19. 彼女の中の“僕”
時間にしてものの数分ではあるが、少女にとってはひどく長い間、走り続けていたように錯覚してしまう。
夜中の闇に包まれた公園で、あてもなくただ逃げ続けるというのは、ひどく孤独だ。
いくつも脇道に滑り込み、時には茂みを突っ切りもした。
気がついた時には追っ手はいなくなっていたが、代わりに自分がどこにいるのかも見失ってしまう。
街灯の
黒いドレスのそこかしこが破け、木の葉や枝がまとわりついているが、今はそれどころではない。
熱くて仕方がない。
走っただけで、ここまで体内の熱は
戦ったから――思わず、自身の手を見つめる。
か細く、白い肌の所々が擦り剥け、微かに血が
この手で、いったい何人の男を叩きのめしたのだろう。
自分でも“異常”だと分かっている。
だがそれでも、湧き上がる衝動を抑えることができなかった。
ナデシコが傷付けられる姿を見て、考えるよりも先に細胞が動き出していたのだ。
どれだけ恐ろしくても、肉体が軋み悲鳴を上げても、動かずにはいられなかったのである。
必死に熱を排出しながら、アイリスは考える。
どちらに逃げるべきか、どうやってナデシコ達と合流すべきか、を。
ふらふらと力なく、夜風が吹きすさぶ公園の中を歩いていく。
朧げな眼差しの前に現れたのは、更なる絶望だった。
「いたいた、ちょこまかと逃げやがってよ」
立ちはだかったのは、バンダナを巻いた大柄な男である。
一瞬、そのぎらついた視線にたじろいでしまうが、すぐに拳を握り、身構えた。
もはや全力で走ったとしても、逃げ切れそうにない。
体力など、とっくの昔に尽きてるのだ。
やれるとしても、一手、二手の攻防が限界だろう。
呼吸を荒げるアイリスに、問答無用で襲い掛かってくる巨漢。
男が拳を振り上げた瞬間、すぐ真横の茂みが
「はい、そこまでぇーーー!!」
植木を蹴破りながら飛び出したその姿に、アイリスが目を見開く。
茂みに潜んでいたナデシコが、男の顔面に真横から跳び蹴りを叩き込んでいた。
的確にこめかみを射抜いたそれが、男の意識を見事に弾き飛ばす。
どさり、と横たわる男の横に、音もなく着地するナデシコ。
彼女は体に
「ナデシコぉ!!」
「どう、ナイスタイミングだったでしょ? ごめんね、もうちょい手際よく――」
話し終わる前に、アイリスがナデシコに飛びつく。
凄まじい力で締め付けられ、変な声を上げてしまった。
「おぉうっ!? ちょ、なにして……」
「ナデシコ……ナデシコぉ!! わああああああ!!」
アイリスは顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。
間近でこちらを見上げてくる少女の、痛々しい表情に息を呑む。
「ごめんなさい……私……助けに行こうとしたけど……うまくできなくって……私のせいでッ……!」
泣きじゃくるアイリスを見つめ、ナデシコは一瞬、言葉を失ってしまう。
しかし、すぐに彼女の後悔の意味する所に気付き、苦笑した。
「そんなの良いって。あんたが悔やむことじゃあないさ。むしろ、よくやった方だと思うよ。しっかりと一人で、戦えてたじゃあないか」
肩に手を添え、少女に言い聞かせる。
アイリスは「でも」と涙を流したまま、こちらを見つめていた。
「今、
遠くから、男達のうめき声や悲鳴が聞こえてくる。
今もなお、女刑事・ユカリが孤軍奮闘しているのだろう。
巻き込んでしまったことは申し訳なく思うが、ユカリの実力では悪漢が何人束になっても、
パトカーのサイレンが聞こえてくるのも、時間の問題である。
どれだけ悪漢の数が多かろうとも、さすがにこれで終局だろう。
「入り口に戻るわけにはいかないから、このままもう一度、身を隠そう。ちょっとばかし格好悪いけど、今は時間稼ぎするのがベターってもんよ」
「う、うん……」
これ以上、やつらと戦う体力も気力も、二人には残っていない。
今はとにかく、どこかに隠れて息をひそめ、回復することが先決だ。
再び茂みの中に戻ろうと歩き出すナデシコ。
アイリスも涙をぬぐい、ナデシコの背中――革ジャンにプリントされた“竜巻”を見つめる。
少女が一歩を踏み出したのと、“炸裂音”が空気を揺らしたのは、同時だった。
パァン、という乾いた音と共に、ナデシコの左肩が爆ぜる。
真っ赤な血が吹き上がり、探偵の身体ががくりと沈んだ。
目を見開くアイリス。
激痛と衝撃に言葉が出ないナデシコ。
「本当に厄介な人達だよ、まったく」
倒れ込み、それでもなんとか片膝で耐えるナデシコ。
二人が顔を上げると、やはりそこには複数名の男の姿があった。
その中央で、見覚えのあるキャップをかぶった青年が、銃口をこちらに向けている。
改造したガス銃の銃口から、一筋の硝煙が昇っていた。
かつて、娯楽施設「キングダム」で遭遇した、悪漢達のリーダー格である。
青年の視線と手にした凶器の姿に、今この場で何が起こったかを悟った。
撃たれた――事態を把握し、立ち上がろうと歯を食いしばるナデシコ。
そんな彼女の太ももに、もう一発、銀玉が叩き込まれた。
激痛から声を上げそうになる。
ナデシコは悲鳴を押し殺し、
アイリスの鼓動が、再び加速を始める。
男達はすぐさま二人を取り囲んでしまった。
「安心しなよ、どこまでいったって
至近距離でもう一発、青年はナデシコの腕を打ち抜いた。
弾丸はいともたやすく皮膚と肉をえぐり、血を噴き上がらせる。
声を押し殺すナデシコ。
身動きの取れないアイリス。
戦慄する二人を前に、青年は悠々と言ってのける。
「何発も叩き込めば、さすがに死んじゃうかもね。血がなくなるか、あるいは痛みに耐えきれないか、どっちかでね」
飄々と言ってのけるその目は、まるで笑っていない。
かつて取り逃したナデシコら二人をまじまじと見つめている。
またもすんでのところで、二人の目の前から“希望”が消え去ってしまう。
「参ったよ、本当。まさか女の子二人を捕まえてくるのに、ここまで手こずらされるなんてね。投げ飛ばされた挙句、兵隊を何人もやられてる。面目丸つぶれってやつさ」
静かなる怒りが、彼の言葉には秘められていた。
たった二人の女性にコケにされたのでは、不良チームとして示しがつかない、というところだろう。
彼はガス銃に弾丸を込めなおし、音を立てて装填を完了する。
そして、その銃口はアイリスに向けられた。
ひっ、と声を上げた時には、背後にいた男がアイリスを
身体ごと釣り上げられてしまい、まるで抜け出せない。
どれだけ抵抗しようとも、アイリスを丸太のような腕が、がっしりとホールドしている。
青年は静かに、
「大人しくしてもらうため――ってのは、ずるい口実かもしれないね。悪いけど、僕もやられっぱなしを飲み込めるほど、人ができてはないんだ。コケにされた分、少し
かちり、と撃鉄を引く音が聞こえた。
目的などない、腹いせのための一発。
その狂気的な一撃は、まっすぐアイリスのか細い胴体に向けられている。
歯噛みしたまま、ナデシコは汗を浮かべ、言葉をひねり出す。
「やめろ……その子は……関係ない……」
近くに立っていた男が、容赦なくナデシコの背中を踏みつけた。
探偵の
アイリスは弱弱しく「あぁ……」と声を震わせることしかできなかった。
焦点が定まらない。
掴みかけた光が、再び握りつぶされたという絶望。
再会できたはずの探偵が、再び地を
そしてこれから、自分に鉄槌が撃ち込まれるという事実。
ぐわんぐわんと、頭が揺れた。
視界が狭まり、世界が収縮し始める。
キャップの青年は冷たく、無機質な言葉をなおも投げかけた。
「関係ないことはないさ。子供が大人の世界にしゃしゃり出るから、火傷をする。“おいた”をしすぎたのは君達のほう。しかるべき報いは、きっちりと受けなくちゃあならないんだ。それがこの世界の――“
白く染まっていく世界の中で、あまりにも非情なリアルの中で、鼓動の音がやたら大きい。
どくん、どくんと脈打つそれの裏で、“声”が聞こえた。
音が消える。
限りなく透明になったその空間で、それでも声だけははっきり聞こえた。
アイリスの鼓膜を震わせたのは、青年の言葉でも、地に伏せた探偵のそれでもない。
もっと遥か昔から、アイリスが知っている声だった。
『やっぱり、なにもできなかったね――』
目を見開く。
すぐ耳の側で“彼”は言う。
『気に病むなよ。充分頑張ったほうさ。邪魔者だって、何人も倒しただろう――』
周りの景色が、速度を失う。
止まってしまったモノクロの世界の中で、今はただ、その声に身を委ねた。
『
自然と鼓動が穏やかになる。
四肢の力が抜け、呼吸が穏やかになっていく。
一つ、また一つと感覚が消え、やがて声だけが世界を支配した。
『安心しなよ。いつもどおり、ここからはやってやる。あの時みたいに――“僕”にまかせな』
ふっと、瞳の光が消えた。
今まで失われていた感覚が、一気に戻ってくる。
生暖かい夜風、鼻をくすぐる緑、そして遠くから漂う潮の香り。
嫌にぎらつく、
肉体に宿る熱と、自身を羽交い絞めにした男の腕の感触、すぐそばの体臭。
キャップの青年は、迷わず指に力を込める。
銃口はぴたりと、少女の胴体に定められていた。
殺すこともなく、しかし無事では済まさない最高の玩具を、まるで動じることなく操る。
想像通りの痛みは、想像を超える恐怖を植え付ける。
簡単なことであった。
これこそ、いつも彼らがやってきた、弱き者を屈服させる唯一の方法である。
ナデシコは拘束を振りほどこうにも、地に伏せたまま何もできない。
ただ歯噛みし、背中に伝わる男の体重に足掻いていた。
また一つ、パンッと空気が爆ぜる。
弾丸は予定通りの軌跡を描き、皮をえぐり、肉を削ぐ。
鮮血がバッとほとばしり、かきむしるような痛みを全身にほとばしらせた。
弾丸を放った青年も、周囲を取り囲む悪漢達も、そして地に伏せたままのナデシコも――絶句していた。
アイリスは無傷だった。
彼女はとっさに自身を拘束している男の腕を掴み、弾丸を防ぐ“盾”として利用している。
彼女の圧倒的な握力は、男の手首を捻じり折っていた。
制御を失った巨腕には弾丸が深々と食い込み、おびただしい量の血が流れ出ている。
男もようやく事態を察する。
そしてその身を貫いた激痛に、悲鳴が上がった。
あまりにも突拍子もない出来事に、誰も動けずにいる。
その中で唯一、少女だけが静かに言い放った。
「ぎゃあぎゃあやかましいんだよ、でくのぼう。ほら、放せよ。“僕”のドレスが汚れるだろうが」
いつもとは明らかに異なるその波長に、ナデシコだけが気付く。
男達が言葉に反応するよりも明らかに早く、そして驚くほど手際良く、少女は動いていた。
アイリスは肘を男の脇腹にめり込ませ、腕の力が緩んだ隙に脱出してしまう。
彼女は更に振り向きながら、男の顔面目掛けて拳を一閃する。
一見、それは空振りのように見えた。
しかし、拳は男の顎すれすれを捉え、弾き飛ばす。
この一撃が男の脳みそを激しく揺さぶり、一瞬で
どさりと倒れる巨漢を背に、アイリスが顔を上げる。
いつもと変わらない、少女の顔。
白い肌に微かに浮かび上がった汗が輝いていた。
周囲の闇に合わせ、長く黒い髪と、ドレスの
少し遅れて、ナデシコ以外の男達も一斉に、察する。
違う――小さな体を
姿形は、先程までの少女のそれと同様だ。
だが、その小さな体から発せられる、見えざる気迫。
悪漢相手に大暴れしていたあの時よりもさらに鋭く、硬く、そして冷たい殺気。
大きく見開かれた彼女の瞳の
その得体のしれない“なにか”を、ナデシコと悪漢達は確かに感じ取っていた。
キャップの青年が再び、撃鉄に指をかける。
しかし、その銃口の先から少女の姿が消えた。
ナデシコが声を上げそうになる。
戦いに慣れた目を持つ彼女だけが、いち早くその動作を認識できた。
アイリスは急加速し、ナデシコを抑え込んでいる男の眼前に移動していた。
あまりの素早さに男達の反応が、まるで遅れてしまう。
ただ一人、すぐ目前に迫る少女のその顔に、男が息を呑む。
獣――人の形をしているはずの“それ”から伝わる、あまりにも純度の高い意志。
頭三つほども体の大きな男が、こちらに向かってくる小さな影に、確かな恐怖を覚えていた。
「ぼさっとしてんなよ、のろま」
はっきりと言い放ち、アイリスは男の顎目掛けて、またもや拳を刺す。
先程同様、一撃はいともたやすく男を気絶させ、無力化させてしまった。
地に伏せるナデシコの背中から、重さが消える。
すぐ隣に、白目をむいた男がどさりと倒れてきた。
とっさに起き上がり、アイリスを見上げる。
彼女はすでに視線を男から外し、周囲に群がる悪漢達を見渡していた。
街灯に浮かび上がるその横顔に、ぞっとする。
ナデシコとて、この少女の全てを知るわけではない。
彼女の素顔を全て、覗き込んだわけではない。
それでもなお、戦慄してしまう。
少女が纏うその気配に。
彼女の中にいる、“なにか”の異質な気に。
「アイリス……あんた……」
「じっとしてなよ。間違っても“僕”の邪魔はしないで。じゃないと、あんたも叩き潰すかもしれないよ」
声はアイリスのそれだ。
だが明らかに、口調、言葉の選び方が別人である。
ここでようやく、男達が事態に追いつく。
覚醒した少女目掛けて、悪漢達はやはり躊躇することのない暴力で襲い掛かってくる。
ナデシコも足に力を込め、動こうとした。
しかし、それよりも早く、少女が踏み込む。
一撃、また一撃。
ただひたすら、向かってくる男の攻撃をかわし、そして交差的に拳を叩き込む。
そのすべてが狂うことなく、相手の急所を打ち抜き、一撃の元に沈めていく。
少女のそのフットワークは、恐ろしく軽い。
男達の攻撃を巧みな体
攻撃に関しても、ただの怪力などではない。
しっかりとしたフォームで、効果的な速度で、的確な箇所に打ち込んでいる。
それでいて、防御、回避の立ち回りも完璧だ。
上半身を柔軟に動かし、相手の攻撃を
一定の速度ではなく、緩急を激しく混ぜ合わせた動きで、相手を幻惑していた。
最適な位置に、最速で肉体を滑り込むその“技術”。
それは明らかに、今までの少女が使わなかった、あまりにも高度な
拳法というよりも、それはもっと近代的な防御テクニック――ナデシコが真っ先に思い描いたのは“ボクシング”のそれだった。
洗練され、研ぎ澄まされた武器。
その鮮やかさに、誰一人ついていくことができない。
少女の拳が
黒い“風”のように闇の中を駆け巡り、一人、また一人と着実に叩き潰していく。
時間にして一、二分で、ようやくアイリスは止まった。
周囲に群がっていた男達は皆、地に伏せて動かない。
ただ一人、改造銃を携えたリーダー格の青年だけは、銃口を持ち上げたまま、
もはや、今までのような余裕はどこにもない。
驚愕したその顔にはおびただしい汗が滲みだし、呼吸は荒くなっていく。
必死に自身を律しながら、目の前の少女に言い放つ。
「なんなんだ、君……いや――“お前”は……」
残った一人と対峙し、アイリスはふぅとため息をつく。
あれだけ動いておきながら、彼女の全身を濡らしていた汗は、消えてしまっている。
「それに答えてやる必要があると思う? うっとおしい玩具使いやがって。お前は――一、二発じゃあすまないからな」
ギラリと、少女の瞳で光が滑った。
戦いの熱を貫いて、ありったけの冷たさが空間を染める。
瞬間、青年は歯を食いしばり、発砲していた。
迷うことなく、狙いを少女の頭部に合わせて。
全身が発する危険信号を細胞がいち早く察し、反射的に動く。
一発が外れる。
アイリスが左右に高速で移動し、弾丸の軌道から身をかわしていた。
二発、三発、四発――どれだけ空気が爆ぜても、まるで無意味だ。
アイリスのあまりにも無秩序な身のこなしが、弾丸をかわし続ける。
目の前で行われる攻防に、ナデシコは呼吸すら忘れてしまう。
弾丸という近代兵器を無効化し、少女はおぞましい笑みを浮かべ、身をひるがえしていた。
もはやそれは格闘技の防御術などではない。
本能のまま足を運び、体を滑らせ、最適な場所へと肉体を送り込む自然体。
誰に教わるでもなく、細胞に備わった天然の闘争術。
獣の足さばきで、アイリスが青年にたどり着く。
もう一撃――青年は引き金に力を込め、乾いた感触に絶句した。
弾切れを察し、手元に視線を走らせる。
瞬間、その顔面をアイリスの拳が打ち上げた。
「ぶぎッ――!!」
あまりにも間抜けで、おぞましい悲鳴が上がる。
初めて芯を捉えたその打撃は、一撃で青年の鼻骨を粉砕し、血を噴き上げた。
激痛と恐怖が、青年の戦闘意志を削ぎ落とす。
たった一発で、青年の肉体は戦いよりも、素直な敗北を望んだ。
がくりと膝が落ちるが、アイリスが男の手を拳銃ごと掴み、引き上げた。
めきりと、指と銃身が一緒に曲がる。
重なる激痛と、すぐ至近距離から放たれる脅威。
青年の喉元から、か細い悲鳴が上がった。
「ひ――許し――」
その情けない訴えを、轟音が
アイリスの拳が男の
あまりに深々と叩き込まれた“鉄”の感触に、男はついに呼吸を止めてしまう。
「許すとか許さないとか、もう関係ないでしょ? ここまでしといてさぁ」
あまりにも無慈悲な言葉と共にもう一撃、男の顎を拳がかちあげた。
血しぶきの中に、砕けた白い歯が飛び散る。
降り注ぐそれらを避け、なおもアイリスは拳を叩く。
夜の闇の中、街灯のぼんやりとした光に照らし出された空間には、悪夢が広がっていた。
凶器ごと握りつぶした手を掴んだまま、抵抗もできない男の肉体に少女は拳を突き刺していく。
胸に、腹に、首に、腕に――一撃一撃が酷く重い。
小さく握り固めたそれはまさに“鉄塊”だった。
打ち込むたびに鋭く刺さり、皮膚と肉をえぐり、その奥の骨すら歪める。
戦いなどではない。
そこで行われているのは、ただの“拷問”だ。
打ち込まれるたび、打撃の音に男の悲鳴が重なる。
倒れることも許さず、逃げることも許されない。
ただひたすら、
なおも少女は笑っていた。
無機質な笑みを張り付けたまま、深く、暗く、どこまでも黒い瞳で獲物を見つめている。
少女のその豹変ぶりに、ナデシコはしばらく動けなかった。
地に伏せたまま、ただ目の前で行われるその凄惨な“ショー”に、息が止まりそうになる。
怒りがあるのは、もちろんだろう。
やられたことに対する、仕返しを考えるのが人間だろう。
だが目の前のそれは、そんな
「アイリス……」
声は届かない。
青年はすでに気を絶していた。
顎が砕け、だらりと開け放たれた口元から、大量の唾液と血が流れ落ちている。
目は焦点が定まらない。
足にも力が入らず、ただアイリスに無理矢理立たされている状態だ。
それでもなお、アイリスはやめない。
ただただ、思うがままに、拳を叩き込み続ける。
抵抗すらせず、青年の顔が上へ、右へ、左へと弾かれ、そのたびに足元に真っ赤なしぶきを走らせた。
意識があるうちに、失禁していたのだろう。
ズボンがぐっしょりと濡れ、鮮血がどんどんとそこに重なっていく。
「ねえ……アイリス……!」
答えはない。
ただただ、少女は笑っている。
白い頬に返り血を浴び、それでもなお拳を止めない。
腹に突き刺さった一撃が、乾いた音を響かせる。
あばら骨の折れた音を、ナデシコまでもはっきりと確認できた。
「アイリス………アイリス……!!」
拳を引き絞り、狙いを定める少女。
そんな彼女目掛けて、ようやくナデシコは駆け出していた。
「――やめろッ!!」
振り上げられた手首を、ナデシコは掴んで止める。
指先に伝わるあまりにも異質な熱に、息を呑んでしまった。
白い肌と、柔い肉。
その奥底に、確かに感じる、異形の固さ。
塗り固められ、圧縮された、鋼のような堅牢さ。
アイリスはコチラを
少女の怪力に、ナデシコの身体が転びそうになってしまう。
ようやく、彼女は男を手放した。
青年は泡を吹き、白目をむいたまま力なく倒れる。
もはやそれは、人間というより紐の切れた肉人形だ。
もう少し止めるのが遅ければ、致命傷になっていただろう。
あと数発、アイリスの拳が男をえぐれば、絶命していた可能性すらある。
ナデシコは立ち上がり、少女と対峙した。
今までにない覇気と、あまりにも異質な怒気を
探偵の険しい表情に、あくまでアイリスは軽く笑って返した。
「そんなに怒るなよ。こういう馬鹿は、痛い目見ないと分からないだろう? トラウマの一つや二つ、植え付けてやらないと、また同じように無礼を働くだろうからね」
「だからってあんた……やりすぎだろう。死んじまったら、どうするんだい!」
「それはまあ、事故ってことさ。だいたい、凶器を持ち出したのは向こうなんだし、自業自得だよ」
その口調はあまりにも軽率で、そこに命の重みなどは考慮されていない。
今までのアイリスのそれとは明らかに異質だ。
弱き者が
心にまるで揺らぎがない。
だからこそ、人間と話しているという感覚が、まるで持てない。
ナデシコはごくりとつばを飲み込み、身構えたまま前を向く。
「あんた――何者だい?」
自分でも、
アイリスはアイリスで、それ以外の何者でもない。
そんなことは、理解している。
理解しているからこそ、問いかけずにはいられない。
この少女の中に今、居座っている、その“存在”に。
くすくすと、アイリスは笑う。
少女は目を細め、こちらを見つめた。
「安心しなよ。“僕”はあんたの敵じゃあない。あんた、“こいつ”に随分と良くしてくれたからね。叩き潰したりはしないからさ」
「あんた……アイリスじゃあないのかい?」
「まぁ、半分そうで、半分違うかな。“こいつ”はいつもどんくさくて、見ているとイライラするんだ。だから面倒事になった時は、いつも“僕”がどうにかしてやってる。おせっかいな友人さ」
つぅ、とナデシコの頬を、汗が伝う。
荒唐無稽なその言葉が、それでもどこか嘘偽りではないと理解できてしまう。
「あの時だってそう――こいつだけじゃあ、きっとあの場で殺されてた。あの時は、ああするしかなかったのさ」
少女の言葉に、少し首をかしげてしまう。
そのわずかな言葉の中から、ナデシコは自身の記憶の奥底に埋もれかけていた、事実を掘り起こす。
あの時――それはアイリスという少女が、ナデシコと出会うきっかけとなった、過去を指している。
路地裏で起こった殺人事件。
記憶のないアイリスが遭遇した、殺人現場。
記憶がなかったのではない。
あの時、彼女の身体を動かしていたのは、アイリス自身ではなかったのだ。
また一つ、ごくりとつばを飲み込む。
慎重に、真剣に問いかけた。
「あんたなんだね……あの時、あの事件現場にいたのは」
「ああ、そうさ。だけど、はっきり言っておくよ。“僕”はやってない。もちろん“こいつ”もね」
「じゃあ、誰が――あんた、犯人を見たのかい?」
「ああ。だけど、残念ながらはっきりと顔は分からない。それでも確かに、あの場所には“あいつ”がいたんだ。その後ろ姿だけは、覚えてる」
あの時、アイリスはいわば、眠っていたのだ。
たまたま殺人現場に遭遇したのは、今、アイリスの体の中にいる“彼”。
どこまで、信じればいい――ナデシコは慎重に思考を巡らす。
アイリスの肉体に宿った、その異質な存在の言葉に、どこまで耳を傾けるべきか。
確証は何一つない。
“彼”の語った言葉にも、あくまで証拠たるものは何一つない。
しかし、もし“彼”の言葉が真実なら、やはりナデシコ達が追い求めていた“無罪”という真実が見えてくる。
少女ではなく、別の真犯人がいる。
その事実を掘り起こすことができれば、アイリスの潔白を証明できるのだ。
掴みかけた手掛かりに、思考を巡らすナデシコ。
しかし、アイリスはため息をつき、あくまでどこか気だるそうに夜空を見上げた。
「さて、と。僕の役目はここまでだ。あとはまた、よしなにやってくれ」
「ッ!? ちょ、ちょっと待って――」
「もう、良い子はおねむの時間だ。またその時が来たら、出てきてやるよ」
あまりにも勝手な言い分に、ナデシコは思わず駆け寄ろうとした。
しかし、少女の言葉に足を止めてしまう。
「頼んだよ。こいつ、あんたのことは信頼してるみたいだからさ」
「えっ――」
「“こいつ”が誰かを慕うなんて、滅多にないんだからさ。あんたのことは好いてるんだ。頼もしい“探偵”さんだってね」
少しだけ、少女の視線がこちらに向けられる。
やはりその瞳に、邪念は感じられない。
ゆえに無垢な危うさと、鋭さ、そして潔白さが瞳の中に渦巻いている。
不思議な感覚だった。
恐ろしさが消え去り、今はただただ、純粋無垢な輝きがその瞳に宿っている。
身動きできず、ただただ驚くことしかできないナデシコを見て、アイリスは笑う。
どこか意地悪に、そして無邪気に。
「あんたなら、できるかもな。“こいつ”を――救ってやってよ」
アイリスはその言葉を最後に、少しだけ頭上に目を走らせ、夜空を眺めた。
たまらずナデシコも、首を持ち上げてしまう。
いつの間にか、夜空には無数の星々が瞬いていた。
戦いの中に身を置き、危機と緊張にまみれていた心が、ふっと軽くなる。
星空を見つめ、確かにアイリスは笑った。
そのまま彼女は目を閉じ、すぅっと意識を失う。
倒れる少女を、すんでのところでナデシコは抱きかかえる。
腕に伝わってきたあまりにも
気絶したアイリスは、静かに眠っているかのようだった。
まるで恐れや痛みを知らない子供のように、すぅすぅと寝息を立てている。
遥か彼方から、サイレンの音が聞こえてきた。
男達の
なにからなにまで、分からないことだらけだ。
自分が踏み込もうとしている“真実”の浮世離れした複雑さに、歯噛みしてしまう。
いったい、何者なんだい―—心の中で問いかけても、少女には届かない。
再び見上げた空では、変わらず星々が輝いていた。
見慣れたはずのその夜空が、今はひどく広大で、果てしなく、恐ろしくなってしまう。
気がついた時には、少女を抱きかかえた拳に、微かな力が込められていた。
己の中に渦巻く、恐怖を押し殺すように。
ナデシコはただただ星の光を見つめたまま、自身の無力さを嘆き、歯噛みしていた。
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