濃さを増しているように錯覚してしまう。

 長い通路を進む二つの足音が、狭い通路に乱反射し、響いていく。


 黒薔薇のゴスロリドレスの少女は、楽屋を出た時に比べれば随分と自然に笑い、会話ができるようになっていた。

 それもこれも彼女の横を並んで歩く、女流小説家のおかげだろう。


 ミハルは絶えず笑顔で、アイリスに語り掛けてくれる。


「それにしても、かわいいですねっ、そのドレス! 刺繍ししゅうも凄い綺麗だし、おしゃれですねぇ」

「そ、そうかな……お母さんが、誕生日に作ってくれた、オーダーメイドで……」

「へええっ、そうなんですね! いいなぁ、だからアイリスさんに凄いマッチしてるんですね!」


 なんだか褒められたことがひどく照れ臭い。

 頬を赤らめ、うつむいてしまう。


 数時間越えの大イベントを終えたばかりだというのに、ミハルはまるで疲労の色を見せず、はつらつとした笑顔で会話を盛り上げてくれている。


 当初、楽屋を出てから不安と緊張で過呼吸にすらなりかけていたアイリスだが、ミハルのおかげで随分と素の自分を出していくことができるようになった。


 この心の解きほぐし方も、ミハルが“雷帝”として多くのファンと接した中で、築き上げてきたスキルなのだろう。


 二つの足音が、地下へと続く通路に響いていく。

 “地下搬入口”までの道のりはシンプルではあったが、夜中に訪れる人間はほぼいない。

 ましてや閉館間近で、機材を運び終えているともなれば、この区画に残っているスタッフなどいるわけもない。


 会話が途切れるたびに、その隙間に静寂がまとわりついてくるのが、なんとも不快だ。

 あれこれと言葉を選びあぐねているアイリスに、やはりミハルが先に声をかける。


「それにしても大丈夫でしょうかね、ナデシコさん達は……なんだか申し訳ないです。私のしりぬぐいをさせちゃう形になってるみたいで……」

「そ、そんなことないです。私達は、ミハルさんを守るためにきてますから。それに、ナデシコはその……す、すごく強いから、大丈夫ですよ」


 暴漢達のことを悔やむミハルを、なんとか励まそうとする。

 気持ちを伝えようとすると言葉を見失いそうになり、どうしても不自然に語気を荒げてしまう。


 しかし、少なからずこの言葉が、ミハルの心のもやを晴らしてくれたらしい。


「ありがとうございます。そういえば、ナデシコさんからも聞いてるんですよ。アイリスさんも、凄く強いって」

「へっ……わ、私、が?」

「ええ! 以前、一緒に数十人の男の人達と戦ったんでしょう?」


 どうやら、かつて海浜公園で暴れまわった事実は、ナデシコの口から伝えられているらしい。

 過去の出来事を思い返すと、どうにも気まずくなってしまい、うつむいてしまう。


「そんな、私なんて全然……ナデシコに比べたら、素人だし……そ、それに、ミハルさんのほうがきっと、ずっと強いと思います」


 この一言に、ミハルは少しだけ笑った。

 意図するところが分からず、アイリスは彼女の横顔を見つめる。


「私のなんて、それこそ我流のまねごとですよぉ。でもまぁ、ナデシコさんのお話を聞いて、偶然ってあるもんだなぁっておかしくなっちゃいました」

「偶然――っていうと?」

「いえ、実はですねぇ。私も、親が“拳法”をやってまして。小さい頃から、それを習ってきたんですよ」


 思わず「ええっ」と驚くアイリス。

 その反応が面白かったのか、さっきよりも少し意地悪に小説家は笑う。


「最初は“護身術”ってレベルで学んでたんですけど、私がどんどんのめりこんじゃいまして。色んな格闘技や武術に興味がわいてきて、調べまくったんです。その経験が、小説作品の中にも活きてるといいますか」

「へえ、すごい……じゃあ、『ヴォルト・エンド・サーガ』の主人公も――」

「はい! 私が習ってきた技とか、調べてきた格闘技をごちゃまぜにして、使わせてるんです」


 アイリスは妙に納得し、少しだけ感動してしまう。


 「ヴォルト・エンド・サーガ」の主人公は若い女性だが、戦いに身を投じる中で、様々な“戦う術”を身に着けていく。

 その過程で使う“技”のルーツは、ミハルが実際に身に着けている様々な“格闘術”にあったのだ。


 思いがけず作品の裏話を聞けてしまい、どこか得した気分になってしまう。


「いっつも、親に口酸っぱく言われてました。『間違った力はただの暴力だ』とか『傷付けるなら、傷付けられる覚悟を決めろ』とか」

「あっ、それも―――」

「ええ。結局、“雷帝”の時に使ってる口上も、親から叩き込まれたあれこれなんですよ」


 恥ずかしそうに笑うミハルに、どこか憧憬どうけいの眼差しを向けるアイリス。


 彼女の作品は、まさに彼女自身の歩んできた“人生”の集合体なのだろう。


 両親から受け継いだ教え。

 もっと言うならば“心”がミハルの中に根付いているからこそ、彼女の中にブレない“軸”ができているのだ。


 本当に、どこまでも強い――アイリスは隣を歩きながら、どうしても自分の矮小わいしょうさと比べてしまう。


 単純な“力強さ”は言うまでもなく、どうしてもミハルを見ていると、その輝きがまぶしすぎる。

 正直なところ、ナデシコに対してもその念は抱いていた。


 二人は、自分とは違う。

 自身の親と正しい絆を持ち、それを悔やんでいない彼女らは、不器用で情けない自分とは、まるで違う。


 ため息の後、取り繕ったものではない、素直な言葉がようやく口を出た。


「やっぱり凄いなぁ、ミハルさんは……私なんかと全然違う……いつもナデシコに助けてもらってばっかりの、私なんかと……」

「そんなことないですよ! ナデシコさん、アイリスさんのこと褒めてましたよ」

「えっ――」


 思わず目を見開き、再びミハルを見つめた。

 相変わらず、彼女は自然な笑みを浮かべている。


「確かに不器用な部分もあるし、世間知らずな部分もあるし――でも、その中で精一杯、自分がやれることをやろうとしてる、って」

「そんな……でも、私、なんにも……」

「スタッフの人達だって、アイリスさんがいてくれて『助かった』って言ってましたよ。頼りないように見えて、ちゃんと気を配ってくれて、手助けしてくれたって」

「す、スタッフの人、が?」

「ええ! 特に美術担当の方が、太鼓判押してました。『丁寧な仕事ができるお嬢ちゃんだ』って」


 あの“親方”の顔が、脳裏に浮かぶ。

 自分が褒められたというそれだけの事実が、ネガティブな少女には素直に受け止めきれない。


 そんなアイリスの疑心を“雷帝”の笑顔が押し切る。


「面白い話で、人って自分のことをたかが“5%”くらいしか見えてない――っていうんです。自分をきちんと見てくれてる人は、いつもどこか他にいるってことですね。アイリスさん自身は気付いてないけど、しっかりとアイリスさんがやったことを、隣にいる私達は見えてるはずですよ!」

「そう……なのかな……私の、やったこと……」

「ええ、きっと! 今だってこうやって一緒にいてくれて、話し相手になってくれてるでしょう?」


 ミハルの言葉に、思わず「えっ」と息を呑む。


 誰だってできることだ――そう返そうとしたアイリスのその影を“雷帝”は無遠慮に、痛快に振り払った。


「誰かと肩の力を抜いて話せる――それだって、素敵なことだと思いますよぉ。“一緒にいる”ってことだって、立派な“価値”の一つですよ」


 どれだけふさぎ込もうとも、無理矢理に背中を押される。

 どれほど闇の中に沈もうとも、とにかく上へ上へと引き上げられる。


 だがそれが不思議と、不快ではない。

 改めて、アイリスは少しだけ口を開いたまま、隣を歩く女流作家の顔を見つめた。


 まぶしい――赤いドレスを脱ぎ捨て、メイクも落としている。

 だが、すっぴんであろうとも、そこには変わらない輝きが残っている。


 やはり彼女は“雷帝”なのだ。


 痛快で、屈託のない笑顔に背中を押され、歩みを進める。

 どれだけ通路が暗くても、無音が不気味でも、そこに続く足音が“二つ”あるということが、なんだか不思議と心地良く思えた。




 ***




 たどり着いた“地下搬入口”は、資材の束やばらした部品がそこかしこに鎮座しており、どうにも圧迫感を抱いてしまう。


 目の前には見上げるほどの巨大なシャッターがあるが、夜中ということもあり、ぴっちりと閉ざされていた。

 本来ならばここから大型車両が出入りし、イベントに使う機材を運びこむのだろう。


 目的地に着いたものの、二人はさっそく首をかしげてしまった。

 会館から脱出するはずの車両などどこにもないし、そもそもこれでは車両など満足に動ける空間ですらない。


「あ、あれ? ここが……地下搬入口……のはずだけど」

「変ですねぇ。車なんてどこにもないですね」


 しばらく二人で部屋の中を探すが、シャッター以外の出入り口も見当たらない。

 不可解な事態に、ミハルも「ふむぅ」とうなる。


「どうしたんでしょう。車がまだ来てない、とかですかね」

「で、でも、あらかじめ車を用意してるって言ってたから……」

「ううむ、そうですかぁ。“地下搬入口”ってこと以外は、なにか言ってませんでしたか?」


 ミハルは資材の上に乱雑に腰かけ、問いかけてくる。

 アイリスは木製のコンテナを背に、これまでの事を順に思い出していく。


「おかしいな……確かに、車が待ってるって言ったのに。“地下搬入口”で――ん?」


 静かに思い返して、自身で何かがおかしいことに気付いてしまう。

 思わず手元を見つめたまま、ぶつぶつと呟くアイリス。


「あれ……車が……あれ?」

「どうしました?」

「え、えっと……あの時、待合室にいたら電話が鳴って……」


 電話を取った前後のことを、思い返す。


 ナデシコがトイレに行き、しばらくして電話が鳴った。

 だが、奇妙なことに“地下搬入口”という言葉を、そのコール以前に、自分が耳にしていることを思い出す。


 つじつまの合わない記憶を、冷静に、時系列順に思い出していくアイリス。

 しばらく、ぶつぶつと頭の中を整理している少女を、ミハルは黙って見つめていた。


 電話のコール音、食べていたお菓子の味、ナデシコの声――それらよりもっと前に、“彼”の声が聞こえたのだ。


「そうだ。あの時、確か外から声が聞こえて……あの“親方さん”が、資材を運んでて……まとめて――あっ」


 目を見開き、前を向くアイリス。

 ミハルも「おっ」と声を上げるが、たちまちアイリスの表情が凍り付く。


「あ――ああああああ!!」


 凄まじい大声に、驚くミハル。

 静かな“地下搬入口”の空間が、きぃんと震えた。


「ど、どうしましたっ?」

「ち……違う……“地下搬入口”じゃあ……ない……」


 息をのみ「ええっ」と驚くミハルに、泣きそうな顔で振り向くアイリス。


 全てを正確に、思い出してしまったのだ。

 そして、理解したのである。


 ナデシコの指定した場所と、今、自分達がいる場所が違う、という事実を。 


「親方さんが言ってたのが“地下搬入口”で……ナデシコが言ってたのは……“地下駐車場”……だ……」


 鼓動が一気に加速していく。

 呼吸が荒くなり、小さな体が震えていく。

 自身が犯した間違いに気付き、血の気が引いた。


 よりによって伝言を聞き間違え、見当違いの場所にミハルを案内してしまった。

 その事実が、少女の脳内をぐちゃぐちゃにかき回す。


 ごめんなさい――やはり、何もうまくできていない自分に後悔し、そしてすぐさま謝ろうとした。


 しばしミハルは、目を見開いたまま固まっていた。

 だがやがて、せきを切ったように笑いだす。

 唐突な笑い声に、アイリスの震えが止まる。


「なんだ、そういうことかぁっ! ありますよねぇ、そういうの。確かに似てるなぁ。それにタイミング悪すぎ。親方さんも、まさかそんなことになってるって思ってないですよぉ」


 事もあろうにミハルは、涙まで浮かべてケラケラと笑っている。

 その姿に、もはやアイリスは後悔するよりも、呆気あっけに取られてしまう。


 こんな状況ですら、ミハルはとことん前向きに、この“珍事”を笑い話にしてしまっている。

 少女の体にまとわりつこうとする暗闇が、雷帝の笑みで崩れ去っていく。


「あ、あの……ごめんなさい……私のせいで……」

「いえいえぇ、誰だって聞き間違いなんてありますよぉ! アイリスさんだって、この建物には始めて来たわけですから、そういうこともありますってぇ」


 この作家の前では、後悔という沼に沈み込むことすらできそうにない。


 その徹底的に前向きな姿は、タイプこそ違えど、やはりあの“探偵”にどこか似ている。


「これだけ荷物が並べられてるんじゃあ、車なんて乗り入れられませんものね。きっと明日の朝にでもトラックが来て、積み込むんでしょうねぇ」

「そ、そうなのかな……でも、どうしよう。地下駐車場に行くには、どうすれば……」

「まぁ、どっちも“地下”にはあるわけですから、一旦戻りながら探してみましょうかっ! 案外近くにあったりするかもですよ」


 どれだけトラブルが起きても、あくまでミハルは笑いながらこの状況を楽しんでいる。

 それでいて、行動が早い。

 地下搬入口の巨大なシャッターを眺めた後、すぐさまきびすを返す。


 そのあっけらかんとした姿が、少なくともアイリスにはただただ救いになる。


 しっかりしないと――沈み込んでいて、何かがどうにかなるわけではない。


 随分と長い間、あの“探偵”と一緒にいたおかげか。

 はたまた、あまりにも強烈な“作家”との邂逅かいこうのおかげなのか。

 とにもかくにも、アイリスは昔に比べて随分と、自力で前を向き直すことができるようになっていた。


 遅れないよう、ミハルに続く。


「チセさんもどのみち遅れるって言ってたから、案外、ちょうどいい時間かもですねぇ」

「そ、そうだと良いけど……」


 無理矢理でも、とにかく笑顔を作ろうと苦心するアイリス。

 それを受け、大きく頷くミハル。


 地下搬入口を去ろうと前に出た二人の歩みが――止まった。


「えっ?」


 アイリスとミハルは、同時に声を上げていた。

 前を向いたまま、身動きを取ることができない。


 資材を積み重ねられた巨大な棚の裏側から、ぞろぞろと人影が姿を現す。

 一人、また一人と、アイリス達が立ち去ろうとするその眼前に、立ちはだかった。


 ジャージやレインコートと、身に着けている物は様々だが、肌は露出しておらずとにかく全身が黒い。


 それでいて最も奇妙な点は、皆、素顔を隠すための“マスク”をかぶっているということだ。

 仮装パーティーなどで使う安いゴム製のもので、ピエロや大仏、ハロウィンのかぼちゃのようなものまで、さまざまである。


 ぞくり、と背筋を冷たいものが撫でた。 


 立ちはだかる謎の人物たちは、その手に様々な“凶器”を携えている。

 金属バット、バール、角材――その異様な出で立ち以上に、彼らの持つ武器から放たれる“殺気”に、息をのむ。


 身構え、たじろぐアイリスとミハル。

 あまりに場違いな存在に、言葉を失うアイリスに代わり、やはりミハルが一言を投げかけた。


「あのぉ、なんでしょう? 何かの撮影とかですかね? ドッキリとか?」


 返事はない。


 言葉の代わりに覆面達は武器を持ち上げ、ずいと一歩、近寄ってきた。

 アイリスが悲鳴を上げ、後退してしまう。


 理由も目的も分からない。

 だが確実なのは、目の前にいる謎の集団が、明らかな敵意を持ってこちらに向かってきているということだ。


 反射的に、アイリスとミハルは思い出してしまう。

 “ストーカー”がネットの掲示板に書き込んだ、あの言葉を。


 鉄槌てっついが振るわれる――落ち着いていたはずの鼓動が急加速し、肉体が急速に熱を帯びる。


 どうやってここに入ったのか。

 どうしてここが分かったのか。


 様々な疑問を、ある一つの念がかき消してしまう。


 逃げなくては――だが、アイリスは周囲を見回し、いかに今が絶望的な状況なのかを察してしまった。


 この地下搬入口から脱出するには、来た道を戻るか、目の前の閉じている大きなシャッターをくぐるしかない。

 実質、逃げ道は覆面達の集団に断たれてしまっている。


 去りかけていた恐怖と不安が、再び肉体を縛り付けていた。


 戸惑う二人に構わず無言で、不気味なまでに静かに、集団はこちらに近付いてくる。


 震えを押し殺し、前を向くアイリス。

 そんな少女の前に、パーカーを着たミハルがおどり出た。


「ミハルさん……」

「下がっていてください、アイリスさん。何が目的か分からないけど、どうやらまともなやつらじゃあなさそうですから」


 ミハルもまた、じっとりと汗をかいている。

 彼女は深呼吸を繰り返し、微かに目を閉じた。


 ミハルが呟く微かな言葉が、すぐ背後にいるアイリスだけに聞こえてくる。


「大丈夫、大丈夫大丈夫大丈夫。落ち着け、問題ない。数は問題じゃあない、武器もどうでもいい。考えるな、感じろ。やるべきことを思い出せ。いける、いける、絶対やれる。私は私。前を向け」


 かつてイベントを前にし、トイレにこもっていた時と同じだ。


 呪文のように言葉を生み出し、そして言葉によって己の心を律する。

 それが、ミハルという小説家なりの精神統一の方法なのだろう。


 構うことなく、先頭の覆面が駆け出す。

 鉄パイプを真っすぐ振り上げ、微かな雄叫びと共に踏み込んできた。


 アイリスの悲鳴を追うように、風切り音が響く。


 振り下ろされた凶器は何一つ砕くことなく、真っすぐに落ちる。

 かつん、という甲高い音がよどんだ空気を震わせた。


 伝わる手のしびれと共に、覆面の人物は息をのむ。

 期せずしてアイリスもまた、目の前の光景に唖然あぜんとしてしまった。


 ミハルはすれすれで一撃をかわし、事もあろうに振り下ろされた鉄パイプを上から踏みつけ、押さえ込んでいた。

 覆面の人物がどれだけ足掻あがいても、まるで得物は引き戻せない。


 すぐ至近距離で“襲撃者”を見下ろしたまま、“彼女”は告げる。


「その声――男か?」


 びりり、と空気が揺れた。


 初めての感覚ではない。

 アイリスはすでに、幾度となくそのしびれを味わってきた。

 刺すような、斬り裂くような、しかしそれでいて妙に心地良い独特の感覚。


 “彼女”がスイッチを入れ、小説家ではなくなった時に発する、あの堂々とした覇気。

 心なしか、ミハルの長い白髪が、ざわざわと揺らめいているような気すらした。


 射るような視線を向け、大きな白い犬歯をむき出しにし、ミハルが――“雷帝”が笑う。


「私に“鉄槌”を下す――そう言っていたな、貴様ら? ふむ、なるほどなるほど」


 至近距離でその眼光を受け止めた覆面の男は、焦りながら必死に武器に力を込める。

 だが、押そうが引こうが、鉄パイプがミハルの足を跳ねのけることはない。


 身を引き、見守るアイリス。

 目の前の光景に、一歩を躊躇ちゅうちょする覆面達。


 全ての視線を受け“上等”とばかりに、ミハルは吠えた。


「面白い、やって見せてくれ。その代わり、覚悟しろ? その鉄槌、振り下ろすならばこちらは――全身全霊で迎え撃つッ!!」


 瞬間、ミハルが動く。


 鉄パイプを押さえ込んだまま踏み込み、覆面のど真ん中に掌底を叩き込んでいた。

 パァン、という乾いた音と共に、男の身体が弾かれ後ろに飛ぶ。

 襲撃者は受け身すら取れずに背中から落ち、うめきながら転げまわっていた。


 迎え撃たれたことに一瞬、覆面達はたじろいでいた。

 しかし意を決したのか、武器を手に次々と襲い掛かってくる。


 狭く暗い地下搬入口の中で、攻防が始まった。


 角材の一撃を避け、蹴りによって迎撃するミハル。

 一人をさばいたかと思ったら、すぐさま突進してくる一人を見据え、横に飛びのく。


 一撃、二撃と空を切るバールの軌道を見据え、三撃目をもぐりこむようにかわした。

 大仏の覆面が四撃目を放つより前に、その肩から腹部に目掛けてミハルが体当たりをかます。


 ぐぅ、という男の声を聞いた瞬間、“雷帝”は鋭く踏み込み、脇腹に肘を叩き込む。

 鋭い一撃に吹き込んだ大仏が、束ねていたパイプ椅子に突っ込み、音を立てた。


 すぐ横で両手に警棒を持った男が、飛び込む瞬間をうかがっている。

 しかし、事もあろうにミハルは構えを解き、自らその男を誘い込む。


「どうした、来いッ! “雷帝”が気に入らないんだろう? 意を示したいんだろうが!?」


 あまりにも凶悪な笑みに、覆面は勢いを削がれる。

 言葉に弾かれるように前に出て、がむしゃらに両手の警棒を振り回した。


 その暴れる力も、まるで相手にならない。

 優雅に、毅然と向き合ったまま、ミハルは駆け巡る凶器の先端を見据え、かわし続ける。


 離れた位置で資材に身を寄せたまま、アイリスはその光景を見つめていた。


 やはり、強すぎる――ミハルの身に着けた“拳法”が、どんなものなのかまでは分からない。


 ただそれでも、目の前で群がる覆面達とミハルの戦闘力の差は歴然だ。

 武器こそ振り回しているが、男達の動きは緩慢かんまんかつ貧弱で、とにもかくにも動きが鈍い。

 その隙を的確につき、男達を次々と手玉に取るミハル。


 警棒の男を頭突きで後退させ、別の覆面が投げつけてきた資材の箱を腕を固めて防ぐ。

 けたたましい音と共にナットやねじがばらまかれる中、隙を見て突っ込んでくる男をかわし、的確に鉄パイプを避けて拳で叩く。


 まるで数の有利が活かせてない。

 絶望的な状況に見えたが、目の前でミハルが見せる圧倒的な“武”に、アイリスは少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった。


 しかし、あることに気付き、再び息をのむ。


 奮戦するミハルの背後――積み重ねられた机をよじ登り、一人の男が上から襲い掛かった。


 ぞくり、と全身が震える。

 小さな体の奥底で、無数の思いが弾けた。


 怖い、嫌だ、なんで、どうして、逃げろ、行くな、動くな。


 あらゆる負の感情が、少女の心の奥でこれでもかと渦巻く。


 視界の中で、ミハルに迫るように落ちていく男が見えた。

 彼女は気付いていない。

 目の前の数人を相手取るので、必死だ。


 頭上の男の手の中でぎらりと、振り上げたスパナが輝くのが見えた。


 その凶悪な輝きがもたらす結果を、知ってる。

 その結果が連れてくる痛みを、知っている。

 その先にある悲しさを、知っていた。


 武器が振り下ろされる瞬間、ようやくミハルは気付き、顔を持ち上げる。

 だが迫ってくる鉄塊に、反応が間に合わない。


 不覚――“雷帝”が初めて息をのみ、呼吸を止めてしまう。


 響き渡ったのは、鉄が肉と頭蓋を打つ音――ではない。


 拳が真横から突き刺さり、男を空中でとらえた音。

 肉と骨の塊でありながら、圧倒的な握力によって“鉄塊”のそれと同様の堅牢さを兼ね備えた、あまりにも鋭い一撃の炸裂音だった。


 駆け込んだアイリスは、放った一撃をあらん限り全力で振りぬく。


 覆面の男の身体が一瞬、くの字に曲がり、そのまま真横に吹き飛んだ。

 積み重ねたベニヤ板を荒々しく砕き割り、男の身体が落ちる。


 アイリスの一撃で、男は悶絶していた。

 突然の乱入者にミハルだけでなく、覆面達もたじろぐ。


 どくん、どくんと鼓動が跳ねるその小さな体を必死に奮い立たせ、顔を上げるアイリス。


 たった一発を放っただけでも、緊張で汗だくだ。

 肉体がたまらなく熱く、殴り飛ばした拳はひどく痛む。


 だが、そんなことがどうでも良くなるほど、心の奥底で感情が騒ぎ立てる。

 震え、怖気ようとする自分を、その感情だけを頼りに律した。


 周囲から降り注ぐ無数の悪意を受け止め、それでもアイリスは吠えた。


「やめて……やめてよ……ミハルさんを、傷付けないでっ!!」


 黒衣を纏う小さな体から、ありったけの怒気が放たれ、空を走る。


 覆面達は武器を構えたまま、飛びかかれずにいた。

 アイリスの力よりも何よりも、ぜえぜえと肩で息をする彼女から、あまりにも異質な闘気を感じる。


 ただ一人、すぐ真横に立つミハルだけが、アイリスの肉体を突き動かす“それ”に気付く。

 だからこそ“雷帝”は臆することなく、微塵みじんも揺らがずに笑った。


「なるほど――その心意気、感謝するッ!!」


 少女の持つ純粋さが、“雷帝”の持つ純粋な闘気をも呼び起こす。

 改めて手を広げ、ミハルは高らかに吼えた。


今宵こよいの“牙”は一つではないぞ、貴様らッ! 各々、好きに選べよ? “稲妻”に焼かれたいか。“黒薔薇”のとげで貫かれたいのかッ! とっとと選べッ!!」


 ずん、と空気が重さを増す。


 轟々と群がり、戸惑いながらも前に出ようとする殺気の群れ。

 渦巻く敵意と悪意のその中心で、背中を合わせるように立つミハルとアイリス。


 向かってくる覆面達を前に、汗だくになりながらも二人は歯を食いしばる。

 自身の肉体に宿った、とっておきの“純度”を頼りに、真っすぐ。


 静かな地下搬入口の空気が、あまりにも鋭く、狂暴な“闘争”の熱を帯びていった。

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