16. 夜闇に目覚める“暴”

 公園を駆け抜けた夜風が、少し水気を含む木々の葉を一斉に揺らし、ざわざわと騒ぎ立てる。

 隣接した海からは波飛沫しぶきの音色が重なり、暗闇の中で静かに歌っていた。


 人気もまばらになった海浜公園の木々の合間を、若者達がせわしなく駆けていく。

 怒号にも近い無遠慮なやりとりが、夜の空気を乱暴に震わせた。


 街灯がほんのりと園内を照らし出すこの時間、本来ならば海沿いのこの公園は、ロマンチックなデートスポットになるはずであった。

 湾を挟んだ向こう側には、ネオンで彩られた人口の星々がちかちかと輝き、揺れている。

 今日のような晴れた日の夜は、瞬く夜空と人々のともしびが果てしない黒の中で混ざり合い、なんとも幻想的な風景を創り上げる。


 しかし、今夜はそんなムードが台無しだ。


 殺気立った男達が園内の隅々に入り込み、なにかを探している。

 その異様な光景に、人々は足早に公園を後にしていく。


 理由こそ分からないが、それでも関わればろくな事にならない、ということだけは本能が察するのだろう。


 ざわざわと揺れる木々の隙間を、濃厚な闇が埋め、覆い隠す。

 その暗幕の奥底――茂みの中から、ナデシコとアイリスは様子をうかがっていた。


「うっへえ、マジか。一体全体、何人いるってんだよ。まったくどいつもこいつも、暇人が過ぎるでしょ」


 追っ手をくため、逃げる手段が多く、かつ隠れる場所もあるこの公園に駆け込み、二人は身を潜めていた。

 夕日が落ち、闇が濃くなったこの時間帯ならば、ネオン街よりもこちらのほうが見つかりにくいと踏んだのだ。


 実際、ここまで男達の目をあざむけてはいる。

 しかし、彼らは一向に立ち去る気配を見せない。

 それどころか新たな増援が続々と駆け付け、園内の捜索に加わっている。


 アイリスが呼吸を整えながら、ごくりとつばを飲み込んだ。

 吐息の中に、木々や土のむせかえるような匂いが紛れ込んでくる。


「大丈夫なのかな……もしかして、居場所がばれてるんじゃあ」

「さすがにそれはないと思うよ。だけど、なぜかあいつら、この公園が怪しいと踏んでるんだね。誰かに入れ知恵でもされたのか」

「ど、どうしよう……もし見つかったら、また――走るんだよね?」

「まあ、ね。ただあいにく、“煙玉”はもう使っちゃったから、目くらましの手段はないんだ。こんなことなら、もう何個か作ってくるんだったよ」


 探偵の一言で、さらにアイリスの表情が曇る。

 沈んでいく少女に、ナデシコは困ったように笑った。


「大丈夫だって、その程度でへこまないの」

「でも……もし今度、捕まったら……」

「また何とかして、逃げりゃあ良いだけさ。いざとなったら、ちょちょいとやっちゃえば良い話だよ」


 ナデシコは素早く、そして大げさに拳を構えて空を打つ。

 あっけらかんと笑うナデシコに対し、アイリスの顔からはやはり不安の色が消えない。


 それもまた、仕方のないことなのかもしれない。

 そもそも、こんな事態に慣れているナデシコのほうが、世間一般から見れば異常なのだろう。


 軽いため息をつき、茂みの外をうかがった。

 下っ端と思われる二人の青年が、音色の違う二つの怒号をぶつけ合い、別の方向へ走っていった。


 このまま、あとどれだけこうしていればいいのか。

 この一向に好転しない状況が、アイリスの不安をさらにあおっているのだろう。


 海が間近ということもあり、風が随分と冷たい。

 夜通し、茂みの中で野宿するのだけは勘弁である。


 ナデシコはまた一つ、軽いため息をついた。


「なあに、心配ないさ。ちょっと前に警察にも連絡したんだ。もうじきサイレンの音が聞こえるから、そしたら堂々と逃げよう」

「け、警察? いつの間に、連絡なんて……」

「逃げながら、ちょちょいとね。『大勢の怖い男の人達が海浜公園で暴れてるから、早く止めてください~』って。そしたら、『すぐ向かいますので、安心してください!!』だってさ」


 探偵の用意周到っぷりに「はあ」と声を上げるアイリス。

 少しだけ男達の所業を盛ってはいるものの、この際、応援さえ駆けつけてくれればそれで良い。


 ふっと、アイリスの視線が手元に落ちる。


「凄いな、ナデシコは……どんなことがあっても、ちゃんとそれを切り抜けようとしてる」

「別に凄くなんてないさ。悪知恵が働くだけだよ。“探偵”ってのは腕っぷしが良いだけじゃあ食っていけないからね」

「それに比べて、私は全然ダメだね……さっきも、凄い怖くって……体が固まっちゃって、動けなかった……」


 弱気な言葉に振り向くと、アイリスは両手を胸の前で握りしめ、目を伏せていた。

 手中に生み出される力の心許こころもとなさを、噛みしめているようである。


 茂みの中に腰を落としたまま、ナデシコは少女を見つめた。

 暗闇の中に、その漆黒の小さな影が溶け込んで消えてしまいそうである。


 それほどまでに、すぐそばにいるはずの少女の影ははかない。


「そう、自分を卑下ひげしなさんなって。今までだって、十分ちゃんとやれてたじゃないのさ」

「でも……私がもっと速く走れてれば、あの人達から逃げ切れてたかもしれないし……」

「『もし』だの『でも』だのを考え出したら、きりがないよ。それに、言うほどあんたは出来が悪いわけじゃあないさ。一緒にトラブルに巻き込まれた、私が保証する」


 少女は微かに顔を上げ、口を開いた。

 また「でも」と言いかけて、我慢したのだろう。


「まあ私も、全部分かったわけじゃあないけどさ。あんた、自分で言うほど何もできないわけじゃあないと思うよ」

「えっ?」

「さっき、ゲーセンで両親の話をしてた時もそうだったでしょ? 『自分が悪いんだ』って。だけどさ、私から見てたら、少なくともあんたはしっかりと前に進めてるよ」


 ただただ失意の底に沈みこもうとする少女の手を、半ば無理矢理でも握り、引っ張り上げる。

 ナデシコにとって、自分だろうが他人だろうが、ネガティブな空気にまれる様はしょうに合わない。


「そりゃあ世の中、出来の良し悪しだの、運の良い悪いだのはあるだろうさ。だけどね、そんなことよりも“やるか、やらないか”――人生ってのは、こっちのほうが随分と大事だと思うよ」


 アイリスは顔を上げ、ナデシコを見つめる。

 少女は「やるか、やらないか」と、探偵の言葉を繰り返す。

 小さな肉体の中で、その二言を噛みしめているようだ。


「どんだけ運動ができようが、どれだけ秀才だろうが、“いざ”という時に二の足を踏むやつは一杯いる。そのまま、なんもしないまま止まっちゃう奴もね」


 茂みの隙間から外をうかがいつつも、ナデシコの脳裏に過去の映像がフラッシュバックする。


 振るい続けた“暴”と、その代償。

 通じなかった“技”と、肉体に刻まれた報い。


 恐怖、失望、そして”あの人”の言葉――アイリスを励ましていたはずが、いつのまにか自身の過去と向き合っていた。


 やるか、やらないか。

 それはナデシコ自身が思いついた言葉ではない。


 過去のくじけかけた自分が立ち直れた、きっかけの言葉である。


「辛いときや怖いときは、止まりたくなるもんさ。こんなトラブル続きなら、なおさらね。だけど、そこから抜け出すためには、どんなに嫌でも足を出さなきゃあならない。その一歩を踏み出せるかどうか。人の本物の価値ってのは、そういう所で決まるんだよ」


 しっかりとアイリスの眼をのぞき込みながら、告げる。


「あんたあの時、走れたろう? あいつらから逃げるため、真っすぐ。もう一度……いや、何度だって言ってやって良い。あんたはしっかり“できた”んだよ。そんな自分を、もうちょっと褒めてやっても良いと思うよ?」


 少しだけ、アイリスはその賞賛に驚いていた。

 しばし言葉に詰まっていたが、やがてか細く、ささやくような声色で絞り出す。


「自分を褒める……今までそんなの……やったことない」

「人間なんてさ、褒めて伸びるに決まってんのよ。がみがみしたって面倒くさがるだけ。親にあれこれ言われ続けてた、私が言うんだから間違いない」


 そのあっけらかんとした言葉に、少しだけアイリスが笑う。


「それに、怖かったり迷ってる時は、すぐ先の目標を決めちゃえばいいんだよ」

「すぐ先?」

「そうそう。そりゃあ、私らは“アイリスの無実”だの、“真犯人”だのを探してるわけだけど、そういう大きいことじゃなくってさ。今自分が、何がしたいか――ってね」


 探偵の前向きな言葉に「はぁ」と小さく頷く少女。


「少なくとも、私はこんなさっむい公園で徹夜なんて勘弁だよ。とっとと事務所に帰って、暖かいベッド――まぁ、ぺらぺらのシーツだけどここよりはマシさ――そいつで眠りたい」

「私……私も、こんなところにいたくない……一緒に帰りたい」

「なら、やることは決まりだ。とにかく今はこいつらまいて、とっとと帰る! これだけを成し遂げりゃあ良いのさ」


 人生において、大局を見ることは重要だ。

 だが時として、その大きすぎる視野、視点が、むやみやたらと不安をあおることがある。


 どちらに向かえば良いか分からないならば、まずは一歩でも良い――少しだけ先に歩くための“理由”を無理矢理に作ってやれば良い。


 それがナデシコが探偵をやっていくうえで大事にしていることの、一つでもある。


 二人の目的が定まったところで、ナデシコが眉をひそめた。

 そのわずかな変化に気付いたアイリスも、茂みの外をうかがう。


「どうしたの。警察の人達?」

「いやぁ、むしろ真逆だな。ちょっとこれは、旗色が悪くなってきたよ」


 えぇと驚き、アイリスも注意深く外を警戒した。

 見れば少し離れた広場に、大勢の男達が集まっている。

 明らかに先程よりも、数が多い。


「あいつら、何が何でも徹底的に探し当てる気らしいね。こりゃあ、ちょっとプラン変更だ」

「ど、どうするの? また走るの?」

「まぁ、見つかったらダッシュしかないね。ただ、あんな人数と夜中の追いかけっこなんて勘弁。とにかく見つからないように、反対側から公園を出よう」


 本来ならば、警察が駆け付けた隙に脱出する予定だったが、どうやらそう悠長に待ってもいられないらしい。

 あまり動き回りたくはないが、しぶしぶナデシコは行動に出る。


「ったく、これだから警察ってのは役に立たないんだよなぁ。今度、ねえさんに告げ口しとこう。ほら、アイリス、こっちだ」


 身をかがめたまま、茂みの奥へと進んでいくナデシコ。

 先程まであれほど警察を持ち上げていたくせに、とんだてのひら返しにアイリスも眉をひそめる。


 とはいえ、今は迷っている暇もないらしい。

 二人は息を殺し、できるだけ音を立てないように茂みの中を移動する。


 行き交う悪漢達の隙を伺い、時には茂みから茂みに素早く駆け、公園の出口を目指す。

 木々の葉や波の音が、うまい具合に二人の足音をかき消し、味方をしてくれていた。


 芝生のエリアが終わり、道路へと続く煉瓦れんが道までたどり着く。

 注意深く周囲の人影を探りつつ、二人はようやく茂みから飛び出した。


「おっし、あとちょっとだ。うまいことまけたみたいだね。このまま、とりあえずはまた路地を通りながら、事務所まで――」


 駆け出しながら、次のプランを練る二人。


 公園の外に見える車や街灯の明かりが、なぜかひどく心強い。

 あそこまでたどり着けば、この暗闇からひとまずは抜け出すことができる。


 だが二人の足は、不意に止まってしまった。


「やっぱりなぁ、ビンゴ――だな」


 息をのむナデシコとアイリス。


 煉瓦道の左右の茂みから、次々と男達が姿を現した。

 彼らはすぐさま前後を取り囲み、退路を断ってしまう。


 ちぃ、と舌打ちをしつつ前を向くナデシコ。

 不安げな眼差しを後方に向けるアイリス。


 期せずして、互いの背中を預ける形となってしまった。


「くっそ、待ち伏せか。なんだ、頭もしっかり使えるんじゃないのさ」


 考えてみれば、安易であった。

 ここまで執念深く自分達を追い回す悪漢達が、出入り口の見張りの一人や二人、潜ませておくことは十分に予測できたはずだ。


 ナデシコ自身、判断が安直すぎたと反省していた。

 男達が集まってくる焦りから、次の手をいてしまったようである。


 暗闇の煉瓦道で、再び四方から殺意が向けられた。

 前方に三、後方に二。

 計五名の悪漢達が、じりじりとこちらに近付いてくる。


「ちょこまかと逃げやがって。お前ら、もうただじゃあすまねえぜ。なにせうちのお偉いさんを、二人もコケにしたんだからよ」


 くちゃくちゃとガムを噛みながら、ニット帽をかぶった男が言い放った。

 パーカーから伸びてむき出しになった腕には、痛々しい傷跡がいくつも残っている。

 どうやら、荒事は慣れっこということらしい。


「もう、おとなしくついてこい、なんて言わねえよ。女だろうが関係ねえ。こっちも無傷で連れてこいとは、言われてないんでな」


 男達の肉の内に、重く、じんわりとした確かな“力”がたわむ。

 もはや、まどろっこしいやりとりをするつもりはないらしい。


 その明確な敵意を感じ取り、アイリスの目が震える。

 必死にナデシコに体を寄せ、迫ってくる男達を順に見渡してた。


 少女の耳に、すぐそばに立つ探偵のため息が届く。

 振り向くと、探偵は少しうつむき加減に前を見ていた。


「アイリス、ごめん。私の判断ミスだね。結局、こうなっちゃった」

「ど……どうしよう……どうすれば……」

「簡単には逃げ切れそうにない。今回ばかりはどうやら、やらないわけにはいかないらしい」


 ハッと息をのむアイリス。

 ナデシコの言葉から伝わるその明らかな“覇気”に、再び彼女の横顔を見つめた。


 先程までの、おどけていた姿はどこにもない。

 それどころか、不敵に青年達と舌戦を繰り広げていた、あの顔でもない。


 それは初めて見る、ナデシコの真っすぐで、硬く、明白な“敵意”の顔だった。


 “探偵”が呼吸を深く繰り返す。

 そして視線を走らせ、男達の姿をじっくりと観察した。


 夜風が酷く冷たく感じる。

 それは細い線の体の奥底に、今までにない熱が燃え上がりつつあったせいかもしれない。


 しっかりと前を見据えたまま、ナデシコはアイリスに告げる。


「アイリス、良いかい。私の側にいな。もし本当にやばいとなれば、あんただけでも走って逃げるんだ」

「ッ――!? そ、そんな――」

「やるからには、しっかり守る。だけど情けない話、私も無敵ってわけじゃあないからね。なにかあれば、まずは自分の身をしっかり守りな。いいね?」


 力強く、しかしどこか後ろ向きな言葉に、アイリスは言葉を失ってしまう。

 それほどまでに、今のこの状況は二人にとって“まずい”ということでもあった。


 普通の女性に比べて、ナデシコは強い――アイリスも、それは十分理解しているつもりだ。


 だがそれでも、周囲に群がるこの屈強で常識外れの男達を前に、どこまで戦えるのだろう。

 周囲から伝わる圧に、アイリスの心が震えてしまう。


 また一歩、男達は前に出る。

 彼らが慎重に間合いを詰める中、ナデシコはゆっくりと両手を持ち上げた。


 男達だけでなく、アイリスもその姿に目を見開いた。


 腰を少し落とし、微かに開いた手を下腹部の辺りまで持ち上げている。

 その掌は前――こちらに向かって来ようとしている男達に向けられていた。


 明らかに、今まで見たことのないナデシコの構え。

 それは彼女が、迫りくる外敵と“戦う”という意思の表れだ。


 目の前の男が駆け出す。

 雄叫びと共に、握りしめた拳を真っすぐナデシコに放った。


 たまらず、背後のアイリスが叫ぶ。


「ナデシコ――!!」


 少女の叫びを背に受けても、ナデシコは動かない。

 迫ってくる巨大な岩のようなそれを、ただ静かに見つめる。


 いつもこうだ――“これ”を使うときは、いつもこんな状況ばかり。


 使う機会がないならば、こんなものは封印しておきたいのである。


 かつての自分を。

 かつての“汚点”を思い出す、一番の要因。


 苦く、辛い思い出が詰まった“これ”を、普段は使わないように心掛けている。


 だがそれでも、最後の最後に頼るのはいつも“これ”だ。


 付け焼刃ではなく、その肉体に本能のレベルまで染み付かせた“技術”。

 大切な人から教えられた、本来ならば誇りたくなるはずの“武”。


 向かってくる拳を、ナデシコの左手が捉える。

 一撃を止めるのではなく、払いのけるように後ろに流した。


 反対に、ナデシコ自身は大きく前に出る。

 男の一撃と同時に、残った右掌を彼の胴体に叩き込んだ。


 拳すら握らないその一撃は、男の肉体に“波”のような衝撃を伝搬でんぱんさせた。

 音こそささやかだったが、一撃を見舞われた男は二の手を出せない。


 呼吸ができない。

 それどころか、肉体が言うことを聞かない。


 かっと見開いた目は血走り、大きく開け放たれた口からは怒号ではなく、声にならない悲鳴が、かすれるような呼吸音となって漏れ出していた。


 ナデシコは更に動く。

 男の腕を掴み、自身が腰を切る動作と共に、一気に引く。

 探偵よりも頭二つ大きな男が、あっという間に投げ飛ばされ、受け身も取れずに煉瓦に叩きつけられた。


 ずんっ、と仄暗ほのぐらい大地が揺れる。

 その突然の事態に、アイリス、そして残った四名が息をのむ。


 ほんの数秒、男達は混乱していたようだが、一人やられた程度では止まるわけもない。

 後方の一人が狙いをナデシコではなくアイリスに絞り、そのか細い身体目掛けて襲い掛かった。


 アイリスの悲鳴を、すぐ脇から飛び出した“突風”がかき消す。


 いち早く駆けだしたナデシコが、男の放つ蹴りを迎え撃つ。

 大振りの一撃もまた、ナデシコの手によって受け流され、虚しく空を切る。


 勢い余って転びそうになる男に、さらにナデシコは接近した。

 男の顔を掴みながら、素早く足を払う。

 と同時に頭を押し込むことで、男の体がくるりと宙で回転した。


 またも息をのむアイリス、そして悪漢達。


 ナデシコは躊躇ちゅうちょすることなく、浮かび上がった男の胴体を真下――すなわち煉瓦目掛けて叩き落した。

 鈍い音と共に大地が揺らぐ。

 その中に、男のうめき声が痛々しく混じった。


 瞬く間に二人目を沈め、それでもナデシコは素早く立ち上がり、またも構える。


 決して力を込めないリラックスした体勢。

 だがそれでいて、全身に一切の隙を見せない、洗練された迎撃の備え。


 アイリスはかつて、ナデシコと話した彼女の“生い立ち”を思い出していた。


 何人投げ飛ばしたか、分からない――今使っているそれこそが、ナデシコがかつて振るっていた“力”そのものだ。


 彼女が両親から教わった技。

 そしてかつて、むやみに振るい、彼女の過去に影を落とした、あの技術。


 柔術――いままでのような破天荒な格闘技ではない。

 彼女が幼少期から肉体に身に着けた、“本身”の技を炸裂させている。


 アイリスが呆気あっけに取られている間に三人目が襲い掛かり、そしてまたナデシコに迎撃されていた。

 流れるように胸に掌底を叩き込み、間髪入れず投げ飛ばす。


 攻撃を受け、流して無効化し、そして投げる。

 そのあまりに洗練された一連の“システム”に、男達は手も足も出ない。


 残りは二人――そう安堵あんどしかけたのも束の間、騒動に感付いた悪漢達がまた数人、駆けつけてしまう。


 再び迫ってくる脅威に、身をすくませるアイリス。

 しかし、男達から彼女を守るようにさえぎり、ナデシコが立つ。


 そのあまりにも鋭い視線に、男達はたじろいでしまった。


「私らがただじゃあすまない。そう言ったね?」


 ぞくり、と空気が震えた。


 アイリスはたまらず、かすれるような声ですぐそばの探偵の名を呼ぶ。

 しかし、闘争の覚悟を決めた彼女に、その言葉は届かない。


「私も同じ事、考えてたんだ。来る限りは相手をする。手を出せば、思いきり、下が石畳だろうがなんだろうが、投げ飛ばす」


 構えたまま深く呼吸する。

 その体の周囲の景色が、まるで陽炎かげろうの様に揺らいで見えた。


 彼女から立ち上る確かな“闘志”が、錯覚させる。


「女だろうが関係ない? ああ、そうさ。関係ないわな。これから喧嘩するのに――男も女もない」


 探偵のその姿に、かつての“彼女”が被る。


 身に着けた力を制御する気すらなく、己が四肢にて振るい続けた“災害”のようなそれが、顔を覗かせる。


 ナデシコは冷たい空気をありったけ吸い込み、湧き上がる敵意を乗せて叩きつけた。


「もたもたしてないで、とっとと来なよ。とびっきり痛い目みたいやつだけ、前に出な!!」


 大気が震える。

 夜の冷たさに、次元の異なる別の悪寒が加わる。


 駆け抜けた風が、ざわざわと木々を揺らした。

 先程までよりも明らかに強いそれが、夜の公園を駆け巡る。


 草木と潮の香り。


 それらが思い出せなくなるほどの濃厚な“闘争”の匂いが、夜の闇に重々しく溶けていく。


 動揺し、狼狽ろうばいする男達の中に混じり、アイリスもまた、肉体の震えを押し殺していた。

 自身の盾となってくれているはずの“彼女”が、なぜだかひどく怖い。

 

 “彼女”にうっすら被る“ヴィジョン”の中に、なにか得体のしれない狂気が覗いていた。

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