24. 贈る者と、贈られる者の絆

 “雷帝”こと若手女流小説家・ミハルの握手会も、四日目に突入していた。

 今までは本屋の一画を貸し切った小規模なものだったが、ツアーの後半にもなると徐々にその規模も大きくなっていく。


 本日はショッピングモールの一区画を貸し切り、組み上げられたステージの上で、件の“雷帝”はいつも通り立ち振る舞っている。

 明らかに今までに比べても、観客の数とそこから伝わる熱量は大きい。

 吹き抜けとなった会場の2・3階の通路にも観客がひしめき合い、スタッフ一同は事故が起こらないよう、必死に整理していた。


 相変わらずスタッフTシャツ姿で、ナデシコもその整理の輪の中に紛れ込んでいる。

 ひしめき合う人の群れを抑え込みつつ、3階から会場をぐるりと見渡し、目を光らせていた。


 やはり、いるな――1階の特設ステージの最後尾に“彼”はいた。


 かつて潜入捜査まで行い、その姿を確認した製薬会社・ヤドリギを取り仕切る、新たな社長。

 本日は業務の合間の視察なのか、高そうなスーツ姿で、しかしいつも通り最後尾の壁際で腕を組み、なまめかしい眼差しでミハルを見つめている。


 怪しさこそあれど、あくまでそれは見た目での判断でしかない。

 潜入捜査の末、彼の両極端な評判こそあれど、だからといって女流作家のストーカーと決めつけるのはいささか早計のようにも思える。


 ステージ上では握手会前のイベントとして、観客の質問にミハル自らが答えていた。

 憧れの“雷帝”と対談できるだけあって、観客達も鼻息荒く、自身の思いをぶつけている。


 小説家を目指す若い女性が投げかけた「周りの目が気になり、どうしても自分の作品、個性に自信が持てない」という悩みを高らかに一笑した後、ミハルは堂々と言ってのけた。


「愚問だな。他に合わせたところで、生まれるのは平々凡々たる“凡作”でしかないのだ。出る杭が打たれるというならば、打ち砕かれないほど出続ければよいだけのこと! 自身を磨き上げ、研ぎ澄まし、尖らせ、貫き続ければ良いッ! 他者の白き目、軽蔑けいべつ侮蔑ぶべつ嘲笑ちょうしょう、大いに結構ッ。それすら飲み込み、楽しめば、おのずと作品の中にそれすら“経験”として活きてくるものだ!」


 堂々とした振る舞いに唖然あぜんとする女性。

 そしてその圧、言葉の強さに「わあ」と声を上げる観客達。

 相変わらず、ナデシコらと打ち合わせをしている時の、あの腰の低さはどこ吹く風だ。


 その上、ナデシコらは知ってしまっている。


 彼女がナデシコと同様――あるいは、それを超えるレベルの“武”すら身に着けている強者だと。


 頼もしいやら、意外やら。

 警戒を続けつつも、ミハルという人物の持つ多面性に肩の力が抜けてしまう。




 ***




 質疑応答の時間が終わると、次はいよいよ握手会の始まりだ。

 観客達は長蛇の列をなし、席に座るミハルと握手をし、言葉を交わす。


 皆一様に、ミハルの作品「ヴォルト・エンド・サーガ」の小説本を手にしているだけでなく、ミハルについての団扇うちわであってり、作中のキャラクターを模した商品を手に、サインを求めている。


 ミハルはまるでブレることなく、一人一人と握手をしながらも丁寧に言葉を交わしていた。


 天性のものなのか、作り上げたキャラクター性のなせる業なのか。

 対面したファン達は皆、彼女の立ち振る舞い、言葉の一つ一つに色めき立ち、高揚感に包まれながらその場を後にしていく。


 すぐそばで待機し握手会の一部始終を眺めていたが、ファンといっても老若男女、実に様々だ。

 小学生程の女児と握手を交わし、彼女に「気高く、強くなれよ!」と笑うミハル。

 少女は満面の笑みを浮かべ、サインをもらった本を眺めながら列を離れていく。


 次のファンが歩み出たところで、ナデシコ、そしてミハルの表情が少しだけ固まった。


「あ、あの……」


 歩み出た青年は、どこか気弱に、か細い声で言葉に迷っていた。

 緊張からうまく喋れないようで、視線を泳がせながらも、必死に彼は言葉を紡ぎだす。


「あの……ええと……あの時……あの夜に、助けてくださって――」


 真っ先に声を上げたのは、他ならぬ“雷帝”その人だった。

 ミハルは大きく目を見開き、そしてあくまで不敵な笑みを浮かべている。


「おお、おお! 覚えているとも! あの夜の青年か!! 実に災難だったな。傷はもう癒えたかッ?」

「っ!! は……はい……えっと……ありがとう……ございました……」


 元来、喋ることに慣れていないのだろう。

 青年は何度もミハルを見つめようとしていたが、いまだに彼女を直視できずにいる。

 ナデシコも、その線の細い姿に見覚えがあった。


 あの夜――ナデシコらが偶然に街で出くわし、悪漢に絡まれていたところを救った、あの青年である。


 救ったといっても、実際は“雷帝”ことミハルの独壇場だった。

 またたく間に悪漢三人を叩き伏せたミハルのあの不思議な格闘術を、ナデシコは思い出していた。


 あそこまで鮮やかに、そして一瞬で相手を制圧してしまう卓越した“格闘術”――機会にミハルに直接、聞いてみるかと考えていた件である。


 おどおどする青年に、ミハルは豪快に笑って見せた。


「礼には及ばんさッ。あのような下衆げすな輩、何人群がってきたところで何ほどのこともないッ!」


 当初、この話を聞いた時、マネージャーのチセはそれこそ慌てふためき、激しく取り乱していた。

 売れっ子の女流作家が暴力沙汰ざたを起こしたとなれば、大炎上にも繋がりかねない。

 実際、あの夜の目撃者は多数いたし、野次馬が撮影していた動画がアップロードもされしまっている。


 だがこれに対して、ミハルはまるで動じていない。

 そして彼女のその堂々たる振る舞い通り、世間一般も“雷帝”を叩くことはまるでなかった。


 多勢に無勢で暴力を振るっていたのは悪漢達であり、誰の目から見ても“正当防衛”と映ったのだろう。

 なによりそれ以上に、“雷帝”が振るったあの“武術”の圧倒的な光景に、人々はさらにきつけられてしまったのだ。


 豪快に笑うミハルに、青年は何度も頭を下げていた。

 だがやがて、彼もその手に握りしめた本を差し出す。

 他のファンが読んでいるそれと同様、「ヴォルト・エンド・サーガ」の一冊である。


 しかし、多くのファンが最新巻を手にしているのに対し、彼が持ってきたのは1巻――手垢がつき、擦り切れた表紙の、なんとも年季の入った一冊であった。


 そのぼろぼろの表紙に、一瞬だがミハルが目を見開いたのが分かった。


「あの……デビュー当時から、あなたの小説が……大好きで……えっと……これからも……頑張ってください……」


 必死に、何度もつまずきそうになりながら、それでも青年は言葉を振り絞った。


 ともすればどこにでもありそうな、ありきたりな激励げきれいの言葉だったのかもしれない。

 だがそんな一言で、ミハルの表情に今まで以上の力強さが宿った。


 ミハルは青年の手を取り、固く握手を交わした。

 その感触とぬくもりに青年は驚き、目を見開く。


「その気持ち、しかと受け取った。礼を述べたいのは私の方だ! 私と共に今日まで歩んでくれたこと、大いに感謝するッ!」


 何度も、何度も、握った掌に力を込めるミハル。

 青年にとって彼女が特別な存在であるように、ミハルにとっても彼はすでに、ただの他人ではないのだ。


 作者とファン――当たり前ではあるが、それでもそこには互いにしか分からない、見えざる“絆”がある。


 語る者と、受け取る者。

 歩く者と、連れう者。


 ミハルのその笑顔を見ていると、どこかナデシコも考えてしまう。


 きっと、例のストーカー事件をかんがみれば、この握手会だって中止することもできたはずだ。

 延期するなり、もっと人数を絞るなり、手段はいくらでもあったはずである。


 だがそれでも、ミハルはあくまで当初の告知通り、イベントをやりきろうと決断していた。

 そのかたくなな姿勢の理由が、何となくナデシコにも分かった気がする。


 不安はあり、恐怖もある。

 だがそれでもミハルにとって、ここに集ってくれた全てが大切な“えにし”なのだ。


 きっとそれを、見えざる何者かの恐怖によって、曇らせたくなどないのである。


 握手された青年はやはり戸惑い、言葉をすぐには返せない。

 だが、それでも自身を律し、前を向く。

 自身の抱いた気持ちを隠すことなく、目の前にいる“憧れ”に伝えた。


「あの――これからも、応援しています……いつも、あなたの作品に……救われています……だから……頑張って――ください……!」


 たどたどしく絞り出された“言の葉”の一つ一つを、しっかりとミハルは噛みしめ、肉体にて受け止める。

 ミハルの力強い言葉、そして頷きを受け、青年はサインが刻まれた愛書と共に、列から離れていく。


 “作品”が繋ぐ“絆”、か――遠巻きに眺めながら、ナデシコは少しだけ笑みを浮かべていた。


 満足げに再び席に着き、次のファンを待ち構えるミハル。

 そんな彼女の前に現れたのは、打って変わって実に“濃い”集団だった。


「“雷帝”様ぁーーーーー!!」


 突然の黄色い声に、ギョッとするナデシコ。

 並んでいるファン達も少し驚いたようだが、唯一、ミハルだけは堂々と身構え、笑っている。


「おぉ、おぉ、皆の衆! 今日も来てくれたか、感謝するぞっ!」


 見れば、全身を“雷帝”グッズで固めた青年ら5人が目をキラキラさせ、ミハルの前に立っている。

 オリジナルの缶バッジやバンドなども身に着けており、一気に空間の“濃さ”が増した。


 たじろいでしまうナデシコの目の前で、青年らは口々に声を上げる。


「もちろんです! “雷帝”様のためならば、何度でもはせ参じます!」

「本日の“雷帝”様のお言葉も、胸に響きましたぁ!」

「最新巻も改めて読んで、昨晩も涙が止まらなかったですぅ~!」


 凄まじい熱気に、他のファンやスタッフも気圧けおされているのが分かる。


 だが、そこはさすが“雷帝”。

 腕を組み、豪快に笑って見せた。


「相変わらずの豪気、結構結構!! 血湧き、肉おどるようで、何よりだ!」


 どんなファンの形でも、等しく、変わらず受け止めるその度量に、ナデシコはどこか脱帽してしまう。


 ファンにも色々だな――彼らとも固く、力強く握手を交わすミハルを見て「さすが」と心の中でつぶやいてしまった。




 ***




 握手会が終わると、今度はスタッフとしての後片付けが待っている。

 群衆が去った会場で、スタッフ達は大急ぎで機材を収納したり、特設ステージの解体を始める。


 ナデシコも他のスタッフ同様、会場に並べられていたパイプ椅子を折り畳み、手際良く運んでいく。

 その運搬中、見覚えのある小さな姿を発見し、少し足を止めた。


 見れば、同様にスタッフ姿のアイリスが、ステージの骨組みを紐でまとめ上げ、がたいの良い中年男性に受け渡している。


「あの、これ……どうでしょうか?」

「おう。ありがとうよ、お嬢ちゃん! ああ、うまく縛れてるじゃあねえか、上出来、上出来! 嬢ちゃん、手先は器用なんだなっ!」


 美術チームのリーダーである男性は、アイリスの縛り上げた骨組みを見て、豪快に笑う。

 美術――という言葉とはどこか真逆の、芯が太く、角ばった豪気な男である。


 その勢いに押されがちだが、それでも褒められたことが嬉しいらしい。

 アイリスは微かに笑い、「どうも」と頭を下げた。


 ナデシコもパイプ椅子を片付け、彼女と合流する。


「おつかれ~、アイリス。なんだ、随分うまくやってるようじゃないのさ」

「あ、ナデシコ……うん、親方さんが教えてくれたから……」


 会話を横で聞いていた“親方”こと、美術チームリーダーがまたも豪快に笑った。


「コツを教えただけでここまでできるんなら、上出来よ! 最近の若ぇのはどうも力がねえから縛り口も緩くなりがちなんだが、お嬢ちゃんはその点、しっかりしてる。見かけによらねえもんだな」


 見れば確かに、アイリスの縛り上げた部分は、がっしりと固く結ばれている。

 彼女の持つ規格外の“握力”を、うまく活用したのだろう。


「お嬢ちゃん達、新人さんかい? それにしちゃあ、しっかり仕事ができてるじゃあねえか。関心関心!」

「え、ええ……そうなんですよ。ありがとうございます」

「しかし、いきなりこんな忙しい時分に放り込まれるたぁ、運がわりぃなぁ」


 あくまでミハル、そしてマネージャーのチセ以外には、二人の素性は明かしていない。

 ミハルのストーカー調査については、“潜入捜査”のていをとっているのだ。

 ナデシコとアイリスは、新人スタッフとして参入した女子二人――という設定で、他のスタッフに紛れ込んでいる。


「俺も最初は『小説家の握手会なんかに、そんな大げさな舞台がいるのかよ』って思ったもんだが、本当、あのミハルって嬢ちゃんには驚かされっぱなしだよ。日に日に、客の数が増えてくんだからな。あんなのは初めて見るぜ」

「へえ。最初はここまで、大規模じゃあなかったんですね」

「おうとも。それこそ、商店街の書店の一区画を借り切るだけだったから、俺ら大道具班からしたって楽な仕事だったんだぜ。のぼりや看板作るだけで良かったんだからよ。しかしそこで、商店街が通行不能になるほど人間が集まっちまってな。慌ててでかい会場借りて、ステージやセットを作ることになったのさ」


 豪快に笑う親方に、ナデシコも苦笑して返す。

 そうなると、当初はスタッフ側もミハルの人気を、そこまで正確に把握できていなかったのだろう。


 また新たな骨組みを結びつつ、アイリスが会場に視線を走らせる。

 握手会に参加し、まだ熱の冷めやらぬ観客達が、近くのカフェや店舗の前でたむろっているのが見えた。


 少女はしっかりと結び目を作った後、親方に問いかける。


「今日来たお客さん達、皆、最初からずっと握手会に来てくれてるんですか?」

「何度か参加してるやつはいるなぁ。なかには、毎日来てるような猛者もさもいるぜ。それこそ今日の握手会にもいた、あの集団なんてまさにそうさ」


 この言葉に、隣にいたナデシコが「ああ」と頷く。


「あの、なんていうか――“濃い”メンバーですね」

「おうよ。“雷帝の親衛隊”を名乗ってる、まぁ熱心な連中さ。ちょっくら暑苦しいが、まぁそれでも熱心に通ってはくれてるみたいだぜ」

「その他にも、常連な人っているんです?」

「そうさなぁ……それこそ小説家志望の女学生だの、子供がファンでついてきてる親御さんだの、色々いるさ。“雷帝”さんはファン層が広いようだしな」


 これには「ふ~ん」と唸りながら、頷く。

 何やら考え込むナデシコの横顔を、どこか不思議そうにアイリスは眺めていた。


 親方は「ふぅ」とため息をつき、腕を組んだまま続ける。


「それもこれも、あのミハルって嬢ちゃんの人柄のなせるわざだろうなぁ。もちろん、あの豪快な立ち振る舞いもあるんだろうが、ああ見えてファンのやつらには分けへだてなく、きちんと対応してるらしいぜ。ファンレターや応援のメールには、必ずその日中に目を通して返信するんだとよ」

「そりゃまた、すごいな。だって随分な数になるでしょう?」

「ああ。深夜遅くまでふらふらになってる姿見て、心配性なマネージャーさんもいつも気をもんでるらしいぜ」


 マネージャー・チセの姿を思い浮かべ、ナデシコだけでなくアイリスも苦笑してしまう。

 なんとも想像しやすい絵面だ。

 しかし、ミハルの丁寧な姿勢こそが、ファンとの硬い結束力を創り上げているのかもしれない。


 アイリスが資材を全て縛り終えたのをきっかけに、二人はその場を後にする。

 親方に別れを告げ、バックヤードへと戻った。


 通路を歩きながら、なおも考え込んでいるナデシコに、アイリスは問いかける。


「ねえ、ナデシコ。どうかした?」

「えっ――ああ、いや。さっきの親方さんの言葉が気になってね」

「常連のお客さんのこと?」


 自身の顔を覗き込んでくるアイリスに、ナデシコは頷く。


「まぁ、これだけの人気だから、熱烈なファンってのはいくらでもいるんだろうさ。ただ、親方の話の中に、例の製薬会社の“社長さん”のことはなかっただろう?」

「うん。いっつも後ろで眺めてるから、印象が薄いのかな」

「そういうこと。今日の握手会も横で見てたけど、あの社長さん、そもそも握手会の列に並んでなかったんだ。あくまで遠くから見てるだけ。どういうつもりなんだろう、ってね」


 多くのファンの姿を見てきたが、やはりそのどれとも“新社長”なる男性の行動はずれているように思う。

 “雷帝”というシンボルを目の前にし、歓喜するでも、高揚するでもなく、ただただそれをじっと見ているだけ。


 通りすがりの野次馬がのぞき込んでいるならばまだしも、彼はしっかりと握手会のエリアの中に観客として参加しているのだ。


 どこか、妙につじつまが合わない――しかし、それでいて決定打に欠ける部分があるから、どうにも気持ちが悪い。


「もどかしいね。明らかに変な動きしてくれるなら、その場で取り押さえられもするんだけど、そもそも“雷帝”に近付きもしないんだからさ」

「変だね……握手会に来るけど、握手せずに見て帰るって……でも、確かにそういう人もいるって言っちゃえば、そうだし……」


 どっちとも取れるその態度が、まだ新社長とストーカーという像を結びつける、決定打に至らない。

 なんとも言い知れぬ気味悪さを感じつつも、二人はいつも通り、楽屋に戻った。


 ドアを開けた瞬間、声をかけてきたのは神経質で心配性なマネージャーの女性・チセだ。


「あっ、おかえりなさい! お二人とも、大変なんです!!」


 いきなり大声を上げられ、目を丸くするナデシコとアイリス。

 なぜか楽屋にミハルの姿はない。


「ど、どうしたんですか?」

「あの、えっと……なにから説明すべきか……と、とりあえず、ミハルさんはまたトイレにいってるんです。お二人とも今のうちに、ちょっとよろしいでしょうか?」


 なにやらそわそわし、周囲を見渡している。

 ミハルに聞かれるとまずいことでもあるのだろうか。


 二人はチセが座っているテーブルの対面に腰かける。

 マネージャーは手元に開いているノートパソコンを操作し、こちらに画面を向けた。


「まだ、私も全てを把握してないんです。ただ……例の『ストーカー』からの新たな書き込みがあったんですよ」

「なんですって?」


 思わず画面をのぞき込む。

 大手掲示板サイトが開かれ、画面いっぱいに拡大されていた。


 ある一つの“書きこみ”に、二人の目は釘付けになってしまう。


『“雷帝”は我々を裏切った。彼女の崇高な魂はけがれ、俗物になり果ててしまった。ゆえに我々は、彼女にしかるべき“罰”を与える必要がある。明日、“雷帝”を下す鉄槌が振るわれるだろう』


 仰々しい文章に、息を呑んでしまう。

 書き込み主の名前を、思わずナデシコは呟いてしまった。


「“雷帝の管理者”――か。なるほど、ついに打って出てきたってことか」

「はい……何か進展がないかと、さっきネットを見てたんです。そしたらこんな書き込みがあって……」

「ミハルさんは、このことを?」

「まだ知りません……で、でも、どうしたらいいのか……」


 顎に手を当てたまま、ナデシコは目を走らせる。

 書き込みの内容もさることながら、その書き込みが投稿された時間帯を確認していた。


「この文章、さっきミハルが握手会をやっていた時間帯に書き込まれてるね。あの場にいながら、携帯とかを使ったか。あるいは、そもそもあの場にはいなかったのか……」


 たまらず、アイリスも不安げに口を開いた。


「“我々を裏切った”……ど、どういうことだろう。ミハルさんが、ファンを裏切ったってこと?」

「そうとも取れるけど、まるで真意が分かんないね。抽象的すぎて、やりたいことも分からない。ただ、気になるのはここ――」


 ナデシコは文章の末尾を指差す。


「“明日、雷帝を下す鉄槌が振るわれるだろう”――明日は確か、握手会の最終日でしたよね?」

「え、ええ……それって、つまり……」

「おそらく、明日の握手会――どこかのタイミングで、“雷帝”に何かを仕掛けるんだと思います」


 マネージャーの表情が凍り付く。

 アイリスも息を呑み、両手を強く握っていた。


「明日の会場って、どこでしたっけ?」

「え、駅前にある『水月会館』ってところで、ホールを借り切るんです。イベントで使われる専用の建物で、今までで最大の規模になります」

「なるほど。となれば、客の入りも今までで最大――ってことですね」


 実にまずい事態になりつつある、と心のどこかで歯噛みした。


 明日は今日以上に、不特定多数の観客が“雷帝”を見るために集まってくる。

 それはすなわち、さらに多くの“容疑者”が集まるということでもあった。


「あぁ、どうすれば……い、いったい……どうすべきなんでしょう……!」


 頭を抱え、過呼吸になっていくマネージャー。

 まずは、この側近を落ち着かせることが先決か。


「まぁ、まぁ、落ち着いてください。確かに悪いニュースではあるが、逆に言えば、相手の狙いが少なからず分かったってことでもあるんです。明日仕掛けてくるというなら、こちらもしっかりと準備をしておけばいい。それだけですよ」

「そ、そうでしょうか……」

「この件をねえさん――ああ、ユカリ刑事に報告して、応援を頼んでおきます。建物の中をミハルさんが移動する際、必ず護衛をつけるようにして、彼女を守ればいいんですよ。イベントホールであれば、セキュリティの部分でもしっかりとしているはず。逆に考えると、今日みたいなどこかの場所を借り切ってやるより、守りという点では安心できると思うんです」


 ナデシコの言葉にどこか納得したのか、マネージャーの呼吸も徐々に落ち着いてきた。


 隣で見ていたアイリスは、ナデシコのその手練手管に感心してしまう。

 起こっていることをしっかりと見据えつつ、それでいてその中の“メリット”をうまく強調することで、相手をたしなめている。


「お、お願いします……ミハルさんには、私の方からきちんと説明します」

「はい。慌ただしくはなるとは思いますが、私達も今まで以上に、警戒するようにしますんで」


 おそらく、明日が“勝負”の一日になるのだろう。


 ナデシコ、そしてアイリスはどこか察し、緩みかけた気持ちを引き締めなおした。

 大きなため息をつき、マネージャー・チセはノートパソコンを片付けだす。


「本当、なんでこんなことになってしまったんでしょうか……“雷帝”としての活動は好調だったのに……」

「お察しします。イベントもうまくいっていたみたいですし、残念ですね」

「ええ。何もないまま終わるのが、もちろんベストなんですが……それこそ、逆に考えれば、きちんと“清算”すべきことなのかもしれませんね……」


 なんだか含みのある言い方に、ナデシコは首をかしげてしまう。

 二人の視線に気づいたのか、チセは力なく笑った。


「実はああ見えて、ミハルさんも結構消耗されてるんです。最近では、このストーカーのことも気にされているらしくって……次回作を書きあげる手が鈍りつつあるんですよ」

「それは大変だ。精神ストレスは、何事につけても良くないですからね」

「ええ……それにこのイベントが終わったら、また次のステップに“雷帝”は進むはずだったんですよ。実は、ここだけの話なんですが……大手ファッション企業から、コラボレーションの企画を貰ってるんです」


 これにはナデシコも「ええ」と声を上げる。

 アイリスも興味津々に、聞き返してしまった。


「ファッション……ミハルさん、モデルになるんですか?」

「ま、まぁ、大体そんな感じです。“雷帝”のキャラクターはそのままに、ブランドとコラボしたりって話が来てるんです。ミハルさんには、まだ内緒にしてるんですけどね」

 なんとも嬉しい話だが、であれば余計、このストーカー騒動はミハルらにとって厄介極まり事態といえるだろう。

 アイリスは改めて、ミハルへの憧憬の念を抱いているようだ。


「すごい……小説家だけでなくって、モデルまでやるなんて……」

「今回のイベントが綺麗に終われば、それが一つの自信につながると思っていたんです。そうして、もっと新しい分野に踏み込んでいければ、と思っていた矢先――」


 どうにも気の毒に感じてしまい、ナデシコは唸ってしまう。

 あのストーカー被害さえなければ、きっとミハルは“雷帝”として、真っ当に成功の道を進むことができていたのだろう。


「こうなるとなおさら、捕まえないといけないですね。その“ストーカー”を」


 こくりと頷くチセ。


 その背後のドアが勢い良く開き、くだんの“雷帝”が戻ってくる。


 一同の視線を受け、ミハルは晴れやかに笑っていた。


「あ、皆さんお揃いで! おつかれさまですっ、今日もありがとうございました!!」


 深々と頭を下げるミハル。

 そんな彼女に対し、どうしても堅苦しい表情を浮かべてしまう三人。


 帰ってきた彼女は“雷帝”としてではなく、夢に向かって邁進まいしんする、一人の“作家”として笑っていた。


 心地良い汗を額に浮かべ、しかしどこか影のある心を隠しながら。


 彼女の明るさの裏に見え隠れする不安に、ナデシコ、アイリスはより強く、心の帯を締めなおした。

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