17. もう一つの覚醒

 また一人、男が宙を舞っていた。


 右手にナイフを握った彼は、自身の天地上下を見失い、ただ情けなく目を見開くことしかできない。

 一瞬、夜空が見えたかと思えば、背中に伝わるがつんという衝撃に、意識が弾き出されてしまう。


 夜の公園に響き渡るのは、男達の怒号と、悲痛な叫び。

 そして大地が揺れる鈍い音色だった。


 ナデシコとアイリスを目掛けて襲い掛かる男達。

 アイリスを守りながら、ひたすら飛び掛かってくる男を受け流し、投げ飛ばすナデシコ。


 もはや十名近くが床に転がり、のびてしまっている。

 意識が覚醒している者もいたが、全身に伝わる激痛に、うごめくことしかできない。


「な、なんだこいつ――おい、同時に行け! 前に立つな!!」


 男の号令で、三名が同時に突っ込む。

 一瞬、アイリスが悲鳴を上げそうになるも、彼女の顔のすぐ脇を“突風”が駆け抜けた。


 先頭の一人と、ナデシコの距離が一気に潰れる。

 あまりにも躊躇ちゅうちょのないその俊足しゅんそくに、腕を振りかぶった男も、たまらず硬直してしまった。


 足を払い、そして同時に頭と腕を掴んで投げる。

 身体の線の太さでいえば、間違いなく男に軍配が上がるだろう。

 しかし、その巨漢がふわりと浮かび上がり、背中から地面に落ちる。


 その“人を投げる”という技術において、彼女の手際の良さは圧巻だ。


 単純に力をぶつけるのではなく、相手の肉体が持つ反射行動――ある箇所を押さえれば、ある箇所が引く。

 ある箇所を持ち上げれば、ある箇所が沈む――そういった“意思とは関係なく起こる、必然的な生体反応”を、たくみに利用している。


 どれだけ相手が身構えようとも、必然的に生まれる“隙”、“緩み”を利用されることで、気が付いた時には投げ技に持ち込まれているのだ。


 体格差など関係ない。

 否、むしろ大柄な相手であればあるほど、浮かし、投げ落とした際の威力ははなはだ大きくなる。


 間髪入れずに駆け出し、残る二人に組み付くナデシコ。

 うろたえる一名を難なく投げ飛ばすと、残る一名の拳を二発、鮮やかにさばく。

 あごに掌底を一撃入れた後、真横にその体を薙ぎ倒した。


 アイリスはもはや壁際に身を寄せ、拳を握り締めて見ていることしかできない。


 群がる無数の男達を、ひたすらにナデシコが迎え撃つ。

 その姿は荒々しく、今までの姿とは明らかに違っていた。


 相手を傷つけることに躊躇ちゅうちょがない。

 打つのも、投げるのも、まるで戸惑う様子がないのである。


 だが、だからこそ、遠巻きに見ているアイリスには分かってしまう。


 男達を跳ねのけるナデシコの姿は、勇猛だ。

 しかしその姿に、どこか“焦り”のようなものも見える。


 人というよりも獣。

 勇敢というよりも獰猛どうもうという言葉が真っ先に湧いて出る。


 圧倒的な力を放っているはずの彼女が、その実、どこか余裕がなく、まるで自分自身に追い詰められているかのようだ。


 大男の攻撃を軽く避け、掌底、崩し、そして投げへと繋げ、沈めるナデシコ。

 頬には汗が伝い、まとめ上げていた髪が乱れてしまっている。


 宵闇よいやみの中、微かに彼女を照らし出す街灯の白光に、肉体から立ち上る湯気ゆげが揺れていた。


 肉の内に眠る熱を加速させながら、それでもナデシコはひたすら悪漢達に立ち向かい続ける。

 怒号と地響き、突風と熱が渦巻く公園で、アイリスはその激闘を息を呑みながら見守り続けた。


 だが、悪漢達の魔の手は、そんなか細い肉体にも伸びる。


 アイリスの腕が突如、真横から伸びた巨大な手に掴み取られてしまった。

 肉体に伝わる感触、そして至近距離から感じた気配に悲鳴を上げてしまう。


「ひっ――!?」

「つっかまえた。ったく、面倒くせえ女どもだな」


 見れば、いつの間にか男の一人が、アイリスの背後に回っていた。

 茂みに身を隠し、近付いてきたようである。


 必死に体を引き、腕を振り払おうとするも、男の怪力の前ではなすすべがない。


「嫌……嫌ッ!! 離して――!」

「おら、暴れるんじゃあねえよ!!」


 男の手は無遠慮に、無作法に少女の腕を引っ張り、痛みと共にひきずる。

 ナデシコもその緊急事態に気付き、振り向いた。


「こっの、こそこそと……その子から離れろ!!」


 アイリスから男を引きはがすべく、駆け出すナデシコ。

 こちらを向いた探偵と少女の視線が、一瞬だけ交わった。


 その一瞬が、男達の攻撃と噛み合ってしまう。


 ナデシコの細い身体に、巨漢の一撃が真横から突き刺さった。

 技術などまるで使わない、ただただ肉体を走ってぶつけるだけのシンプルな体当たり。

 その無骨ぶこつな一撃に、反応するのが遅れてしまった。


 全身を襲う横殴りの衝撃と、高速移動する視界。

 電流のような痛みが広がりきる前に、ナデシコの肉体が石畳を跳ねた。

 受け身すら取れずに吹き飛び、冷たい大地に転がる。


 まずい――体が完全に麻痺してしまっている。


 歯を食いしばって立とうとするも、腕や足がいうことを聞かない。


「アイリス……逃げ――」


 声を上げようとした探偵に、さらに別の男が追い打ちを仕掛けた。

 ブーツによる蹴りが叩き込まれ、再びナデシコは地面を転がる。


 うずくまったまま、必死にガードを作って耐えるナデシコ。

 その蹂躙じゅうりんされる姿を見て、アイリスが叫ぶ。


「ナデシコ……やめて……やめてよぉ!!」


 亀のように丸まったその体に、容赦のない暴力が叩き込まれ続ける。


 もはやそれは“処刑”だった。


 女一人を取り囲み、あらん限りの暴力を振るう男達。

 その表情は誰も彼も、正気ではない。

 目をらんらんと輝かせ、腕に、足に伝わってくる感触に酔いしれている。


 アイリスは必死に腕を振りほどこうと暴れるも、まるでどうにもならない。

 離れた位置で叩きのめされるナデシコとの距離が、一歩、また一歩と離れていく。


「嫌ぁ!! 離して……離してぇ!! ナデシコぉ!!」


 少女の願いなど、聞き入れられるはずもない。

 アイリスの腕を引きつつ、男は下卑げびた笑みを浮かべた。


「自業自得ってやつだぜ、お嬢ちゃん。まぁ、安心しな、殺しはしねえさ。当分探偵なんざできなくなるくらい、骨の一、二本、へし折る程度で済ませてやるよ」


 息を呑み、すぐ真横の男を見つめる。

 冷たく、暗く、そしてどこまで歓喜に満ちたその視線が、アイリスに激しい嫌悪感となって伝わった。


「この街で生きていきたきゃ、余計なことはしないのが鉄則だ。それを破った、あの“名探偵さん”が悪いのさ」


 再び振り返り、彼方のナデシコを見つめる。

 守りを固めたままの彼女に、鉄パイプをたずさえた一人が近付いていく。


 アイリスの目には、いつしか涙が浮かんでいた。

 小さな体が震えながら、それでも必死に言葉をつむぎだす。


「ねえ、お願い……やめて……ねえ……やめてよぉ」


 押さえつけられたナデシコの前に、男が立つ。

 彼はにやにやしたまま、鉄パイプを軽く肩に担ぎ上げた。


 彼らの視線と押さえ方で、何をしようとしているかは分かってしまう。


 振り下ろすつもりだ――躊躇ちゅうちょなどなく、慈悲もなく、思いきり――まずはナデシコの腕目掛けて。


 また一つ、アイリスの腕を引きながら、男が笑う。


「せっかくの機会だ。お友達の悲鳴でも、しっかり聞いておくと良いさ。まぁ、お嬢ちゃんは大丈夫。きっともっと優しく、気持ちよくしてくれるだけだからよぉ」


 男の卑猥ひわいで、低俗な笑い声は、もはやアイリスには届いていなかった。


 彼女はただ腕を引っ張りながら、必死にあがく。

 処刑されようとするナデシコの元に、少しでも辿り着くために。


「離して……嫌……嫌ぁ……」


 その願いは聞き届けられない。


 彼方で、男が鉄パイプを両手で握りしめ、構える。

 押さえつけられたナデシコは必死に呼吸を繰り返しながら、持ち上がっていく凶器の切っ先を睨んでいた。


 嫌だ――離れていく“探偵”の姿が、涙で歪む。


 彼女は一緒に歩いてくれたのだ。

 この街でどうすれば良いか分からない自分に、初めて行くべき道を示してくれた。


 自分がトラブルに巻き込まなければ、彼女は傷付けられることなどなかっただろう。


 自分のせいだ――心の中に広がる暗黒。

 だがその中に、もっと激しく、もっと熱くたぎるものが光っている。


「離して……離してよ……ねえ……離して……行かないと…ナデシコの所へ……」


 少女と男では、腕力の差は圧倒的だった。

 彼女の意思などまるで意味はなく、男の思うがままに体が引き離される。


 足掻あがき、脱出しようとするナデシコが見えた。

 そしてそれを押さえつける男達の、笑顔が見えた。


 ぞくりと、肉体が震える。


 あれは人ではない。


 自身より弱いなにかを、大勢で痛めつける、異形。

 男達の上に現れるあまりにもおぞましい“ヴィジョン”に、体が震える。


 ここはもはや異界だ。

 人ではない、怪物で埋め尽くされた、無慈悲な世界。


「離して……嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――」


 どくんと、心臓が加速する。


 全身が酷く熱い。

 何かが自身の内側で、叫んでいる。


 周囲の男達がなにかを言っているようだが、もはやまるで聞こえない。


 鼓動の音、血潮ちしおの音、呼吸の音。

 それらだけが支配する自身の世界の中で“彼”の声が聞こえた。


 聞き覚えのあるその声が、徐々に輪郭を帯びる。

 途切れ途切れ聞こえるそれが、ついに繋がる。


 また一つ、男はアイリスの手を無造作に引いた。

 遠くで行われつつある“処刑”を眺めながら、笑う。


「本当、馬鹿な女だよ。家に引きこもって、探偵ごっこしてりゃあ良かったものをよぉ」


 周囲に立つ仲間達も、ゲラゲラと笑った。


 おぞましい“怪物達”の声を、自身の鼓動音がかき消す。


 そして、はっきりと聞こえた。

 すぐ耳の横で“彼”が一言、ささやく。



 戦え――と。



 鉄パイプを持ち上げる男。

 地に伏せ、押さえられたまま、歯を食いしばるナデシコ。


 男達の下品な笑い声。

 夜風、そして潮の音。


 それらの中に、はっきりとその声が通った。


 一瞬、世界全ての音が消えてしまったかのように、明確に、明朗に。

 それが、鼓膜を揺らす。


「離せ」


 誰もまだ、振り向かなかった。

 目の前で行われようとする処刑の結末を、血気盛んな悪漢達は見守っていた。


 彼らが異変に気付いたのは、二言目を耳にしてからだ。


「――離せ」


 目を見開いたのは、男達だけではない。

 地に這いつくばったまま、ナデシコも顔を上げた。


 男に無理矢理ひきずられていく少女・アイリス。


 いつの間にかその小さな手が、自身を無遠慮に引率しようとする、男の手首を掴んでいる。


 男が「あぁ?」と不機嫌な表情を浮かべた、次の瞬間。

 そのあまりにも悲痛な“音”が、全員の耳に滑り込んだ。


 めきり。


 ナデシコが息を呑む。


 顔を少し伏せたアイリスのその表情。

 今までのような、怯え、迷い、困惑する少女ではない。


 きっと吊り上がった眉。

 深く、克明に刻まれたしわ

 眼光の奥底で確かに燃える、激情。


 少女のか細い指が、男の手首に――喰らいついた。


「ナデシコを――ナデシコのことを――」


 ばきり。


 男達が、気付く。

 なにより、彼女を掴んでいた――否、彼女に“掴まれている”男が、気付く。


 もはや“掴む”というには、あまりにもいびつな形に、少女の指がめり込んでいく。


 ざあ、という風の音で、アイリスの前髪がかき上げられた。

 そのあまりにも強く、豹変ひょうへんした少女の瞳に、怪物たちがたじろぐ。


 老木の枝が砕け散るような、乾いた音がした。

 それを追うように、男の悲鳴が上がる。


 そしてそれらの音を全てかき消し、少女が吠える。


 男の手首を完全に握り潰しながら、アイリスは前を見た。


「ナデシコのことを――馬鹿にするなッ!!」


 瞬間、アイリスは動いていた。

 男の手を振りほどき、彼の胸板目掛けて、握りしめた拳を真横に叩きつけた。


 まるで格闘技とは呼べないような、荒々しく、粗末な一撃。


 しかし、伝わってきた“それ”に、男は声すら上げることができない。


 ずどん――という衝撃と共に、胸部が陥没した。


 練り固めた鉄塊を超高速で叩きつけたような、重く、激しく、そしてあまりにも痛い衝撃。

 男の体が吹き飛び、後ろに倒れる。


 そのあまりにも浮世離れした光景に、ナデシコやその周囲の悪漢達まで、言葉を失っていた。

 いち早く我に返ったのは、アイリスの周囲に群がっていた数名である。


「おい、お前……なにして――」


 男が少女を捕らえようと、手を伸ばす。

 しかし、“バキリ”という嫌な音がまた一つ、全員の鼓膜を揺らした。


 アイリスが男の手を、荒々しく弾き飛ばす。

 瞬間、差し出していた男の手首が、嫌な角度に曲がっていた。


 ついに、悪漢の口から悲鳴が上がる。

 激痛はもちろん、想定外の方向に捻じれ、ぶら下がっている自身の手を見て、恐怖が振り切ったのだろう。


 叫び声をあげる男の顔面を、さらにアイリスが真横から叩く。

 固めた拳骨が炸裂した瞬間、彼女よりも頭一つ大きい男が、真横に倒れ、動かなくなった。


 少女の雄叫び。

 そして、男達の悲鳴にも似た咆哮。


 それらが“想定外”な戦いの、第二部の幕開けを告げた。

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