第2章:言の葉を紡ぐ「雷帝」

20. 女流作家と二つの“顔”

 壁にかかった大時計をおもむろに見上げると、予定時刻までもう15分を切っていた。

 つめかけた多くの群衆に向かって、スタッフの男性がメガホン越しに何度も声をかける。


「もう、まもなく登場となります。くれぐれも列を乱さないよう、その場で待機し、押し合ったりしないようお願いいたします。繰り返します。もう、まもなく――」


 浮足立つ面々に、その声はどうにも届いていないようだ。

 皆、一様にそわそわしながら、今か今かとその時を待っている。


 現場の様子を確認し、少女は素早くバックヤードへと駆けていく。

 今日はいつもの黒いドレス姿ではない。

 他の従業員同様、白地に“稲妻”模様の入ったスタッフTシャツを身に纏っている。


 せわしくなく動くスタッフ達の脇を抜け、進む。

 一歩、扉をくぐると、閉鎖感あふれる通路が続き、まるで方角が分からなくなってしまう。


 困惑する少女の姿を見つけた“彼女”が、大きく手を振った。


「おーい、アイリス! こっちこっち!」


 見覚えのある“探偵”の顔に、アイリスもようやく笑みを取り戻した。

 同様のTシャツを身に着けたナデシコの元に、すぐさま駆け寄る。


「ご、ごめん……帰り道が分からなくなっちゃって」

「目印がないから、ややこしいよね、この通路って。で、どうだった?」

「うん、凄い人数だよ。たぶん、百人超えてると思う」


 その一言に、ナデシコは「うっへぇ」と驚いて見せた。


「まじか、そんなに? いやぁ、本当に“あの子”、人気者なんだなぁ。んで、怪しそうなやつはいた?」

「う、ううん……見ただけじゃあ分からなかった。皆、普通のお客さんにみたいだったよ」

「まぁ、それだけいりゃあ、どこかに隠れてる可能性もあるしね。ひとまずは、楽屋まで戻ろうか」


 ナデシコの提案に、大きく頷くアイリス。

 二人は狭い通路を、できる限り急いで戻っていく。


 バックヤードの一室に作られた即席の“楽屋”にたどり着き、一応、ノックをして中に入る。

 二人が戻るや否や、女性が慌てて声をかけてきた。


「ど、どうでした、外の様子は!?」


 アイリスだけでなく、ナデシコまでもその勢いにたじろいでしまった。

 扉を閉めつつも、なんとか笑顔で答える。


「あぁ、えっと――だいたい、ざっと百人くらいは集まってるんじゃあないかな、って。ねえ?」


 視線を投げかけられ、アイリスが何度も首を縦に振った。

 百人くらい、という単語に、女性の顔色がどんどん悪くなる。


「ああああ、そんなに……ど、どうでしょうか。怪しい人はいましたか?」

「うぅん、今のところなんとも、ねえ。なにせ、全員を調べたわけでもないから」


 それは、ナデシコがアイリスに投げかけた問いと同様だった。

 しかしながら、この女性の慌てっぷりは、ナデシコとはまるで異なる。


 長い黒髪を後ろで束ねたスーツ姿の女性は「あぁ」だの「うぅん」だのと唸りながら、なにやら思考を巡らせているようだ。

 分かりやすく狼狽ろうばいする彼女を、ナデシコはひとまずなだめた。


「まぁ、スタッフもしっかり配置してるわけだし、そこまで心配しなくても大丈夫ですよ、チセさん」

「そ、そうだと良いんですけど……ああ、もう、ただでさえ不安だっていうのに、こんな時に……」

「ん? こんな時って、どうかしたんです?」


 チセは、視線を泳がせながら、焦っているわけを説明してくれた。


「いえ、まぁ、いつものことではあるんですが……“彼女”がまだ戻ってこないんですよ」

「ええ? だって、あともう少しで出番でしょう?」

「はい。メイクの最終チェックをして、待機しておいてほしいんですが……きっと、集中力を高めるための“仕上げ”に行ったのかなと」


 ナデシコとアイリスは、ほぼ同時に「仕上げ」と呟いてしまった。


「精神統一する必要があるから、って。一人になりたいから、大体行先は教えてくれないんですよ」

「そりゃあ、また、困った癖ですね。どこに行ったか、見当もつかない、と?」

「そうなんです……いつもはだいたい、ぎりぎりで戻っては来るんですけど……」


 このチセという女性は元々神経質なのだろうから“マネージャー”という役職は適しているのだろう。

 しかし、肝心の“彼女”のほうが、どうにもアクが強すぎるらしい。


 難儀な組み合わせだな――ナデシコがため息をつくと、背後の扉が開いた。


 くだんの“彼女”か、と期待したものの、そこには見覚えのある女刑事の姿があった。


「あれ、ねえさん! なんでここに?」

「ちょうど、隙間時間ができたものだから、気になって見に来てみたのよ。まぁでも、この様子だと、どうやらあまりうまくはいってなさそうね」


 意地悪な笑みを浮かべながら、女刑事・ユカリは眼鏡を直す。

 ナデシコは簡潔に、事態を説明した。


「なるほど。でも“彼女”なら、さっきすれ違ったわよ。まぁ、それこそ精神統一してたのか、物凄い形相ぎょうそうだったんで、声もかけられなかったんだけどね」

「えっ、本当かい!? どこにいたの?」

「確か、搬入口近くよ。そのまま、すぐそばのトイレに入っていったけど」

「おぉ、きっとそこだよ! 姐さん、サンキュー!」


 うろたえているマネージャー・チセに構わず、ナデシコはアイリスに合図する。

 二人は再び、楽屋から出て行ってしまった。


「ちょっくら呼び戻してきますよ。安心して、待っててください!」


 勢いよく駆け出した二人に、チセは何も言えない。

 唖然とする彼女の横で、ふぅとため息をつくユカリ。

 翻弄ほんろうされっぱなしのマネージャーを気遣い、言葉をかけた。


「ごめんなさいね。あの子、思いついたらまず体が動くタイプなんです」

「い、いえ、そんな……でも、正直なところ、やっぱり驚いてしまいます。本当にあの方が“探偵”なんですか?」


 眼鏡を直しながら、ユカリは頷く。


「ええ。まぁ、型破りこの上ないですけどね。それでも、個人的には腕は確かだと思っていますよ」


 この仕事にナデシコらを斡旋あっせんしたのは、他ならぬユカリであった。

 こうして様子を見に来たのも、紹介した手前、多少なりとも責任を感じているからでもある。


「ひとまず、今は目の前のイベントをこなすことを考えましょう。私も観客に紛れて、様子をうかがっておきますので」


 チセは深々と頭を下げ、手元の時計を何度も見直していた。

 焦ったところで、なにかが変わるわけではない。

 ユカリはため息をつき、飛び出していった二人の帰りを待った。






 ずんずんと進むナデシコの後ろを、はぐれないようにアイリスが必死についていく。

 すれ違うスタッフの面々に、ナデシコは「ども」と軽快に、そしてアイリスは慌てて頭を下げ、それぞれ挨拶を交わしていた。

 

 二人とも、バックヤードに足を踏み入れたのは、今日が初めてのことだった。

 にもかかわらず、ナデシコは行先に迷うことなく、軽快に進んでいく。

 目的地である搬入口近くのトイレまでどう行けばよいのか、明確に理解できているのだ。


「ナデシコ、すごいね……あれだけの説明で、よく道が分かるね」

「楽屋にいた時、暇だったから、建物の地図をずっと眺めてたのさ。こういうの、一度見たらなかなか忘れないんだよ」


 また一つ、迷うことなく角を曲がる。

 もう何度目になるか分からないが、資料を握りしめて慌ただしく駆けていくスタッフとすれ違った。


「それにしても、スタッフも凄い数だね。正直なところ、たかだか“握手会”って馬鹿にしてたんだけど、想像以上だよ。まるでアイドルの一大イベントみたいだね」

「うん。だって、あの“雷帝”だよ?」


 思いがけない一言に、ナデシコは少女に振り向く。


「そうか、そう呼ばれてるんだったね。こういう世界のことについては、私、さっぱりだからなぁ」

「本当、今でも信じられない。あの“雷帝”の握手会の、裏側にお邪魔できるなんて」


 この一件をユカリから持ち掛けられた際、意外にも真っ先に食いついたのはこのアイリスだった。


 ユカリにとっても“雷帝”なる人物は初耳だったし、そもそもナデシコが得意としない分野の案件だ。

 正直なところ乗り気ではなかったものの、アイリスが興味津々だったこともあり、今回の仕事を受けたのである。


 件の“雷帝”と称される人物の握手会。

 そのスタッフに成りすましつつ“あること”を防ぐため、潜入捜査をしているというわけだ。


 これも経験か――そんなことを考えながら、また一つ角を曲がる。

 徐々に建物の外に近付いているのか、随分と人通りも少なくなってくる。


 静かな通路を歩きながら、すぐ後ろの少女に問いかけた。


「そういや、体の方はもう大丈夫かい?」

「えっ……う、うん。もう、手の傷も、かさぶたになったから」

「へえ、そりゃあ良かったよ。なら、そろそろ全快って感じかな」


 嬉しそうに笑うナデシコに対し、どこかアイリスの表情が曇る。


「ん、どしたの?」

「私よりも……ナデシコの方が重症でしょう?」


 彼女の視線に気づき「ああ」と笑う。


「まぁ、まだ肩の傷は突っ張るけどね。でも、これくらいなんてことないさ。食うもん食って寝てりゃ、もうじき治るよ」


 それはあの晩、改造銃で撃たれた傷のことだった。

 大げさに肩を回して見せるが、やはりまだどこか傷跡に違和感は残る。


 平気な顔を見せても、なおもアイリスの表情は曇ったままだ。


「ごめんなさい……私のせいで――」

「だぁ、もぉ、また! 大丈夫だってのに。あの時のこと、そんなひきずらなくても良いっての」


 そうはいっても、やはり「でも」という言葉を続けてしまうのが、このアイリスという少女だ。

 根っからのネガティブな姿勢は、なかなか抜け切れるものでもない。


 思い返してみれば、もうあれからちょうど、一週間になる。

 悪漢達の激闘を終え、しばらく二人は傷を癒すことに専念していた。


 アイリスはあれからすぐ意識を取り戻したが、やはり戦いの後半――悪漢達を圧倒していた時の記憶は、抜け落ちていたらしい。

 しばらくは探偵事務所に引きこもり、療養を続け、こうしてようやく職場復帰できた、というわけである。


「なにはともあれ、こうして再び“お仕事”ができてんだから、問題ないさ。それに、あの時のことで、色々分かったこともあるわけだからね」


 あの時のこと、という単語で、先程までとは違う陰りが少女の顔に浮かび上がる。


「やっぱり、色々と思い出せそうにない?」

「うん……覚えてるのは、男の人に捕まったところまでだよ。その後は、気が付いたらあの事務所にいた……」

「そうかぁ。ならやっぱり、あの“僕”ってのが出てる時だけ、覚えてないってことだなぁ」


 うん、とうなずく少女のその顔は、いつも通りだ。


 戦いのさなか、極限状態を迎えたアイリスの中に現れた“僕”と名乗る存在。

 あれからアイリス自身に問いかけてみたが、彼女はその“僕”を直接は知らないらしい。


 つまるところ、あの“僕”が前に出ているときは、アイリスの精神は完全に眠りについている状態なのだろう。


 今までのことと総合して、ナデシコはある一つの仮説を立てていた。


 一つの肉体に、二つの精神。

 単一の器を行き来する、二つの“人格”。


 多重人格――正式には「解離性同一性障害」などと呼称される、精神疾患だ。


 どういった理由かは定かではない。

 ただ、この小さな少女の肉体の中に、今も確実に“僕”はいる。

 普段のアイリスとはかけ離れた、純粋で率直な殺意を振りかざす“僕”が。


 その彼のことを、アイリスはどうにも初めて知った様子だった。

 自分の中にもう一人、異なった自分がいるなどと、素直に信じられることではないのだろう。


 歩きながらうつむき加減で、アイリスは呟く。


「やっぱり私、“変”だよね……自分も知らないもう一人が、頭の中にいるって…」


 もう何度、その言葉を聞いただろうか。

 今更、抑制したところで、やはりこの少女の後ろ向きな思考は、止まらないのだろう。


 ナデシコもそれを理解した上で、続ける。

 あくまで自分らしい言葉で。


「まぁ、確かに変わってはいるよねえ。私も初めて見るよ。二つの人格、か」


 肯定されてしまったことに、よりいっそう、アイリスが沈み込む。

 だが、探偵はあくまで笑いながら続けた。


「面白いねえ。きっと何かの理由やタイミングで、意識が切り替わるってことなんだろうけどさ。一体全体、どういう仕組みでそんなことになるんだろう」


 腕を組みながら楽しげに悩むナデシコを、アイリスは目を見開いて見つめていた。


「ナデシコは……怖くないの?」

「怖い? なんで」

「だって……私の中に、もう一人、誰かがいるって……普通じゃないんだよ」


 その一言を聞いてもなお、探偵の笑顔が崩れることはない。


「ああ、確かに、普通じゃないと思うよ。でも、それって特別――人より“オリジナル”ってことだからね。そんな子と出会うことなんて、それこそ普通はなかなかあり得ないさ」


 自分を拒絶しない、目の前を行く彼女に、ただアイリスは驚くしかない。

 今までそんな言葉を投げかけられたことなど、一度たりともなかった。


「もちろん、あの“僕”ってのは、ちょっと小難しそうなやつだったけどね。だけど、あいつは間違いなく、この事件の真相に一番近い存在だ。なにせ、あの時の記憶をしっかり持ってたんだからね」

「私が、無実だって……こと?」

「そうそう。それが本当かどうかは、もちろん気になるところだけど、少なくとも初めて出会えたんだよ。はっきりとした事件の“目撃者”にね」


 とはいえ、まさか既に出会った少女の中に、その目撃者が潜んでいたとは、予測できなかった。


「あんたの中の“僕”ってのを解き明かせば、あの事件の真相も一緒に分かってくる。そう考えたら、あの日は大変だったけど、随分と大きな手掛かりが手に入った。でしょ?」

「ナデシコは……前向きだね、いつも」

「後ろ向いても、しょうがないでしょ。むさくるしい男に乱暴された思い出なんて、はやく忘れたいもの」


 おどけて見せるナデシコに、ようやくアイリスの顔から険が取れる。


「そもそも、前に進むためにこの仕事だって受けたわけだからね。何事にも軍資金は必要だからさ」

「そう、だね……お金……返せてないしね」

「ああ、まぁ――大丈夫、きちんと覚えてるからさ」


 ユカリから前借した資金は、結局、返す当てがない。

 そのためにも、まずは目の前の仕事をしっかりとやり遂げ、清算しなくてはならない。


 痛いところを突かれ、思わず苦笑いしてしまうナデシコ。

 それを見て、また笑うアイリス。

 そうこうしているうちに、お目当てであるトイレの前までやってきた。


 女子トイレの中に入ると、さっそく異変に気付く。

 三つある個室の内、奥の一室だけが扉が閉まり、中から何やら女性の呟く声が聞こえた。


「大丈夫、やれる、やれるったらやれる。怖くない怖くない怖くない、私は誰よりも頑張ってきた、だから頑張れる、できるったらできるの。誰が何と言おうと私は“雷帝”――」


 まるで呪文のように続くそれに、一瞬たじろいでしまう。

 しかし、聞き覚えのある声色であることに気付き、二人は互いの目を見合わせた。


「あの声……間違いない……よね?」

「うん……でも、何してるんだろう……」


 臆することなく、ナデシコが声をかける。


「あの、すいませーん。ミハルさんですよねー?」

「ッ!!? は、はい!!」


 慌てて立ち上がったのか、個室の中から“ガコン”だの“ズドン”だのという鈍い音と「うひゃあ!」という悲鳴が聞こえた。


 振動に、再び顔を見合わせるナデシコ、アイリス。

 しばらくして個室の扉が開き、ふらふらと女性が一人、姿を現した。


 目も覚めるような白くて少し跳ねた長髪と、同様に鋭くとがった白いまつげが印象的だった。

 肌の色も透き通るようだが、一方で瞳は赤く、色濃い鮮血の色を灯している。


 紅蓮のドレスのような衣装を身に着けた彼女は、ナデシコらを見るや否や、目を見開いて驚く。


「あ――あああ、スタッフの方ですか!?」

「え、ええ。そうですけど……」


 スタッフ用のTシャツから二人の素性を読み取り、赤い瞳の女性・ミハルは大声を上げた。


「すいません! すいませんすいませんすいません、本当、こんなせっぱつまった時に、ご迷惑かけちゃって、あれですよね、時間ですよね!!?」


 とてつもない勢いで謝られ、さすがのナデシコも声が出ない。

 ただカクカクと、縦に頷くしかなかった。


「うっわ、まじか、こんな時間!! 急ぎます、急ぎますんで!! 大丈夫、あとメイクだけしてもらったらすぐ出られますから!!」


 時計を見るや否や、ミハルは頭を数回下げた後、トイレから駆け出て行ってしまう。


 薄暗いトイレの中を、静寂が包む。

 その中で、まるで嵐に遭遇したかのように、二人はしばし動けずにいた。


「一応……呼び戻せはした――かな?」

「うん……だぶん……」


 トイレの外、どこか遠くから、またあの騒がしい声が聞こえてきた。

 おそらく通路で誰かにぶつかったか、何かしらのトラブルがあったのだろう。


 改めて、互いの顔を見合わせるナデシコとアイリス。

 何はともあれ、当初の目的を果たしたことで、二人もトイレを後にした。






 あっという間に時間となってしまう。

 二人は他のスタッフ同様、再びバックヤードから店舗のほうに出ていく。


 見れば、先程アイリスが確認した時より、さらに人の群れは勢いを増したように見える。

 全体が見渡せるよう、少し離れた位置からスタッフに混じり、群衆を眺めた。


「うっへ、凄い人。本当に有名人なんだね、あのミハルって子は」

「そりゃあそうだよ。ここ最近の小説のランキングを、いつもトップにかけているベストセラー作家さんだよ?」


 そこまで言われても、どうにもナデシコにはピンとこない。

 だがなぜか、ミハルの素性を語る時のアイリスは、いつになく饒舌じょうぜつだ。


 この案件を受けてからというもの、アイリスはその内容に、一際強い食いつきを見せていた。

 そもそも、アイリスは“雷帝”なる人物の詳細を、初めから知っていたのである。


 新進気鋭の若手女流小説家・ミハル。


 突如現れ、並みいる文豪達を押しのけてベストセラーを次々と世に送り出し、瞬く間に注目の的となった、怪人物である。

 無力で無名な主人公の少女が、運命に翻弄ほんろうされながらも力を身に着け、強大な敵に立ち向かっていく物語――「ヴォルト・エンド・サーガ」と呼ばれる活劇小説が、大ヒットセラーとなっているのだ。


 これらすべて、ナデシコがアイリスの口から聞いた小説家・ミハルの情報である。

 稀有けうな人物である、とは思うが、その中でも最大の特徴が、アイリスが口にした呼称であった。


「“雷帝”――本当、随分と大げさな二つ名だよね。でも、さっきみたいなおどおどした態度で、大丈夫なのかな。この後」

「どうだろう……テレビとかで見るときは、あんな感じじゃあなかったんだけど。こう、もっと堂々としてるというか」


 アイリスを横目に見つつ、ふぅんと頷く。

 舞台に上がることでスイッチが入るというパターンもあるのかもしれない。

 いずれにせよ、これだけの群衆を集める大人物なのだから、どうにかして切り抜けるのだろう。


 それよりも、ナデシコは群衆の動きを慎重に観察していた。

 本屋の一画を貸し切り、創り上げれた特設ステージに、百を超える群衆の視線は釘付けになっている。

 時間も迫り、今か今かとミハルの登場を待ちわびているのだろう。


 その色めき立つ人々の姿を、隙間を縫うように丁寧に、しかし迅速に視線を走らせた。


 一見すれば、誰も彼も熱心なファンのそれだ。

 その中にあるはずの、しかしどこにあるか分からない違和感を、ナデシコは探す。


 ざわめきと熱気が渦巻く密な空間の中で過ごす数分は、どこか息苦しく、独特の緊張が張り詰めていた。

 探偵の“審美眼”はやがて、ある一人を捉える。

 列の後方、少し離れた位置からステージ上を見つめる“彼”の姿を。


 だが、瞬間、歓声に意識が弾かれ、視線を再び走らせる。

 アイリスが横で、同様に興奮していた。


「来た――“雷帝”だ!」


 いつに増して、少女の声が大きい。

 目を見開き、スタッフということも忘れて魅入っている。


 その場の皆が一様に、登場した“彼女”に声を上げ、目を輝かせていた。

 特設ステージの上に、その姿がある。


 跳ねのある長い白髪、鋭くとがった長いまつ毛。

 肩を露出した、裾の長い深紅のドレス。

 膝上までを覆う革のブーツが、かつかつと、小気味よい音を立てる。


 格好自体は先程トイレで見たそれと、大して変わってはいない。


 ステージ中央に歩み出た“彼女”は少しだけ目を閉じ、うつむく。

 群衆達が声を潜め、息を呑んで見守る。


 “彼女”は微かに息を吐き、前を向いた。


 あまりにも鋭い眼差しを抱き、“雷帝”が――笑う。


「やあやあ、皆の衆。ようこそ――私の宴へ!!」


 腕を開き、見せつけるように言い放ったその姿は、まるで別人だった。


 突然の事態に唖然とするナデシコ。

 しかし、群衆は一気に沸き立ち、歓声を上げた。


 どっと溢れ出た声の波に、思わず周囲を見渡してしまう。

 真っ先に目についたのは、すぐ真横でにいるアイリスの羨望の眼差しだった。


「えっ、えぇ? な、なにこれ……」

「本物だ……すごい、本物の“雷帝”だっ!」


 果てしない憧憬どうけいが、少女の瞳の中に渦巻いているのが分かる。

 その輝きはアイリスだけでなく、この場にいる全員の目に宿っていた。


 壇上のミハルは、大きな身振り手振りと共に、笑みを浮かべたまま言い放つ。


「このような場に集ってくれたこと、大いに感謝するぞ、皆の衆! 私の描く“物語”と共に歩んでくれること、ただただ嬉しく思う。皆がいるからこそ、また新たな言の葉が刻まれるのだ。この場に集ってくれた皆自身に、まずは大きな拍手、喝采を!!」


 言いながら大きく天を仰ぐミハル。

 それに合わせるように、拍手喝采が巻き起こる。


 場の一体感と、壇上で繰り広げられる唐突なパフォーマンスに、唖然としてしまうナデシコ。

 盛り上がりもそうだが、なにより群衆を一手に引き受けるミハルの姿に、開いた口が塞がらない。


 先程のあの姿とは、何もかもが違う――トイレでびくびくと怯えていた姿は、もはやどこにもない。


 今、壇上にいる彼女は、大胆なステップと大きな身振りで、目の前に群がるファン達に鋭く突き刺さる言葉を投げかけ続ける。

 ぎらついた瞳と、常に消えない狂笑とも呼べる笑みを浮かべたまま。はきはきと、最後尾まで通る声で。


 女流小説家とは聞いていたが、想像していた姿とはあまりにもかけ離れていた。

 その立ち振る舞いは、まるで演劇の舞台に立つ女優である。

 一挙手一投足が群衆を魅了し、心を鷲掴みにしていく。


 言い回しも時に狂暴で、しかしどこか魅力的な言葉選びでぐいぐいと迫ってくる。


「ハッハァッ! 良いぞ、良いぞ。粗野そやだが実直、無垢ゆえに鋼の如き堅牢さを持った、良い眼差しだ! “雷帝”と共に歩む者は、そのような砕けぬ熱意がないとなッ!!」


 彼女の高笑いに、また一つ、わぁと群衆が湧いた。

 なにからなにまで、ミハルの思うように場が盛り上がり、熱を帯びていく。


 とんでもない場所に来てしまった――予想だにしなかった事態に唖然としたまま、ナデシコはすぐ横の少女に目をやった。


 今までの物静かな雰囲気は完全に消え去り、アイリスは両手を精一杯握りしめ、周囲の観衆同様、舞台の上で笑う“雷帝”にうっとりしている。


「かっこいい……」

「あ、アイリス? ねえ、ちょっと、アイリスってば」


 完全にとりこになってしまった少女に、探偵の声がまるで通じない。

 アイリス以外のスタッフまでもが、目の前に広がる光景に、心を奪われてしまっている。

 これでは人流の整理だの、警備だのはとてもできそうにない。


 男女問わず、年齢も関係なく、ただ羨望の色濃い光が、瞳の中で渦巻いていた。

 ステージ上に降り注ぐ無数の視線をものともせず、熱気をさらにかき回すように“雷帝”は吠える。


「私と皆がこうして出会えたのも、尊き宿命のなせるわざ。魂と魂が惹かれ合い、呼応する。震え、躍動し、叫び、うたう。同じ地、同じ時を共に歩めるこのえにし、大いに結構!! “雷帝”と共に歩む者達よ、存分に楽しもうぞ!!」


 どぉっ、と大気が揺れる。

 普段は物静かな本屋の一画を中心に、熱波が伝搬し、店の外まで駆け抜けていく。


 狂信的なまでの人気を誇る女流作家は、降り注ぐ歓声の雨を、ただ両手を広げ存分に受け止めていた。

 あまりにも大げさで、大胆で、型破りなその姿に、改めてナデシコは肩の力が抜けてしまう。


 周囲からびりびりと伝わる、ここに立つ人々の強すぎる生命力。

 それを奮い起こす、独特すぎるミハルのキャラクター。

 その強烈さにただただ、舌を巻いてしまう。


 視線の先のミハルは、なおも光を受け、群衆に目を向ける。

 まるで揺らがない、あまりにも強烈な笑みに、なぜだかナデシコの心までが震え始めていた。

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