18. 援軍

「う――わぁあああああ!!」


 その声が少女のものなのか、はたまた悪漢のものなのか、もはやはっきりとは分からない。

 ナデシコの目の前で行われている“大惨事”は、それほどまでに混乱を極めていた。


 男達はターゲットを新たにアイリスに絞り、次から次へと襲い掛かる。

 だが、近付いてくる悪漢を射程距離に入るや否や、次々と少女は沈めてしまう。


 黒いドレスを着た、まるで戦いに向かないその姿が、今では夜闇の中で縦横無尽に駆け巡っている。

 それはもはや、ただ“暴れている”と言ったほうが正しいかもしれない。

 向かってくる男を、アイリスは自身の腕を振り回し、ただひたすらに薙ぎ倒していく。


 握りしめた拳で、あるいは開いたままの指で手刀のように、男達の肉体目掛けて打ち込む。

 そのたびに鈍く、重く、痛々しい音が響き、一瞬で男達が地に沈んだ。

 たとえ少女の体を掴んだとしても、逆に握力で腕を破壊され、至近距離で叩き伏せられる。


 そしてなにより、アイリスの動きは想像以上に俊敏しゅんびんだ。

 武器を使う男もいたが、それらを素早く、鮮やかな身のこなしで避け、そして自身の武器――彼女が持つ“特殊”とすら呼べる怪力を叩き込んでいく。

 遠目に見れば闇そのものが浮かび上がり、高速で駆け巡っているようだ。


 一人、また一人と悪漢が消えていく。

 ナデシコを押さえつけていた“処刑班”すら、もはや身動きが取れず、彼方かなたの惨劇を見つめているしかなかった。


 しかし、一人がようやく我に返る。


「な、なんだよあいつ……こっちの探偵だけ押さえこみゃ良いと思ってたのによぉ」


 その一言に鉄パイプを握った男も、ようやく思考を取り戻した。


「意味が分かんねえ……お、おい! とにかく、こいつだけでもやっちまおうぜ!」


 男達が混乱を振り払ったことに、ナデシコは心の中で歯噛みしてしまう。


 アイリスが連れ去られなかったことは一安心かもしれない。

 だが、そもそもこちらの状況が打破できたかといえば、まるでそんなことはない。


 体重をかけて押さえ込まれているせいで、あがいても脱出できそうにはなかった。

 必死に暴れるナデシコ目掛けて、男はふたたび鉄パイプを振り上げる。


 男を一人吹き飛ばしながら、アイリスが叫んだ。


「ナデシコぉ!!」


 探偵を救おうと駆け出すも、少女の前に何人もの悪漢が立ちはだかった。

 一人、また一人と叩きのめすが、とてもナデシコまでたどり着けない。


 くそぉ――ナデシコの腕目掛けて、鉄パイプが振り下ろされた。

 襲い来るであろう衝撃、痛みに、反射的に目をつぶり、歯を食いしばる。


 ガッ、という鈍い音が響いた。


 アイリスは壁になっていた男を殴り飛ばし、顔を上げる。


 そして、息を呑んだ。

 目の前に広がっていた、その光景に。


 ゆっくりと、目を開くナデシコ。


 いつまでたっても、痛みは襲ってこない。

 それどころか、体を叩かれた感触すらない。


 静かに顔を持ち上げ、彼女もまた、言葉を失う。


 否――この場にいる悪漢も含めた全員が、驚き、身動きできずにいた。


 男の振り下ろした鉄パイプは、止まっていた。

 正確には、すぐ隣に立つ“彼女”の手で、受け止められていた。


 街灯の微かな明かりが、彼女の光沢のあるブロンドの髪を闇の中に浮かび上がらせている。

 束ね上げた髪だけでなく、眼鏡のレンズと銀の縁、かすかに塗ったリップまでをも、人口の光がなまめかしく滑る。


 スーツ姿の女性がため息をつき、その場にいる全員に聞こえるよう、毅然きぜんと言い放つ。


「未成年がこんな夜遅くに、何してるのかしら。そしてなにより、たった二人の女の子を寄ってたかって、武器まで手にして――立派な“暴行罪”ね」


 その凛とした姿に、ナデシコとアイリスだけが覚えがあった。

 そして鉄パイプを握った男の体に、嫌な汗が浮かぶ。


 動かない――押そうが引こうが、なにをしようが鉄パイプがまるで動かないのである。

 女性は軽く手を添えるように、その先端を握っているようにしか見えない。


 だがまるで、鉄棒だけがその場に固定されたかのように、ぴたりと静止してしまっている。


 彼女は残った手で眼鏡を直し、さらに告げた。


「申し訳ないけど、一緒に来てもらえるかしらね、あなた達。何か理由があるなら、是非お聞きしたいところだから」


 まるで物怖じしない彼女に、隣にいる一人がいきどおる。

 予想外の乱入者に、彼は迷うことなく襲い掛かった。


「なんだよ、次から次へと。うっとおしいんだよ、消えな!」


 相手が女だろうが、迷うことなく拳を打ち放つ。

 一撃が女性の顔を、真横から捉えた。


 正確には、その場の誰しもに“捉えたように見えた”。


 誰よりも違和感を抱いたのは、攻撃を仕掛けた男だろう。


 打ち放ったはずの拳は、確かに女性の頬に触れた。

 しかし、まるで当たりの感触がない。


 皮膚の奥、肉や骨を“噛む”感触が、寸分も拳に伝わらない。


 その高等技術に、地を這いつくばるナデシコだけが気付いた。

 向かってくる打撃に触れるや否や、首を高速で回転させて流す、防御術。

 まるで衰えることのないその“キレ”には、ナデシコ自身も覚えがある。


 今まで何度、ああやって避けられたことだろうか、と。


 男が拳を引くのと“彼女”が振り返るのは同時だった。

 眼鏡を中指で直しながら、彼女――女刑事・ユカリは告げる。


「大人しく同行する気はない、と。ええ、結構、分かったわ。暴行罪だけでなく、さらには“公務執行妨害”――交渉は決裂ってことね」


 ユカリが鉄パイプを軽くひねる。

 瞬間、それを握りしめていた男の体がぐるりと回転し、宙を舞った。


「はっ――?」


 男の間抜けな声。

 口を開け驚く悪漢達。

 目の前で起こる奇跡に、身動きの取れないナデシコとアイリス。


 前を向いたまま、まるで動じることなどなくユカリは言い放つ。


「他人を傷つけたなら、覚悟しなさい。多少の“痛い目”をね」


 鉄パイプの男が落下するのと同時に、ユカリが動く。

 前を向いたまま放った左裏拳が、すぐ隣――先程、彼女に拳を放った男の顔を、かすめる。


 顔面こそ捉えなかった“それ”がもたらした効果は、甚大じんだいだった。

 顎の先端を的確に射抜いた一撃が、男の頭蓋骨を瞬間的に弾き、傾け、その奥の脳を揺らす。


 一人は背中から地面に落ち、一人は脳震盪のうしんとうで意識を消しとばされて倒れた。

 大地が鈍く揺れるも、女刑事は動じない。


 ナデシコがこっそりと連絡をしておいた、最大の“援軍”。

 警察達よりも先にこの場にたどり着いた、あまりにも強大な“救援”。


 瞬間、ユカリの肉体が加速する。


 蹴り込んだ切っ先が、すぐそばの男を一名。

 そして、体重移動しつつ放った回し蹴りが、同時に二名を沈める。


 圧倒的――男達の思考が、完全に停止してしまう。


 華奢で、可憐で、どう見ても“戦い”など不向きなその姿が、超常的な“武力”で次々と悪漢を排除していってしまう。


「ふぅ」とため息をつきつつ、ユカリは眼鏡をかけなおした。


「思った以上の大事おおごとね。あんた一体全体、どんな捜査してたのよ?」


 手を貸されて、ようやくナデシコも立ち上がることができた。


「へっへへ、ごめんごめん。いやぁ本当、ナイスタイミング。こっちも“ちょっと”やばいと思ってたんだよ」

「絶体絶命だったじゃないの。やれやれ、急いで正解だったわ」


 ボロボロになりならがらも、困ったように笑うナデシコ。

 探偵の危なっかしい姿に、ユカリは頭が痛くなってしまう。


 彼女が無謀なのはいつものことだ。

 それにしても、今回ばかりは規模が大きすぎる。


 小言の一つや二つを投げかけようとしたが、離れた位置でまたも、男達の悲鳴が上がった。

 見れば、いつの間にか駆け付けた増援達が、アイリスの行く手を遮っている。


 必死に迎撃し続ける少女の元に、ナデシコ、ユカリも駆けだす。

 しかし、二人の行く手を、これまた駆けつけた悪漢達がさえぎってしまった。


 「ちぃ」と舌打ちするナデシコ達目掛けて、男達は迷わず拳を振りぬいてくる。

 その腕を受け止めて流し、瞬間的に投げ飛ばすナデシコ。

 一方、ユカリは足を払うと同時に顔面を叩き、一撃で男を沈める。


 目の前の二人の戦闘力に、悪漢達がたじろぐ。

 その一瞬の揺らぎを見逃さず、ナデシコが威嚇いかくした。


「邪魔だ、どけぇッ!!」


 もはや、探偵の咆哮でひるむ者はいない。

 しかし、彼女の一えを合図に、誰よりも早く“刑事”が踏み込む。


 一撃、二撃、三撃――踏み込むたびに拳と蹴りがはしり、立ちはだかる男の群れをことごとく無力化してしまう。


 その体捌きはもはや攻撃ではなく一つの“舞い”のようにも見えた。

 最適な位置に踏み込み、最適な角度で、最適な箇所を突く。


 徹底的に無駄を削ぎ落としたその流麗な動きに、男達はもはや脅威よりも美しさを感じ取ってしまう。

 限りなく初動を押さえた、ほぼ“ノーモーション”の攻撃は、それでいて鋭く、重い破壊力を有している。

 炸裂した箇所から奥の奥へ浸透し、肉体全体に波紋のようにダメージが広がっていく。


 ただの“格闘技”の技術体系とはまるで違う動きに、男達は対処などできない。

 気が付けば一撃を喰らい、硬く冷たい地面に横たわる。


 立ち止まることなく六撃目を叩き込み、ユカリがようやく停止する。

 円舞の軌道上にいた六人が倒れ、ばっと視界が開けた。


 女刑事の圧倒的な実力に、ナデシコは一瞬、笑みを浮かべそうになってしまう。


 しかし、視界の先に捉えたアイリスの姿に、再び緊張が戻ってくる。

 依然、少女は多くの悪漢に取り囲まれ、荒ぶる力でそれを迎撃し続けていた。


 近付こうと数歩、踏み込むも、またしもナデシコとユカリの目の前に男達が立ちふさがる。


 キリがない――放たれる角材の一撃を避け、掌底と投げを繰り出すナデシコ。

 倒しても倒しても削ぐことができない男達の勢いに、苛立ちを覚えてしまう。


 ユカリの援軍のおかげで、窮地きゅうちは脱した。

 だがまだまだ、場のパワーバランスはくつがえってはいない。


 どれだけ打ち倒そうとも、その穴を補うように更なる援軍がやってくる。

 いったい、どれだけの戦力がいるというのか。


 一人一人の戦力は、ナデシコやユカリにとっては取るに足らないものだ。

 技術力もまるでなっていない。

 ほとんどが怪力や凶器をあてにした、粗削りな暴力の群れである。


 ナデシコの体術はもちろん、ユカリにかかってしまえば、十や二十を相手にしたところで、まるで歯ごたえすらないのだろう。


 数だけ揃えたその“人海戦術”は、しかし時として絶大な効果をもたらす。

 男を投げ飛ばしながら、ナデシコは視線を彼方のアイリスに走らせた。


 少女はなおも我を忘れ、群がる男達の中心で暴れまわっている。


 一人、また一人と倒されていく。

 多少の凶器程度ならば、それを握りしめた拳ごとアイリスの“怪力”が破壊してしまう。

 か細い腕だとしても、角材どころか鉄パイプすら弾き、へし曲げてしまう。


 だが、やはり少女には致命的な欠点がある。


 男の手をかいくぐるその小さい身体に、激しい熱がたぎっていた。

 街灯に照らし出された美しい肌を、じっとりと汗が濡らし、夜の風が撫でるたび、視覚化された白い熱が揺らいだ。

 口も大きく開き、ぜえぜえと肩で息をしている。


 アイリスはあくまで、生まれつきの特殊な“力”を持っているだけだ。

 戦うために訓練をしたわけでも、そういう肉体を創り上げてきたわけでもない。


 男数名を相手にしただけで、とっくの昔に彼女のスタミナは尽きていた。

 また一人、男の胸部に握り拳を叩き込み、昏倒させる。

 しかし、反動で小さな体がぐらつき、ついには膝をついてしまった。


 男達も少女の限界には気付いているのだろう。

 今までよりも大胆に、その距離を詰めるようになってきている。


 限界だ――ナデシコは一人を地面に押し倒し、関節をひねり上げながら叫んだ。


「アイリス、もういい。逃げろぉ!!」


 手首をひねり上げた男が悲鳴を上げるも、まるで気にせず、ただ少女だけを見た。

 アイリスに、その言葉は届いたらしい。


 二人の視線が、一瞬だけ交わる。


 不安や悲痛、戸惑いがその大きな眼に覗く。

 ナデシコはただ、少女に向かって大きく頷いた。


 ほんの少しだけ、アイリスは迷っていた。

 危険なのは自分だけではない。

 ナデシコと合流し、彼女を救うべきなのではないか、と。


 だが、他人の心配をできるほど、アイリスも強いわけではない。


 群がってくる男達の敵意、悪意に、改めて悪寒が走る。

 どれだけ打ち倒しても、どれだけ退けても、底なしの“黒”がそこら中から湧き上がってくるようだ。


 しばし考え、それでもアイリスはきびすを返し、駆け出した。

 その小さな背中を、数名の男が追いかける。


 本来なら公園から脱出するのがベストだが、仕方がない。

 今はとにかく、悪漢達の群れから遠ざかることが先決である。


 アイリスに注目していたせいで一瞬、ナデシコの反応が遅れてしまった。

 横から殴りかかってきた男の一撃に、慌てて腕を持ち上げる。


 だが、横から割り込んできたユカリが拳を受け止めると同時に、連撃を素早く叩き込む。

 鳩尾みぞおち、喉に差し込まれたそれが、一瞬で男を気絶させた。


「ご、ごめんごめん。助かったよ、姐さん」

「ぼおっとしないの。あの女の子、あなたのお友達よね? 早く行ってあげなさい」


 思いがけない一言に「ええ?」と声を上げてしまう。

 呆けるナデシコにかまわず、ユカリは回し蹴りと肘の一撃で、また二名を沈めた。


「あの子だけじゃあ逃げられないわ。いずれ追いつかれる。ここは私が何とかするから、あなたはあの子を助けてあげて」

「でも、姐さん――」

「私が負けるとか、失礼な心配してるんじゃあないでしょうね?」


 また二名、即座に男達の顎先を打ち抜くユカリ。

 どさり、という音が連なる。


「あの子には助けが必要よ。一人で歩けるほど、まだ強いわけじゃあないでしょう。だからあなた、一緒にいてあげたんじゃないの?」


 そこまで見抜かれてしまい、言葉を失ってしまう。

 刑事はそれ以上、何も言わない。

 ただ黙したまま、目の前に立ちはだかる障害を見据えていた。


 そう、アイリスは今、“一人”なのだ――かつて、路地裏で出会った少女の、あの震える眼差しが脳裏に浮かぶ。


 瞬間、気付いた時にはナデシコは走り出していた。

 それに合わせて、ユカリも動く。

 左右から襲い来る二人を手刀で同時に制し、沈める。


 目の前に立ちはだかった男の顔を、もはやナデシコは見もしない。

 その視線はその更に奥の、少女の背を見つめ続けていた。


 放たれる拳をすれすれで避けながら、男の顔を掴み、投げる。

 巨漢の苦痛の声など、聞き入れる気などない。


 駆けていくナデシコを背に、ユカリは踵を返す。

 自身に降り注ぐ無数の殺気を受け止めつつ、彼女は眼鏡をかけなおし、ため息をついた。


 困った子ね、本当に――いつも唐突に“嵐”を連れてくる探偵に辟易へきえきしつつも、前を向く。


 眼鏡のその奥に秘めた、静かなる闘志。

 悪を微塵みじんも許す気のない覚悟の炎が、男達の殺気を喰らいつくし、なおも燃え盛っていた。

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