25. 大舞台を締めくくる喧噪

 スポットライトが煌々とステージを照らし出す。

 眩いばかりの花束、そして装飾で彩られた舞台の上で、アナウンサーの女性が意外そうに目を丸くした。


「ええっ? じゃあ、あのキャラクターって、そんな偶然で産まれたんですか!?」


 椅子の上で驚く彼女に、いつも通り、深紅のドレスを身に纏った“雷帝”は豪快に笑った。


「そうとも。だがしかし、これも一つの“天啓”だと感じたッ。結果、物語の中で実に活き活きと動いてくれたものさ」

「へえ、不思議なこともあるんですね。今や主人公に負けず劣らずの、人気キャラクターですものね!」

「そう言ってもらえると、ありがたい。物語の中の“彼女”も喜んでくれるだろうさッ!!」


 あっはっは、と笑うミハルに合わせるように、観客達も笑う。

 会場の熱気は留まることを知らず、ホールの座席も一席残らず埋め尽くされている。


 この超満員の会場を高い位置から、ナデシコは見つめていた。

 スポットライトなどを調整する照明室の小窓から、目を凝らす。


「いや、まぁ、相変わらずというかなんというかさ。本当、さすがって感じだよ。これだけの人数の前で、ああも堂々と話せるってのはさ」


 隣から小窓をのぞき込むアイリスも、素直に頷く。


「私には、とても無理だな……緊張して、何もできなくなっちゃうよ……」

「私も私も。その上、時々、笑いまでとってるんだから、小説家の域を超えてるよ」


 巨大なスクリーンには新たな「ヴォルト・エンド・サーガ」の登場人物達の挿絵さしえが浮かび上がり、観客達が歓声を上げた。

 小説の裏話が語られるたび、驚きの声で会場は沸き上がる。


 重ね重ね「さすが」とうなるナデシコと、アイリス。

 その背後から、女刑事・ユカリが声をかけた。


「今のところ順調ね。他のスタッフからも、特に怪しい人物はいないって聞いてるわ」

「そいつは良かった。ごめんね、ねえさん。結局、出張でばらせちゃうことになっちゃってさ」

「あなたが謝ることじゃあないわよ。こちらこそ、満足に人員を割けないのが申し訳ないわね」


 互いに苦笑しあうナデシコとユカリ。


 今回の会場である「水月会館」の地下――収容人数・五百を誇る大会場には、今や厳戒態勢が敷かれていた。


 ストーカーが指定した日時は今日。

 握手会の最終日に、犯人は“何か”を起こすのだろう。

 鉄槌てっついと比喩されたその言葉に、薄ら寒いものを感じてしまう。


 ユカリの助力を得られたのはありがたいことだったが、一方で思いの外、用意できた人数は少ない。

 ストーカーの書き込み自体は捨て置けないものの、まだこれでなにか実害が出たというわけでもない。

 そもそも悪質な書き込みというだけで、なにも起こらない可能性もまだ十二分にあり得る。


 そういった背景もあり、ユカリが招集できたのは彼女の直属の部下が数名、というのが実情であった。

 もちろん、最低限の護衛ができているだけでも、ありがたいものである。


 早いもので、イベントももう折り返し地点を過ぎ、フィナーレに向かって順調に進んでいた。

 二時間にわたるトークショーや質疑応答を、たった一人、不安を押し殺し“雷帝”としてミハルはステージに立ち続けている。


 どこから何が来るかも分からない闇の中。

 スポットライトの当たるわずかな光の下、それでも来場してくれたファン達に“雷帝”としての強い姿を見せたいのだろう。


 ナデシコは小窓の外に目を凝らす。


「イベントの最後は、お決まりの“握手会”か。そこが“雷帝”に近付くにはもってこいの場面だね」


 ユカリも眼鏡を直し、頷く。

 さすが、彼女がやると様になっている。

 潜入捜査をしていた時の自分が、恥ずかしくなってしまうほどに。


「ええ。私達警察も、その際はミハルさんのすぐ脇に待機するわ。持ち物検査はもちろんやってるんだけど、いつ、何があるか分からないからね」

「さっすが。怪しい奴がいたら、遠慮なく“これ”でやっちゃってよ!」


 言いつつ、拳を握って大げさに振るう。

 無邪気な探偵の姿に、ため息を漏らすユカリ。


「なんでも殴り飛ばせば良いってものじゃあないのよ。まぁもちろん、相手が危険ならば、こちらも全力でやるまでよ」

「おお、さっすが! 頼りにしてるよ」


 肩の力を抜いて笑うナデシコ、ユカリ。

 だが、すぐ横で会場を眺めるアイリスは、神妙な面持ちだ。


「アイリス、大丈夫かい?」

「えっ……う、うん……本当に、来るのかな。その“ストーカー”……」

「どうだろうね。まぁ、来ないなら来ないで、大団円になるわけだから、ありがたいんだけどねぇ」


 おそらく少女は、これから起こるであろう“事件”が不安でしょうがないのだろう。

 自身の手を胸の前で握りしめている。


 どこか憂いの色が混じる眼差しを、会場に送るアイリス。

 七色の光に照らされ、またもミハルが大げさなポーズをとっていた。

 ナデシコは少しだけ真剣な色を帯びた言葉を、アイリスに投げかける。


「本当に良いのかい? 荒事は私達にまかせておいてもいいんだよ」


 この一言に、アイリスはナデシコの顔を見上げた。

 しかし、すぐに首を横に振る。


「ううん、私もやる。私もミハルさんを……守ってあげたいから」


 そう答えることは、半ば分かっていた。

 それでも少女がその答えを絞り出せたことに、ナデシコは少し嬉しくなってしまう。


「そうか、分かった。まぁ、本当にやばいことになったら、きちんと自分のことも守るんだよ。あの時と一緒さ。誰かが“犠牲”になって誰かを守るなんてのは、“救い”でもなんでもないからね」


 それはあの夜――大勢の暴漢達に公園で追い詰められた、あの忌まわしい戦いのことを指している。


 がむしゃらになって誰かを守ろうとすることは、悪いとは思わない。

 だが、そのために誰かが傷付き、犠牲になるのは間違っている。


 青臭い理想だとは分かっていても、その青臭さをナデシコは誇ってもいた。

 その美学に、アイリスはしっかりと頷く。


 誰かを守りたい、と強く思う。

 だがだからこそ、ここから先は自分自身をも守り切らなくてはいけない。


 小窓から覗くステージで、イベントは最終局面を迎えようとしていた。

 鳴り響く音楽に、負けず劣らずこだまする歓声。

 湧き上がる熱気のその奥で優雅に立ち振る舞う“雷帝”を、ただナデシコとアイリスはじっと見つめていた。




 ***




 講演会が終わり、いよいよイベントの最終フェーズである握手会が始まる。


 会場を埋め尽くす無数の観客達をナレーター、そしてスタッフ達が整理し、順番に壇上へと上げていく。

 一人、また一人とミハルと対峙し、握手や会話、サインといった形で触れ合っていった。


 浮足立ち、目をキラキラとさせる観客達。

 一方でスタッフ達は真剣な表情で、警戒を続けている。


 ミハルの両脇に、ナデシコ、アイリスもスタッフ姿で待機していた。

 押さないでと観客を制しながらも、目は笑っていない。


 スポットライトの光加減のせいで、客席側が確認しづらいのは想定外だった。

 こうなると、ひとまずは壇上に上げられた面々を、率先して警戒するしかない。


 ここまで数日間、イベントに密着していた二人にとっても、見覚えのあるファン達が次々と姿を現す。

 小説家を目指す若い女性、眼鏡の気弱な男性、子供連れの母親、友達と連れ添って参加している学生、無骨で無口な角ばった男性。


 その中でもやはり、あの“雷帝の親衛隊”の面々が、とりわけ濃い空間を作り出していた。


「雷帝様ぁ~~! 素晴らしい講演でしたぞぉ!」

「こんな場所に一緒に立てるなんて、心が、心が震えてしまいますぅ!」


 相変わらず、全身“雷帝グッズ”で固めた若者達は、事もあろうに涙まで浮かべて感動している。

 そんな彼らを、やはりミハルはたじろぐことなく、豪快に笑って受け止めていた。


 一組、また一組と握手を終え、会場を後にしていく。

 人数が減れば減るほど、ナデシコ達の中の緊張の糸が、強く張り詰めていった。


 誰だ。

 誰なんだ。


 “ストーカー”は――“雷帝の管理者”は、誰だ。

 歯噛みし、戦慄したまま進む握手会は、ただただ時間が緩慢で生きた心地がしない。


 神経を研ぎ澄まし、来るであろう“何か”に備えるというのは、ひどく消耗する。

 ナデシコとアイリス、そしてスタッフ達の表情から、余裕がどんどんと消えていく。


 気が付いた時には、時間にして20分程が経過していた。


 観客達は皆、握手会を終え、会場の外へと撤退済みである。

 扉を閉め、がらんどうとなった空間には、ミハル、ナデシコ、アイリス、スタッフの面々だけが残された。


 激しく動いていないにもかかわらず、皆、汗だくだ。

 必死に呼吸を整える中で、真っ先に声を上げたのはスタッフのリーダー格を務める男性だった。


 熱気がまだ、空気の中を漂っている。

 数多の歓喜の海の中で、確かな緊張が張り詰めたままだ。

 そんな“白”と“黒”の渦巻くホールの中央で、彼は声を上げた。


「はい、お客さんも全て撤収済みです。本日のイベント、全行程終わりました。皆さん、おつかれさまです!!」


 なぜか妙に、力が入っていたように思う。


 無理もない。

 先程まで、どこに潜んでいるか分からない“ストーカー”に備え、身構え続けていたのだ。

 こうしている今も、まだうまく弛緩しかんすることができずにいる。


 その言葉を聞いて、誰しもが戸惑っていた。

 だが少しずつ、各々のペースで、肉体に宿った力が抜けていってしまう。


 ナデシコ、アイリスはしばし、ほうけてしまった。

 自身の呼吸と鼓動がやけに大きい中で、慎重に、恐る恐る言葉を絞り出す。


「終わり……え、終わった?」

「何も……なかった、ね……」


 思わず、互いの顔を見合わせる。

 妙に緊張し続けていたせいか、頭が火照ほてったように熱い。


 壇上の真ん中で、ミハルが笑顔を浮かべ、頭を下げる。


「皆さん、ありがとうございましたっ! おかげさまで、無事、やり切れました!!」


 その“雷帝”の一言が、全員の緊張を一気に解きほぐした。


 終わった――誰しもが安堵あんどの色を浮かべ、まずは熱いため息を吐き出す。


 スタッフの一人一人にミハルは頭を下げ、握手をしている。

 彼女の笑顔を見て、ようやく皆も素直に喜びを表現することができた。


 あまりにも拍子抜けな結果に、並んで身動きが取れないナデシコとアイリス。

 空席となったホールを眺め、重く熱いため息をついた。


「なんだぁ、良かったぁ~~~、結局、何にもないんじゃんかぁ!」

「う、うん……で、でも良かった。無事、終わったね」

「まじ疲れたよ。紛らわしいなぁ。結局、ただの脅しだっただけかぁ」


 ステージ上にだらしなく座り、顔を持ち上げるナデシコ。

 まだぎらぎらと降り注ぐ照明の群れが、少しだけ目に痛い。


 事件は起こらなかった――ふたを開けてみれば、大規模な小説家のイベントが、予定通り進行し、終わっただけのことだった。


 もちろん、それは喜ばしいことだ。

 だが過剰に警戒し、身構え、備え続けた自分達がなんとも滑稽こっけいに思えてしまう。

 アイリスのか細い身体からも力が抜け、へなへなと壇上に座り込んでしまった。


 脱力する二人にも、ミハルが駆け寄ってくる。

 じっとりと汗を浮かべているが、それでも笑顔は絶やしていない。


「ナデシコさん、アイリスさん、お二人ともお疲れ様です! 本当に、ありがとうございました!」

「あ……ああ、いえいえ。そんな。結局、現れなかったね、“ストーカー”さん」


 ミハルは少しだけ目を見開き、ナデシコらと同様、誰もいなくなったホールの中を見渡した。

 既にスタッフの数名が撤収作業を始めており、客席のチェックを進めている。


「そうですねぇ……もしかしたら、今日の観客さんの中にいたのかもしれないですね」

「むしろ、そっちこそよくやり切ったもんだよ。相変わらず堂々としてたし、ファンの人達も喜んでたからさ」


 どこの誰が隠れた“怨敵”かも分からない状況で、それでも誰一人、忌み嫌うことなく彼女は接しきって見せた。

 自身を慕ってくれるファン達に、自分ができる最大級の感謝を“雷帝”として伝えきったのだ。


 同い年の少女は、隣に立つミハルに羨望せんぼうの眼差しを向けていた。


「最後までミハルさん、格好良かった……全然怖がってなかったし、不安にも見えなかったよ」

「あははは。そう言っていただけると、ありがたいですねぇ。でももちろん、事が事ですから、私もちょっとは怖かったんですよ? でもそれ以上に――やっぱりこのイベントは、やり切りたいって思ったんで」


 ほんの少しだけ、女流作家としての素顔が覗く。


 ミハルを見上げるナデシコとアイリス。

 そして、観客席を眺めるミハル。


 そこにいるのは“雷帝”ではないが、それでも変わらない輝きが、横顔に宿る。


「実際、今日、このホールに来るまでも不安で不安で。ずっと手汗も凄かったんですよ。どれだけ自分に言い聞かせても、全然“大丈夫”なんて思えなくって。だけど、並んでくれてるファンの方々の顔を見たとき、覚悟を決めたっていうか」

「覚悟……」


 アイリスの言葉に、頷くミハル。

 大きな八重歯を見せ、小説家は笑った。


「ファンの皆さんは、ここまで私に会いに来てくれたんです。私の書いた物語を読んで、私と一緒についてきてくださった方々なんです。だからやっぱり、私が最後の最後まで、皆と接しないとって」


 明るく語るミハルのその手を、少しだけアイリスは見つめてしまった。

 彼女の言う通り、白い掌はじっとりと汗で濡れてしまっている。


 いつだって、緊張と不安の連続だったのだろう。

 だがそれを振り切り、背負いきり、前に進むと決めたのだ。


 自分とファン達との“絆”のために――スポットライトの残滓ざんしを浴びて立つ“雷帝”の姿に、どこかナデシコとアイリスの心が強く共鳴する。


 ファンが“雷帝”にかれる理由が、分かった気がした。

 ナデシコも笑みを浮かべ、立ち上がる。


「であれば、今回のイベントはまさに“大成功”だね。なら、あとはきちんとお片付けして、うちらも撤収するだけさ」

「はい! 最後の最後まで、よろしくお願いします!」


 背筋を伸ばし、きっちりと綺麗なお辞儀を返すミハル。

 強さと傲慢さ、そして弱さと誠実さが内包された一人の作家の姿に、思わずナデシコは苦笑した。


 本当に不思議な子だ――肉体に宿った嫌な熱を振り払うように、二人もスタッフの群れへと戻っていった。




 ***




 後片付けが終わり、二人がスタッフTシャツを脱いだころには、時計の針は午後8時を指し示していた。


 水月会館という建物自体が既に閉鎖されており、イベントスタッフとわずかな従業員の姿しか見えない。

 退去が進む楽屋で茶を飲み、一息つくナデシコとアイリスに、マネージャー・チセは笑顔を浮かべる。


「本当、ありがとうございました! これでツアーも終わって、一安心ですよぉ」

「いえいえ、そんな。うちら実質、スタッフとしてお手伝いしてただけですから」

「とんでもない! 皆さんのご助力があったから、最後まで安全に事が運べたんですよぉ」


 何度も頭を下げるチセを見ながら、苦笑いするナデシコ。

 やはり最後の最後までこの過剰なまでの礼儀正しさに、慣れることができなかった。


 とはいえ、ようやく彼女を縛り続けていた不安が消え去ったのだろう。

 これで少しは、ストレスから解放されるというものだ。


 背もたれに体重を預け、ナデシコはため息をつく。


「結局、“ストーカー”さんは現れませんでしたね。逆にとっ捕まえることができれば良かったんですけど」

「そうですねぇ。それだけは、確かに気がかりなところですね……ただ、あれから追加の書き込みもないようなので、ネットでもただの“狂言”扱いされているみたいです」

「強がりから出た“大言壮語”ってところか。なんともまぁ、迷惑なことですな」


 ナデシコの苦笑に合わせ、チセも笑う。


 今だに“ストーカー問題”が解決したわけではない。

 こうしている今も、ミハルの脅しをかけようとしていた犯人はどこかにいるのだ。


 チセはふぅ、とため息をつく。


「引き続き、ストーカーについては警察と連携しながら、注意していくつもりです。幸い大きなイベント事はしばらくないので、一旦は落ち着くことができるかと」

「そりゃあ結構。マネージャーさんも、少しは気を休めることができるってもんですね」

「これも仕事ですから、大したことでは。それよりも、ミハルさんの肩の荷が少し降りたことのほうが安心って感じです」


 マネージャーの言葉で、全員がちらりと楽屋の端を見る。


 鏡の前で化粧を落としてもらっているミハルがいた。

 メイク担当のスタッフと談笑している。


 重ね重ね、あれだけの大舞台を乗り切ったにもかかわらず、疲労の色すら見せていない。

 彼女の横顔を見つめたまま、アイリスが呟く。


「これで少しでも、ミハルさんの気持ちが晴れてくれると良いな……また、気持ちよく小説を書いてくれたら」

「ああ、そうだね。うちらも“ストーカー”については、引き続き捜査していこうよ。ひっ捕まえて、きちんとミハルを安心させてやろう」


 ナデシコの提案に、アイリスが「うん」と力強く頷いた。


 緊張が緩んだのか、さすがのナデシコも疲れと眠気が襲ってくる。

 おもむろに立ち上がり、背を伸ばした。


「さて、と。そろそろ私らも撤収準備だね。ちょっくら最後に、おトイレだけいってくるわ」


 アイリスに告げ、足早に楽屋を後にした。


 仄暗ほのぐらいバックヤードの通路を、スタッフらとすれ違いながら進んでいく。

 軽い足取りでトイレへ向かいつつも、実のところ、探偵の脳内ではまだ思考がめぐらされていた。


 いったい、何がしたかったのか――それは他ならぬ、あの警告を書きこんだ“ストーカー”に対しての疑惑だった。


 なにもなかったのは、結果からすれば良かったのだろう。

 だが根本的な問題は、何も解決していない。

 ストーカーの目星が立っただけで、決定的な証拠は何もないのだ。


 このまま何もないのか、あるいは――トイレを済ませ、手洗い場で顔を洗う。

 冷水で身を引き締め、ぐるぐると巡る思考とぼやける焦点をはっきりさせたかった。


 トイレを後にしようとして、思わず足を止める。

 ジーンズのポケットの中で、携帯端末が震えているのに気づいたのだ。


 ジーンズで雑に手を拭き、端末をとる。

 見れば、女刑事・ユカリからのコールだった。


「もしもし、おつかれさんっすー。ねえさん、どうしたの?」


 いつもながらの間延びした言葉で応答する。

 しかし、端末の向こう側から聞こえてきたのは、何やら雑音を背景にしたユカリの声だった。


「おつかれ。ちょっとだけ、面倒なことになってるのよ。今、会館の入り口前にいるんだけどね」

「なんだって? いったい、何が――」

「ミハルさんの出待ちをしているファン達を見張ってたんだけど、そこにガラの悪い男達がやってきたの。『雷帝を出せ』ってさっきから騒いでるわ。見た限り、チンピラの集団っぽいんだけどね」


 どうやら背後から聞こえる怒号は、その男達が発しているものらしい。

 警察の人間が、スタッフと共に制しているのだろう。


 しかし、状況がまるで分からない。

 なぜこんなタイミングで、そんな男達がミハルに会いに来るのか。


 この疑問は、ユカリの言葉ですぐにはっきりした。


「確か数日前、夜の町でミハルさんが数人の暴漢を成敗したわよね? どうやら、その男達っぽいのよ」

「うげえ、まじぃ? お礼参りしに、わざわざきちゃったってことぉ?」

「そのようね、やれやれだわ。人数もそこそこいる。今は私達が食い止めてるけど、暴れだしたらファンの人達にも迷惑がかかるわね」


 かつて夜の町でミハルが叩き伏せた、あの酔っ払い達なのだろう。

 ミハルのイベントをかぎつけ、あの時の“仕返し”をしにきた、というわけだ。


 廊下を歩く足を止め、ナデシコは「ふむ」と考える。


「面倒くさいなぁ。でも、このままミハル達が撤収したら、そいつらと鉢合わせちゃうね」

「ええ。だから、ミハルさん達は別の出入り口からこっそり、抜け出してもらうしかないわ」

「だね。待ってくれてたファンの人達には悪いけど、まさかここで大喧嘩始めるわけにもいかないしなぁ」


 探偵と刑事の意見は、すぐさま一致した。

 また一つ、男の乱暴な怒号と、スタッフの困ったような声が聞こえてくる。


「一応、こういう場合も想定済みよ。ミハルさんには、水月会館の“地下駐車場”に止めてるワゴンに乗って、撤退して――と伝えてほしいの」

「おお、準備が良いなぁ。おっけい、そう伝えるよ!」


 元々の備えが活きた、というところだろうか。

 こういう場合の退路もしっかりと用意していた、というわけである。

 電話を切り、思わず重々しいため息が漏れた。


 残業は勘弁してほしいんだけどなぁ――なんとも締まらない最後に肩の力が抜けるが、すぐさま電話をかける。


 ナデシコは壁に背をもたれたまま、蛍光灯をぼんやりと眺めながら、呼び出し音を気だるく聞いていた。




 ***




 スタッフ達が撤収準備をする中で、ナデシコがいなくなった今、アイリスはやることもなくただじっと楽屋の椅子に座っていた。


 ケータリングのお菓子をぼりぼりと食べながら、ただ探偵が帰ってくるのを待つ。

 ミハルは引き続きメイク担当と談笑しているし、マネージャーのチセも各部署に報告してくるため、電話をしに出て行ってしまった。


 また一つ、チョコレートクッキーの袋を開ける。

 廊下側から聞こえてきたのは、あの美術担当チームの親方の声だった。


「おおし、これで全部か。皆、ごくろうさん! ひとまず、あとは“地下搬入路”のほうに並べておいてくれぃ。また運び出すのは、明日の朝だな」


 着実に撤収作業が進んでいるようだ。

 手を貸せることもなさそうで、ただただ待つことしかできないのは、なんとも歯がゆい。


 そんな中、楽屋に備え付けられた電話が鳴り響く。


 びくりと驚き見つめるも、誰もそれを取りにはいかない。

 それもそのはずで、楽屋にはミハルとメイク担当、そしてアイリスしかいないのだ。


 コール音が虚しく、何度も響く。

 ミハル達が忙しいというのが分かっているだけに、なんとも心苦しくなってくる。


 耐えきれず、アイリスは椅子から立ち上がり、恐る恐る受話器を取った。


「は……はい……あの……」


 緊張しつつ電話に出ると、向こうから聞き覚えのある探偵の声が響いた。


「おお、アイリスじゃん。おつかれー」

「え……な、ナデシコ? どうしたの、トイレにいったんじゃあ……」

「ああ、そうなんだけどさ。ちょっとばかし、面倒なことになっててね。実は――」


 ナデシコは電話越しに、ユカリから伝達された内容を手短に伝えた。

 予想外の事態に、アイリスは息をのむ。


「そ、そんな……どうすれば……」

「慌てなさんなって。大丈夫、あっちは姐さんや警察の人もいる。大事にはならないだろうさ。だからミハル達はこっそり、この建物から脱出してほしいんだよ。それをミハルやマネージャーさんに伝えてくれる?」

「う……うん……分かった……」


 不意の事態に、明らかにアイリスが動揺しているのは分かる。

 ナデシコはできるだけゆっくりと、はっきりと、子供に言い聞かせるかのように内容を告げた。


 ミハル達が水月会館の“地下駐車場”から脱出してほしい――ということを。


「だ、大丈夫……うん、伝えるよ……」

「ありがとっ! 私はちょっと、姐さんのほうに顔を出していこうと思うんだ。なんだかんだで、後始末を任せっぱなしにしたくなくってね」


 もちろんそれは、復讐にやってきた面倒くさい暴漢達を相手取るつもり、ということだろう。

 探偵の一言一句を、アイリスはしっかりと聞き取る。


 しかしその実、少女の頭の中では緊張と不安がどんどんと加速し始めていた。

 受話器を握る手に、なんだか妙な汗がにじんでくる。


 一通りの伝達を終え、ナデシコは「じゃあ、また」と軽い言葉で電話を切ってしまった。

 受話器を置き、ため息をつくアイリス。


 すぐ背後から聞こえてきたマネージャーの声に、びくりとたじろいでしまった。


「あれ、どうかされました? コールでも入ってましたかね?」

「あっ!? ああ……えっと……」


 電話を終え、楽屋に返ってきたチセが、不思議そうにアイリスを見つめている。


 ちょうどメイクを落とし終わったらしく、私服姿に着替えたミハルもそこに合流した。

 化粧を落としていても、彼女の身に着けた鋭い美しさはまるで揺らがない。


「ごめんなさい、アイリスさん。電話番までしてもらっちゃって!」

「い、いえ……あの……」


 伝えなくては――たったそれだけのことなのだが、事態が事態なだけに、少女の肉体と思考が緊張で強張っていく。


 きょろきょろと視線を走らせているアイリスに、マネージャーは首を傾げた。


「どうされました? どなたからでした?」

「えっと……あの……」


 言わなくては――だが、ついさっき聞いたばかりの内容がうまく思い出せない。


 極度の緊張が、つい数瞬前の出来事をうまく再生してくれない。


 それでもなんとか、たどたどしくも、アイリスはナデシコの伝言を二人に告げる。

 その内容に、やはりミハルとチセは驚いていた。

 無事イベントが終わったと安堵した矢先、実に間の悪いニュースだったのだろう。


「うわっちゃー……そんなことになっちゃってるとは……ど、どうしよう……」

「そ、そんなぁ……だ、だから、暴力沙汰だけは気を付けるようにっていったのに!」


 声を張り上げたチセに、ミハルはなんともばつが悪そうにうつむいている。

 アイリスまでも、その声に委縮いしゅくしてしまった。


 こんなところで言い争っているわけにはいかない。

 アイリスはひとまず、彼女らをすぐに行動させるために、ナデシコの指示をもう一つ、伝える。


「と、とにかく……今は、ミハルさんの身に……何かあったらいけないから……こ、こっそり……脱出してほしい、って……け、警察の人が、車を用意してるから……って」


 この“打開策”に、マネージャーの表情が晴れる。

 チセは食い気味で問いかけてきた。


「ありがたいです! そ、それで、我々はどこに行けば?」

「あ……ええ……と……」


 間近でチセの顔を見て、アイリスは言葉を失った。


 頭が真っ白になってしまう。


 確かに、ナデシコの伝達内容は覚えていたはずだ。

 だが、肝心の“どこから逃げれば良いか”が、頭の中からすっぽ抜けている。


 思い出さないと――必死に記憶を手繰たぐり、言葉をつむぎだす。


 自身の脳内にある、場所の名を。


「確か……“地下搬入口”……にあるって」


 この言葉に、チセは大きく頷く。

 彼女は顎に手を当て、なにかを考えていた。


「良かった。なら、そこからひとまず撤収しましょう! ただ……ちょっとややこしいことになってまして……」

「ややこしいこと?」

「ええ。実はまだ私の方で、会館の事務作業が残ってるんです。最後にこの建物を閉める手続きをしなくてはいけなくて……なので、私はその対応が済み次第、“地下搬入口”のほうに向かいます!」


 この言葉に、アイリスは「えっ」と目を見開く。

 ミハルも同時に気付いたらしく、同じ反応を浮かべていた。


「じゃ、じゃあ……ミハルさんは……」

「申し訳ないです。ミハルさんとアイリスさんは、お二人で先に向かってくれませんか?」

「ええ!?」


 思わず声を上げるアイリス。

 予想外の展開に、またもや汗が溢れ出てきていた。


「もうスタッフも準備ができた者から撤収を始めちゃってるんですよ……なので今、ミハルさんについてあげられるのは、それこそアイリスさんくらいしかおらず……すみません……」

「で、でも……私……護衛なんて……」

「大丈夫。搬入口まではほぼ一本道ですし、問題が起きてる入り口からは反対側です。特に危険もなく、たどり着けるはずですよ」


 思いがけない大役を任されてしまい、混乱が加速していく。

 だがそんな少女の背中を、女流作家が押す。


「チセさんの言うとおりです。大丈夫です、ひとまず先に行って、待ってましょう! もう建物の中には人も残ってないですし、安全なはずですから!」


 ミハルにまで言い切られてしまい、反論することもできない。

 アイリスの言葉を待たず、チセはすぐさま楽屋を後にしてしまう。


「それでは、私も急いで処理してきますね! お二人とも、後程!!」


 思わず手を伸ばし「あの」と声をかけたが、チセは気にすることなく出て行ってしまった。

 楽屋にはアイリスとミハルだけが残される。


 振り返り、残された女流作家を見上げた。

 おどおどしてしまう自分自身を、頼りないと自覚してしまう。

 だからこそ、ミハルに対してもなぜだかひどく申し訳なくなってしまった。


 言葉に詰まっていると、ミハルが先に声をかける。

 彼女はなおも、屈託のない笑みを浮かべていた。


「うまくいかないもんですね、なんだか。良かれと思って、あの時は動いたんですが……」


 それはきっと、あの夜――暴漢から青年を救った、あの時のことを言っているのだろう。


 まさか、あの夜の邂逅かいこうがこんな形で“あだ”となって返ってくるとは思わなかったのだ。

 少しだけ暗い表情を浮かべる作家に、アイリスはたまらず声をかける。


「あの……えっと……私……ミハルさんは、間違ってないと……思います……」


 予想外の言葉に、ミハルは目を見開く。


「暴力は確かにダメ……だけど……あの男の人達は、弱い者いじめをしてただけで……あんなの、絶対に間違ってます……!」


 アイリスは沈もうとする“雷帝”を、なんとか救いたかった。

 正しい行いをしたはずの彼女が、無駄な悪意に足元をすくわれることなど、あっていいはずがない。


 少女の小さな体の中に、そんな強い思いが渦巻いていた。


「だ、だから……大丈夫です。きっと、ナデシコやユカリさん達が、なんとかしてくれます……だから、ミハルさんは……ミハルさんが悪かったなんて……落ち込む必要、ないと思います……」


 どう言葉を選ぶのが正しいのかが、分からない。

 ただ純粋に、ミハルに“後悔”だけはしてほしくなかった。


 ミハルは少女の純粋さを察し、笑う。


「ありがとうございます。すみません、最後までお世話をかけます」


 困ったように笑う彼女の顔を、見つめるアイリス。


 最後まで、しっかりしないと――少女は“覚悟”を決め、高鳴る鼓動を制しながら、前を向く。


 やがて二人は楽屋を後にし、この建物を脱出すべく、人気のない通路をゆっくりと進みだした。


 今宵こよいの宴をできるだけつつがなく、綺麗に締めくくるため。


 着実に、探偵が想定したものとは“違う道”をまっすぐに。

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