19. 彼女の中の“僕”

 時間にしてものの数分ではあるが、少女にとってはひどく長い間、走り続けていたように錯覚してしまう。

 夜中の闇に包まれた公園で、あてもなくただ逃げ続けるというのは、ひどく孤独だ。


 いくつも脇道に滑り込み、時には茂みを突っ切りもした。

 気がついた時には追っ手はいなくなっていたが、代わりに自分がどこにいるのかも見失ってしまう。


 街灯のおぼろげな光の下、ざわざわと揺れる木々の影を不安げに見つめる。

 黒いドレスのそこかしこが破け、木の葉や枝がまとわりついているが、今はそれどころではない。


 熱くて仕方がない。

 走っただけで、ここまで体内の熱はたぎらないだろう。


 戦ったから――思わず、自身の手を見つめる。

 か細く、白い肌の所々が擦り剥け、微かに血がにじんでいる。


 この手で、いったい何人の男を叩きのめしたのだろう。

 自分でも“異常”だと分かっている。

 だがそれでも、湧き上がる衝動を抑えることができなかった。


 ナデシコが傷付けられる姿を見て、考えるよりも先に細胞が動き出していたのだ。

 どれだけ恐ろしくても、肉体が軋み悲鳴を上げても、動かずにはいられなかったのである。


 必死に熱を排出しながら、アイリスは考える。

 どちらに逃げるべきか、どうやってナデシコ達と合流すべきか、を。


 ふらふらと力なく、夜風が吹きすさぶ公園の中を歩いていく。


 朧げな眼差しの前に現れたのは、更なる絶望だった。


「いたいた、ちょこまかと逃げやがってよ」


 立ちはだかったのは、バンダナを巻いた大柄な男である。

 一瞬、そのぎらついた視線にたじろいでしまうが、すぐに拳を握り、身構えた。


 もはや全力で走ったとしても、逃げ切れそうにない。

 体力など、とっくの昔に尽きてるのだ。

 やれるとしても、一手、二手の攻防が限界だろう。


 呼吸を荒げるアイリスに、問答無用で襲い掛かってくる巨漢。

 男が拳を振り上げた瞬間、すぐ真横の茂みがぜた。


「はい、そこまでぇーーー!!」


 植木を蹴破りながら飛び出したその姿に、アイリスが目を見開く。


 茂みに潜んでいたナデシコが、男の顔面に真横から跳び蹴りを叩き込んでいた。

 的確にこめかみを射抜いたそれが、男の意識を見事に弾き飛ばす。


 どさり、と横たわる男の横に、音もなく着地するナデシコ。

 彼女は体にまとわりついた葉っぱを、ため息をつきながら払いのけていた。


「ナデシコぉ!!」

「どう、ナイスタイミングだったでしょ? ごめんね、もうちょい手際よく――」


 話し終わる前に、アイリスがナデシコに飛びつく。

 凄まじい力で締め付けられ、変な声を上げてしまった。


「おぉうっ!? ちょ、なにして……」

「ナデシコ……ナデシコぉ!! わああああああ!!」


 アイリスは顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。

 間近でこちらを見上げてくる少女の、痛々しい表情に息を呑む。


「ごめんなさい……私……助けに行こうとしたけど……うまくできなくって……私のせいでッ……!」


 泣きじゃくるアイリスを見つめ、ナデシコは一瞬、言葉を失ってしまう。

 しかし、すぐに彼女の後悔の意味する所に気付き、苦笑した。


「そんなの良いって。あんたが悔やむことじゃあないさ。むしろ、よくやった方だと思うよ。しっかりと一人で、戦えてたじゃあないか」


 肩に手を添え、少女に言い聞かせる。

 アイリスは「でも」と涙を流したまま、こちらを見つめていた。


「今、ねえさんが奴らを食い止めてくれてる。もうじき応援の警察達も来てくれるだろうから、もう少しの辛抱だよ」


 遠くから、男達のうめき声や悲鳴が聞こえてくる。

 今もなお、女刑事・ユカリが孤軍奮闘しているのだろう。

 巻き込んでしまったことは申し訳なく思うが、ユカリの実力では悪漢が何人束になっても、かなう気がしない。


 パトカーのサイレンが聞こえてくるのも、時間の問題である。

 どれだけ悪漢の数が多かろうとも、さすがにこれで終局だろう。


「入り口に戻るわけにはいかないから、このままもう一度、身を隠そう。ちょっとばかし格好悪いけど、今は時間稼ぎするのがベターってもんよ」

「う、うん……」


 これ以上、やつらと戦う体力も気力も、二人には残っていない。

 今はとにかく、どこかに隠れて息をひそめ、回復することが先決だ。


 再び茂みの中に戻ろうと歩き出すナデシコ。

 アイリスも涙をぬぐい、ナデシコの背中――革ジャンにプリントされた“竜巻”を見つめる。


 少女が一歩を踏み出したのと、“炸裂音”が空気を揺らしたのは、同時だった。


 パァン、という乾いた音と共に、ナデシコの左肩が爆ぜる。

 真っ赤な血が吹き上がり、探偵の身体ががくりと沈んだ。


 目を見開くアイリス。

 激痛と衝撃に言葉が出ないナデシコ。

 彼方かなたから、二人に向けて若い声が投げかけられた。


「本当に厄介な人達だよ、まったく」


 倒れ込み、それでもなんとか片膝で耐えるナデシコ。

 二人が顔を上げると、やはりそこには複数名の男の姿があった。


 その中央で、見覚えのあるキャップをかぶった青年が、銃口をこちらに向けている。

 改造したガス銃の銃口から、一筋の硝煙が昇っていた。


 かつて、娯楽施設「キングダム」で遭遇した、悪漢達のリーダー格である。

 青年の視線と手にした凶器の姿に、今この場で何が起こったかを悟った。


 撃たれた――事態を把握し、立ち上がろうと歯を食いしばるナデシコ。

 そんな彼女の太ももに、もう一発、銀玉が叩き込まれた。


 激痛から声を上げそうになる。

 ナデシコは悲鳴を押し殺し、煉瓦れんがの上に伏せてしまった。


 アイリスの鼓動が、再び加速を始める。

 男達はすぐさま二人を取り囲んでしまった。


「安心しなよ、どこまでいったって玩具おもちゃだ。ちょっとばかし、大げさに肉をえぐってるだけで、致命傷じゃあないよ。とはいえ――」


 至近距離でもう一発、青年はナデシコの腕を打ち抜いた。

 弾丸はいともたやすく皮膚と肉をえぐり、血を噴き上がらせる。


 声を押し殺すナデシコ。

 身動きの取れないアイリス。

 戦慄する二人を前に、青年は悠々と言ってのける。


「何発も叩き込めば、さすがに死んじゃうかもね。血がなくなるか、あるいは痛みに耐えきれないか、どっちかでね」


 飄々と言ってのけるその目は、まるで笑っていない。

 かつて取り逃したナデシコら二人をまじまじと見つめている。


 またもすんでのところで、二人の目の前から“希望”が消え去ってしまう。


「参ったよ、本当。まさか女の子二人を捕まえてくるのに、ここまで手こずらされるなんてね。投げ飛ばされた挙句、兵隊を何人もやられてる。面目丸つぶれってやつさ」


 静かなる怒りが、彼の言葉には秘められていた。

 たった二人の女性にコケにされたのでは、不良チームとして示しがつかない、というところだろう。


 彼はガス銃に弾丸を込めなおし、音を立てて装填を完了する。

 そして、その銃口はアイリスに向けられた。


 ひっ、と声を上げた時には、背後にいた男がアイリスを羽交はがい絞めにしてしまう。

 身体ごと釣り上げられてしまい、まるで抜け出せない。

 どれだけ抵抗しようとも、アイリスを丸太のような腕が、がっしりとホールドしている。


 青年は静かに、毒蜘蛛どくぐものような鋭い殺意を秘めた眼差しを、こちらに向けていた。


「大人しくしてもらうため――ってのは、ずるい口実かもしれないね。悪いけど、僕もやられっぱなしを飲み込めるほど、人ができてはないんだ。コケにされた分、少しなぶらせてもらうよ」


 かちり、と撃鉄を引く音が聞こえた。


 目的などない、腹いせのための一発。

 その狂気的な一撃は、まっすぐアイリスのか細い胴体に向けられている。


 歯噛みしたまま、ナデシコは汗を浮かべ、言葉をひねり出す。


「やめろ……その子は……関係ない……」


 近くに立っていた男が、容赦なくナデシコの背中を踏みつけた。

 探偵の毅然きぜんとした態度を、文字通り踏みにじり、彼は笑う。


 アイリスは弱弱しく「あぁ……」と声を震わせることしかできなかった。

 焦点が定まらない。


 掴みかけた光が、再び握りつぶされたという絶望。

 再会できたはずの探偵が、再び地をっているという現実。

 そしてこれから、自分に鉄槌が撃ち込まれるという事実。


 ぐわんぐわんと、頭が揺れた。

 視界が狭まり、世界が収縮し始める。


 キャップの青年は冷たく、無機質な言葉をなおも投げかけた。


「関係ないことはないさ。子供が大人の世界にしゃしゃり出るから、火傷をする。“おいた”をしすぎたのは君達のほう。しかるべき報いは、きっちりと受けなくちゃあならないんだ。それがこの世界の――“ことわり”ってものさ」


 白く染まっていく世界の中で、あまりにも非情なリアルの中で、鼓動の音がやたら大きい。

 どくん、どくんと脈打つそれの裏で、“声”が聞こえた。


 音が消える。


 限りなく透明になったその空間で、それでも声だけははっきり聞こえた。


 アイリスの鼓膜を震わせたのは、青年の言葉でも、地に伏せた探偵のそれでもない。


 もっと遥か昔から、アイリスが知っている声だった。


『やっぱり、なにもできなかったね――』


 目を見開く。


 すぐ耳の側で“彼”は言う。


『気に病むなよ。充分頑張ったほうさ。邪魔者だって、何人も倒しただろう――』


 周りの景色が、速度を失う。

 止まってしまったモノクロの世界の中で、今はただ、その声に身を委ねた。


所詮しょせん、人間ができることなんてのは決まってるんだ。ここが君の限界ってことさ――』


 自然と鼓動が穏やかになる。

 四肢の力が抜け、呼吸が穏やかになっていく。


 一つ、また一つと感覚が消え、やがて声だけが世界を支配した。


『安心しなよ。いつもどおり、ここからはやってやる。あの時みたいに――“僕”にまかせな』


 ふっと、瞳の光が消えた。


 今まで失われていた感覚が、一気に戻ってくる。


 生暖かい夜風、鼻をくすぐる緑、そして遠くから漂う潮の香り。

 嫌にぎらつく、心許こころもとない街灯。

 肉体に宿る熱と、自身を羽交い絞めにした男の腕の感触、すぐそばの体臭。


 キャップの青年は、迷わず指に力を込める。

 銃口はぴたりと、少女の胴体に定められていた。


 殺すこともなく、しかし無事では済まさない最高の玩具を、まるで動じることなく操る。


 想像通りの痛みは、想像を超える恐怖を植え付ける。

 簡単なことであった。

 これこそ、いつも彼らがやってきた、弱き者を屈服させる唯一の方法である。


 ナデシコは拘束を振りほどこうにも、地に伏せたまま何もできない。

 ただ歯噛みし、背中に伝わる男の体重に足掻いていた。


 また一つ、パンッと空気が爆ぜる。


 弾丸は予定通りの軌跡を描き、皮をえぐり、肉を削ぐ。

 鮮血がバッとほとばしり、かきむしるような痛みを全身にほとばしらせた。


 弾丸を放った青年も、周囲を取り囲む悪漢達も、そして地に伏せたままのナデシコも――絶句していた。


 アイリスは無傷だった。


 彼女はとっさに自身を拘束している男の腕を掴み、弾丸を防ぐ“盾”として利用している。

 彼女の圧倒的な握力は、男の手首を捻じり折っていた。

 制御を失った巨腕には弾丸が深々と食い込み、おびただしい量の血が流れ出ている。


 男もようやく事態を察する。

 そしてその身を貫いた激痛に、悲鳴が上がった。


 あまりにも突拍子もない出来事に、誰も動けずにいる。

 その中で唯一、少女だけが静かに言い放った。


「ぎゃあぎゃあやかましいんだよ、でくのぼう。ほら、放せよ。“僕”のドレスが汚れるだろうが」


 いつもとは明らかに異なるその波長に、ナデシコだけが気付く。

 男達が言葉に反応するよりも明らかに早く、そして驚くほど手際良く、少女は動いていた。


 アイリスは肘を男の脇腹にめり込ませ、腕の力が緩んだ隙に脱出してしまう。

 彼女は更に振り向きながら、男の顔面目掛けて拳を一閃する。


 一見、それは空振りのように見えた。

 しかし、拳は男の顎すれすれを捉え、弾き飛ばす。

 この一撃が男の脳みそを激しく揺さぶり、一瞬で脳震盪のうしんとうを引き起こしてしまった。


 どさりと倒れる巨漢を背に、アイリスが顔を上げる。


 いつもと変わらない、少女の顔。

 白い肌に微かに浮かび上がった汗が輝いていた。

 周囲の闇に合わせ、長く黒い髪と、ドレスのすそおどる。


 少し遅れて、ナデシコ以外の男達も一斉に、察する。


 違う――小さな体をむしばむ恐怖も、暴力に臆する弱弱しさも、一切感じない。


 姿形は、先程までの少女のそれと同様だ。

 だが、その小さな体から発せられる、見えざる気迫。

 悪漢相手に大暴れしていたあの時よりもさらに鋭く、硬く、そして冷たい殺気。


 大きく見開かれた彼女の瞳の深淵そこから、もう一つの“なにか”がこちらを覗いている。

 その得体のしれない“なにか”を、ナデシコと悪漢達は確かに感じ取っていた。


 キャップの青年が再び、撃鉄に指をかける。

 しかし、その銃口の先から少女の姿が消えた。


 ナデシコが声を上げそうになる。

 戦いに慣れた目を持つ彼女だけが、いち早くその動作を認識できた。


 アイリスは急加速し、ナデシコを抑え込んでいる男の眼前に移動していた。

 あまりの素早さに男達の反応が、まるで遅れてしまう。

 ただ一人、すぐ目前に迫る少女のその顔に、男が息を呑む。


 獣――人の形をしているはずの“それ”から伝わる、あまりにも純度の高い意志。

 頭三つほども体の大きな男が、こちらに向かってくる小さな影に、確かな恐怖を覚えていた。


「ぼさっとしてんなよ、のろま」


 はっきりと言い放ち、アイリスは男の顎目掛けて、またもや拳を刺す。

 先程同様、一撃はいともたやすく男を気絶させ、無力化させてしまった。


 地に伏せるナデシコの背中から、重さが消える。

 すぐ隣に、白目をむいた男がどさりと倒れてきた。


 とっさに起き上がり、アイリスを見上げる。

 彼女はすでに視線を男から外し、周囲に群がる悪漢達を見渡していた。


 街灯に浮かび上がるその横顔に、ぞっとする。

 ナデシコとて、この少女の全てを知るわけではない。

 彼女の素顔を全て、覗き込んだわけではない。


 それでもなお、戦慄してしまう。


 少女が纏うその気配に。


 彼女の中にいる、“なにか”の異質な気に。


「アイリス……あんた……」

「じっとしてなよ。間違っても“僕”の邪魔はしないで。じゃないと、あんたも叩き潰すかもしれないよ」


 声はアイリスのそれだ。

 だが明らかに、口調、言葉の選び方が別人である。


 ここでようやく、男達が事態に追いつく。

 覚醒した少女目掛けて、悪漢達はやはり躊躇することのない暴力で襲い掛かってくる。


 ナデシコも足に力を込め、動こうとした。

 しかし、それよりも早く、少女が踏み込む。


 一撃、また一撃。


 ただひたすら、向かってくる男の攻撃をかわし、そして交差的に拳を叩き込む。

 そのすべてが狂うことなく、相手の急所を打ち抜き、一撃の元に沈めていく。


 少女のそのフットワークは、恐ろしく軽い。

 男達の攻撃を巧みな体さばきでかわし、距離をとり、かと思ったら接近し――ナデシコの周囲を縦横無尽に駆け回り、襲い掛かってくる男達をたった一人で手玉に取っている。


 攻撃に関しても、ただの怪力などではない。

 しっかりとしたフォームで、効果的な速度で、的確な箇所に打ち込んでいる。


 それでいて、防御、回避の立ち回りも完璧だ。

 上半身を柔軟に動かし、相手の攻撃をたくみに捌ききっている。


 一定の速度ではなく、緩急を激しく混ぜ合わせた動きで、相手を幻惑していた。


 最適な位置に、最速で肉体を滑り込むその“技術”。

 それは明らかに、今までの少女が使わなかった、あまりにも高度な代物しろものであった。


 拳法というよりも、それはもっと近代的な防御テクニック――ナデシコが真っ先に思い描いたのは“ボクシング”のそれだった。


 洗練され、研ぎ澄まされた武器。

 その鮮やかさに、誰一人ついていくことができない。


 少女の拳がはしる度、そこら中で悲鳴が上がった。

 黒い“風”のように闇の中を駆け巡り、一人、また一人と着実に叩き潰していく。


 時間にして一、二分で、ようやくアイリスは止まった。


 周囲に群がっていた男達は皆、地に伏せて動かない。

 ただ一人、改造銃を携えたリーダー格の青年だけは、銃口を持ち上げたまま、唖然あぜんとしている。


 もはや、今までのような余裕はどこにもない。

 驚愕したその顔にはおびただしい汗が滲みだし、呼吸は荒くなっていく。


 必死に自身を律しながら、目の前の少女に言い放つ。


「なんなんだ、君……いや――“お前”は……」


 残った一人と対峙し、アイリスはふぅとため息をつく。

 あれだけ動いておきながら、彼女の全身を濡らしていた汗は、消えてしまっている。


「それに答えてやる必要があると思う? うっとおしい玩具使いやがって。お前は――一、二発じゃあすまないからな」


 ギラリと、少女の瞳で光が滑った。

 戦いの熱を貫いて、ありったけの冷たさが空間を染める。


 瞬間、青年は歯を食いしばり、発砲していた。

 迷うことなく、狙いを少女の頭部に合わせて。

 全身が発する危険信号を細胞がいち早く察し、反射的に動く。


 一発が外れる。

 アイリスが左右に高速で移動し、弾丸の軌道から身をかわしていた。


 二発、三発、四発――どれだけ空気が爆ぜても、まるで無意味だ。

 アイリスのあまりにも無秩序な身のこなしが、弾丸をかわし続ける。


 目の前で行われる攻防に、ナデシコは呼吸すら忘れてしまう。

 弾丸という近代兵器を無効化し、少女はおぞましい笑みを浮かべ、身をひるがえしていた。


 もはやそれは格闘技の防御術などではない。

 本能のまま足を運び、体を滑らせ、最適な場所へと肉体を送り込む自然体。


 誰に教わるでもなく、細胞に備わった天然の闘争術。

 獣の足さばきで、アイリスが青年にたどり着く。


 もう一撃――青年は引き金に力を込め、乾いた感触に絶句した。


 弾切れを察し、手元に視線を走らせる。

 瞬間、その顔面をアイリスの拳が打ち上げた。


「ぶぎッ――!!」


 あまりにも間抜けで、おぞましい悲鳴が上がる。

 初めて芯を捉えたその打撃は、一撃で青年の鼻骨を粉砕し、血を噴き上げた。


 激痛と恐怖が、青年の戦闘意志を削ぎ落とす。

 たった一発で、青年の肉体は戦いよりも、素直な敗北を望んだ。


 がくりと膝が落ちるが、アイリスが男の手を拳銃ごと掴み、引き上げた。


 めきりと、指と銃身が一緒に曲がる。

 重なる激痛と、すぐ至近距離から放たれる脅威。

 青年の喉元から、か細い悲鳴が上がった。


「ひ――許し――」


 その情けない訴えを、轟音がさえぎった。

 アイリスの拳が男の鳩尾みぞおちをえぐり、貫く。

 あまりに深々と叩き込まれた“鉄”の感触に、男はついに呼吸を止めてしまう。


「許すとか許さないとか、もう関係ないでしょ? ここまでしといてさぁ」


 あまりにも無慈悲な言葉と共にもう一撃、男の顎を拳がかちあげた。

 血しぶきの中に、砕けた白い歯が飛び散る。


 降り注ぐそれらを避け、なおもアイリスは拳を叩く。


 夜の闇の中、街灯のぼんやりとした光に照らし出された空間には、悪夢が広がっていた。

 凶器ごと握りつぶした手を掴んだまま、抵抗もできない男の肉体に少女は拳を突き刺していく。


 胸に、腹に、首に、腕に――一撃一撃が酷く重い。

 小さく握り固めたそれはまさに“鉄塊”だった。

 打ち込むたびに鋭く刺さり、皮膚と肉をえぐり、その奥の骨すら歪める。


 戦いなどではない。

 そこで行われているのは、ただの“拷問”だ。


 打ち込まれるたび、打撃の音に男の悲鳴が重なる。

 倒れることも許さず、逃げることも許されない。

 ただひたすら、鬱憤うっぷんを晴らすように、アイリスは無慈悲に拳を打ち込んでいく。


 なおも少女は笑っていた。

 無機質な笑みを張り付けたまま、深く、暗く、どこまでも黒い瞳で獲物を見つめている。


 少女のその豹変ぶりに、ナデシコはしばらく動けなかった。

 地に伏せたまま、ただ目の前で行われるその凄惨な“ショー”に、息が止まりそうになる。


 怒りがあるのは、もちろんだろう。

 やられたことに対する、仕返しを考えるのが人間だろう。


 だが目の前のそれは、そんな範疇はんちゅうを超えてしまっている。


「アイリス……」


 声は届かない。


 青年はすでに気を絶していた。

 顎が砕け、だらりと開け放たれた口元から、大量の唾液と血が流れ落ちている。

 目は焦点が定まらない。

 足にも力が入らず、ただアイリスに無理矢理立たされている状態だ。


 それでもなお、アイリスはやめない。


 ただただ、思うがままに、拳を叩き込み続ける。

 抵抗すらせず、青年の顔が上へ、右へ、左へと弾かれ、そのたびに足元に真っ赤なしぶきを走らせた。

 意識があるうちに、失禁していたのだろう。

 ズボンがぐっしょりと濡れ、鮮血がどんどんとそこに重なっていく。


「ねえ……アイリス……!」


 答えはない。


 ただただ、少女は笑っている。


 白い頬に返り血を浴び、それでもなお拳を止めない。


 腹に突き刺さった一撃が、乾いた音を響かせる。

 あばら骨の折れた音を、ナデシコまでもはっきりと確認できた。


「アイリス………アイリス……!!」


 拳を引き絞り、狙いを定める少女。

 そんな彼女目掛けて、ようやくナデシコは駆け出していた。


「――やめろッ!!」


 振り上げられた手首を、ナデシコは掴んで止める。

 指先に伝わるあまりにも異質な熱に、息を呑んでしまった。


 白い肌と、柔い肉。

 その奥底に、確かに感じる、異形の固さ。


 塗り固められ、圧縮された、鋼のような堅牢さ。


 アイリスはコチラを一瞥いちべつし「ふんっ」とつまらなそうにそれを振りほどいた。

 少女の怪力に、ナデシコの身体が転びそうになってしまう。


 ようやく、彼女は男を手放した。

 青年は泡を吹き、白目をむいたまま力なく倒れる。

 もはやそれは、人間というより紐の切れた肉人形だ。


 もう少し止めるのが遅ければ、致命傷になっていただろう。

 あと数発、アイリスの拳が男をえぐれば、絶命していた可能性すらある。


 ナデシコは立ち上がり、少女と対峙した。

 今までにない覇気と、あまりにも異質な怒気をはらんだ彼女を、拳を握り、見据える。


 探偵の険しい表情に、あくまでアイリスは軽く笑って返した。


「そんなに怒るなよ。こういう馬鹿は、痛い目見ないと分からないだろう? トラウマの一つや二つ、植え付けてやらないと、また同じように無礼を働くだろうからね」

「だからってあんた……やりすぎだろう。死んじまったら、どうするんだい!」

「それはまあ、事故ってことさ。だいたい、凶器を持ち出したのは向こうなんだし、自業自得だよ」


 その口調はあまりにも軽率で、そこに命の重みなどは考慮されていない。

 今までのアイリスのそれとは明らかに異質だ。


 弱き者がしいたげられることは当たり前――弱肉強食という概念に、これっぽっちも迷いがなく、疑問すら抱いていない。


 心にまるで揺らぎがない。

 だからこそ、人間と話しているという感覚が、まるで持てない。


 ナデシコはごくりとつばを飲み込み、身構えたまま前を向く。


「あんた――何者だい?」


 自分でも、頓狂とんきょうな問いだと理解している。


 アイリスはアイリスで、それ以外の何者でもない。

 そんなことは、理解している。


 理解しているからこそ、問いかけずにはいられない。


 この少女の中に今、居座っている、その“存在”に。


 くすくすと、アイリスは笑う。

 少女は目を細め、こちらを見つめた。


「安心しなよ。“僕”はあんたの敵じゃあない。あんた、“こいつ”に随分と良くしてくれたからね。叩き潰したりはしないからさ」

「あんた……アイリスじゃあないのかい?」

「まぁ、半分そうで、半分違うかな。“こいつ”はいつもどんくさくて、見ているとイライラするんだ。だから面倒事になった時は、いつも“僕”がどうにかしてやってる。おせっかいな友人さ」


 つぅ、とナデシコの頬を、汗が伝う。

 荒唐無稽なその言葉が、それでもどこか嘘偽りではないと理解できてしまう。


「あの時だってそう――こいつだけじゃあ、きっとあの場で殺されてた。あの時は、ああするしかなかったのさ」


 少女の言葉に、少し首をかしげてしまう。

 そのわずかな言葉の中から、ナデシコは自身の記憶の奥底に埋もれかけていた、事実を掘り起こす。


 あの時――それはアイリスという少女が、ナデシコと出会うきっかけとなった、過去を指している。


 路地裏で起こった殺人事件。

 記憶のないアイリスが遭遇した、殺人現場。


 記憶がなかったのではない。

 あの時、彼女の身体を動かしていたのは、アイリス自身ではなかったのだ。


 また一つ、ごくりとつばを飲み込む。

 慎重に、真剣に問いかけた。


「あんたなんだね……あの時、あの事件現場にいたのは」

「ああ、そうさ。だけど、はっきり言っておくよ。“僕”はやってない。もちろん“こいつ”もね」

「じゃあ、誰が――あんた、犯人を見たのかい?」

「ああ。だけど、残念ながらはっきりと顔は分からない。それでも確かに、あの場所には“あいつ”がいたんだ。その後ろ姿だけは、覚えてる」


 あの時、アイリスはいわば、眠っていたのだ。

 たまたま殺人現場に遭遇したのは、今、アイリスの体の中にいる“彼”。


 どこまで、信じればいい――ナデシコは慎重に思考を巡らす。


 アイリスの肉体に宿った、その異質な存在の言葉に、どこまで耳を傾けるべきか。


 確証は何一つない。

 “彼”の語った言葉にも、あくまで証拠たるものは何一つない。


 しかし、もし“彼”の言葉が真実なら、やはりナデシコ達が追い求めていた“無罪”という真実が見えてくる。


 少女ではなく、別の真犯人がいる。

 その事実を掘り起こすことができれば、アイリスの潔白を証明できるのだ。


 掴みかけた手掛かりに、思考を巡らすナデシコ。

 しかし、アイリスはため息をつき、あくまでどこか気だるそうに夜空を見上げた。


「さて、と。僕の役目はここまでだ。あとはまた、よしなにやってくれ」

「ッ!? ちょ、ちょっと待って――」

「もう、良い子はおねむの時間だ。またその時が来たら、出てきてやるよ」


 あまりにも勝手な言い分に、ナデシコは思わず駆け寄ろうとした。

 しかし、少女の言葉に足を止めてしまう。


「頼んだよ。こいつ、あんたのことは信頼してるみたいだからさ」

「えっ――」

「“こいつ”が誰かを慕うなんて、滅多にないんだからさ。あんたのことは好いてるんだ。頼もしい“探偵”さんだってね」


 少しだけ、少女の視線がこちらに向けられる。


 やはりその瞳に、邪念は感じられない。

 ゆえに無垢な危うさと、鋭さ、そして潔白さが瞳の中に渦巻いている。


 不思議な感覚だった。

 恐ろしさが消え去り、今はただただ、純粋無垢な輝きがその瞳に宿っている。


 身動きできず、ただただ驚くことしかできないナデシコを見て、アイリスは笑う。

 どこか意地悪に、そして無邪気に。


「あんたなら、できるかもな。“こいつ”を――救ってやってよ」


 アイリスはその言葉を最後に、少しだけ頭上に目を走らせ、夜空を眺めた。

 たまらずナデシコも、首を持ち上げてしまう。


 いつの間にか、夜空には無数の星々が瞬いていた。

 戦いの中に身を置き、危機と緊張にまみれていた心が、ふっと軽くなる。


 星空を見つめ、確かにアイリスは笑った。

 そのまま彼女は目を閉じ、すぅっと意識を失う。


 倒れる少女を、すんでのところでナデシコは抱きかかえる。

 腕に伝わってきたあまりにもつたない重さに、思わず少女の顔を覗き込んだ。


 気絶したアイリスは、静かに眠っているかのようだった。

 まるで恐れや痛みを知らない子供のように、すぅすぅと寝息を立てている。


 遥か彼方から、サイレンの音が聞こえてきた。

 喧噪けんそうが遠のき、再び公園には夜風と、隣接した海岸の潮の音だけが響き渡る。


 男達のむくろの中央で、アイリスを抱きかかえたまま、ナデシコはしばし立ち尽くしてしまう。

 なにからなにまで、分からないことだらけだ。

 自分が踏み込もうとしている“真実”の浮世離れした複雑さに、歯噛みしてしまう。


 いったい、何者なんだい―—心の中で問いかけても、少女には届かない。


 再び見上げた空では、変わらず星々が輝いていた。

 見慣れたはずのその夜空が、今はひどく広大で、果てしなく、恐ろしくなってしまう。

 

 気がついた時には、少女を抱きかかえた拳に、微かな力が込められていた。


 己の中に渦巻く、恐怖を押し殺すように。

 ナデシコはただただ星の光を見つめたまま、自身の無力さを嘆き、歯噛みしていた。

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