15. 遁走する術

 キャップをかぶった青年は、少し眠たそうな眼差しのまま二人を見つめ「ふぅ~ん」と気だるい声を上げた。


「先輩がやられちゃうからどんな怪物なのかと思ったけど、なんだなんだ、どこにでもいそうな女の子だねえ。一体全体、どんなトリックを使ったんだろうか」


 殺気立った周囲の男達に比べて、青年の態度は随分と柔和にゅうわだ。

 ゆったりと、自然体でこちらを見つめている。


 だがその場違いな余裕が、彼がこの中でひときわ抜きんでている、という事実をナデシコに伝えた。


 十数名の男――しかも、金属バットやら木刀、チェーンといった“凶器”までたずさえた、明らかな悪漢達。

 そんな集団でたった二人の女性を取り囲むという非日常に、キャップの青年は慣れきってしまっている。


 相当に“まとも”じゃあない。

 肌がぴりつく感覚に歯噛みしつつ、ナデシコはそれでも余裕は捨てない。


 数ミリでも退けば、こういうタイプはそこを見逃さず、一気に圧をかけてくるからだ。


「先輩……ごめんねぇ、ちょっとなんのことか分かんないなぁ。覚えある、キャサリン?」


 唐突に隣に立つアイリスに問いかけるも、少女は目を丸くして驚くばかりだ。

 あくまで偽の名を使ってかく乱しようとしたが、すかさず青年が切り込む。


「ああ、変な気を遣わせちゃったね、ごめんごめん。もう隠す必要はないさ。ある程度は分ってるからね。名探偵・ナデシコちゃんに、そのお友達のアイリスちゃんでしょ?」


 言い当てられたことに驚きつつ、怖気おじける自分の背を押し、さらにおどけて見せる。

 虚勢もまた、ナデシコ流の“探偵術”のささやかな一つだ。


「おっとぉ、鋭いなぁ。なによ、おたく、エスパーかなにか?」

「いやいや、とんでもない。ただちょっと、君らの会話を盗み聞きさせてもらってただけさ」


 ふぅん、と気にしてないふりをしつつも、内心では歯噛みしてしまう。


 つまるところ、ナデシコ達がこの「キングダム」に足を踏み入れてから、彼らに監視されていたということである。

 今思えば、不用意にあれやこれやと会話しすぎたのかもしれない。


「盗み聞きとは趣味悪いねえ、あんた。で、私らに何か用? あいにくだけど、忙しいんだよね、こっちも」


 青年の表情はまるで揺らがない。

 周囲の悪漢達とは対照的に、穏やかな眼でこちらを見つめていた。


「それはそれは失敬。もう少し早いタイミングで声をかけるべきだったかな? ただ、僕らとしてもこのまま、君らに帰ってもらうわけにはいかないんだ。なにせ僕らの“上の人”が、君らをご所望しょもうだからね」


 たまらず「上の人ぉ?」と露骨に不機嫌な声を上げるナデシコ。

 青年はアイリスを指差しながら、続ける。


「数日前、そのに声をかけた男性――僕らの先輩にあたる人なんだけど、そこの探偵さんが随分とまぁ、無礼を働いちゃったみたいでね。先輩もカンカンで、何が何でも二人を連れてこい――って聞かないのさ」


 もはや思い出すまでもない。

 ナデシコだけでなく、アイリスまでも“先輩”と呼ばれる人間に心当たりがあった。


 二人が出会うきっかけになった、路地裏――アイリスを無理矢理に勧誘し、強引に連れ去ろうとした、あのモヒカン頭の男である。


 ようやく状況が飲み込めた。

 つまるところ、二人を取り囲んでいるこの男達は、ナデシコが打倒したかつての悪漢と繋がりがある、ということだ。


 コケにされて、火がついたか。

 となれば、それを着火したのは、ナデシコだということになる。


「あ~、なっるほどぉ。あのトサカ先輩の手下ってことね、あんたら」

「随分な言われようだなぁ。先輩のトレードマークを、堂々とけなしちゃったわけだね」


 あちゃー、とおどけて見せる青年。

 その軽いリアクションとは裏腹に、指の隙間から覗く眼光は鋭い。


 じりり、と二人を取り囲む輪が小さくなる。

 ナデシコも見せかけの笑顔を浮かべながら、冷静に視線を走らせていた。


 左右は建物の壁で逃げられない。

 とすれば、いよいよ目の前の出口か、先程まで歩いてきた施設に続く通路しか、逃げ場はない。

 そのどちらをも、殺気立った男達に潰されてしまっている。


 さりげなく、慎重に退路を探すナデシコ。

 その横で、前後を必死に見渡しながら、不安そうに震えるアイリス。

 彼女の目には悪漢達だけでなく、彼らの放つ怒気そのものが“ヴィジョン”として浮かび上がっていた。


 その中でやはり、とりわけ目を引くのは前方に立つ青年である。

 彼の笑顔の上で“怪物”が笑っていた。


 真っ黒な体と、赤と青の目を複数持つ“蜘蛛”だ。


 おびえ切ったアイリスを横眼に、ナデシコは歯噛みしていた。


 たった一人ならどうにかできるかもしれない。

 だが、今は状況が違う。

 真横に立つこの少女を守りながら、この男達を相手取ることができるか。


 打開策をあれこれと模索するが、その思考をキャップの青年がさえぎる。


「小細工だとか、悪だくみはやめたほうが良いよ。このまま大人しく一緒についてきてくれるなら、何もする気はないんだ。だけどそっちが暴れるっていうなら、それなりのことはしないといけなくなっちゃうからね」


 あくまでも優しく、そして裏に濃厚な“黒さ”を秘め、語り掛ける。

 そんなねっとりとした言葉に笑みを返しつつ、ナデシコはゆっくりとポケットに手を入れた。


 瞬間、耳をつんざく「パァン」という破裂音に、目を見開いて動きを止める。

 アイリスも「ひっ」と悲鳴を上げ、身を引いてしまっていた。


 キャップの青年がその手に“凶器”を持ち、こちらに向けている。

 先端から微かに白煙が上がっていた。


 あまりにもシンプルで、あまりにも見慣れた“脅威”に、ついにナデシコのかりそめの笑顔がはがれてしまう。


 銃――周囲の面々が持つ粗暴な武器とは一線を画すそれに、ナデシコだけでなくアイリスも呼吸を止めていた。


 見れば、ナデシコの足のすぐ側のアスファルトが、えぐれている。

 さすがの探偵もこの想定外の事態に、頭に浮かんでいた無数のプランを放棄せざるをえない。


 銃口を向けたままの青年は、にっこりと笑って伝える。


「ごめんごめん、驚かせちゃって。大丈夫、安心して? 本物じゃあないよ、いわゆるガス銃ってやつさ。こういうの集めるのが趣味でね。ちょっと――いや、かなり、か? ――とにかくまぁ、色々いじってはいるけどね」


 通常のガス銃でも、ここまでの威力は出ない。

 おそらく、相当な“魔改造”を施された、違法な一品なのだろう。


「変な動きはしないほうが良い。改めて言うよ、大人しく僕らについてきてほしいんだ」


 しっかりと銃口が、ナデシコの額に向けられている。


 実弾ほどの威力はない。

 それでも人間の皮膚を突き破り、重大な傷を負わせられるだけの威力を秘めたそれに、全身の肉が強張こわばる。


 じりじりと、さらに悪漢達が近付いてくる。

 ナデシコはため息をつき、言い放った。


「分かった、分かったよ! こーさん、こーさん!! 鉄砲なんか持ち出されちゃあ、どうしようもないっての」


 ポケットから手を出し、高らかと持ち上げるナデシコ。

 探偵の突然の“降参宣言”に、すぐ隣に立つアイリスが振り向く。


 この場において降参するということは、周囲に群がるこの悪漢達に自分の身を委ねるということだ。

 今までどんな窮地きゅうちでも戦い抜いてきたナデシコにとって、おおよそ考えにくいいさぎよさである。


 少女の瞳が不安で微かに揺れた。

 しかし、そんなアイリスに対し、視線をそらさずナデシコは小声で伝える。


「真面目にやり合うのは無理。本当は使いたくなかったけど、やるしかないね。“アレ”を」


 息をのむアイリス。

 ナデシコはなおも前を向いたまま「気付かれないように」と続けた。


 ナデシコは腕を上げたまま、左手の人差し指を立て、なにかを確認する。


「ついてるねぇ、風向きはあっち、か。アイリス、事務所で伝えていた“アレ”だよ。覚えてる?」

「え……あ――う、うん。でも“アレ”って」

「なんにも難しくはないさ。私の合図で、あんたは思いっきりやればいいだけだよ。大丈夫、信じて」


 どくんどくんと、鼓動が加速する。

 ナデシコのそれより、圧倒的な速さでアイリスの心臓が脈打つ。


 アレ――ここに来る前、探偵事務所でナデシコから教えられたことを思い出す。


 しっかりと覚えている“それ”を心の中で反芻はんすうしつつ、必死に視線を走らせた。

 少女の体の中を、ありったけの不安が満たそうとするも、探偵が前を向いたまま言葉で背を押す。


「大丈夫、ちょっとしたトラブルさ。環境も整ってる。できるよ。怖いのは分かるけど、問題ない。私を――いや、自分を信じな」


 信じる、というその一言で、心が脈打つ。


 今までのような、不安、恐怖による、制御のできない鼓動とは違う。

 もっと力強く、肉体の奥底が鳴動する。


 かすかに一度だけ、アイリスはナデシコの横顔を見た。

 まっすぐ前を向いたその顔は、やはり笑っている。


 こんな絶望的な状況で、どこまでも危険な香りしかない空間で。

 この探偵は、なおも止まるつもりはない。


 なぜだろうか。

 なにがこれから起こるか、まるで理解できない。

 だがその予測のできない数手先に、微かでも“光”を感じる。


 探偵のその横顔は、いついかなる時でも前を向いているからだ。


 ゆっくりと手を上げ、いわゆる“ホールドアップ”の姿勢を作るナデシコ。

 ため息をつき、さらに言い放つ。


「ほら、連れてくんならとっととしてよ。本当なら、仕事上がりなんだから」


 それを見た青年が銃口を向けたまま、くすくすと笑った。

 張り付いた笑みの裏側に、ギラリと光る凶悪な色が消えない。


「ありがとう。良かった、手荒なことはしなくてよさそうだね。そっちのほうが、お互いカロリーも少なくて済みそうだし」


 銃口を向けたまま、こちらに近付いてくる青年。

 そしてさらに距離を詰めようとする悪漢達。


 アイリスもまた、ゆっくりと手を上げる。

 少女の手が肩より上に持ち上がったところで、ナデシコが気だるそうにつぶやいた。


「もう遅いしね。探偵のお仕事はそろそろ終わり。ここからは――」


 一歩だけ、キャップの青年が踏み込む。

 体重を移動させるその刹那、目の前に立つ女二人を、瞬時に観察した。


 彼の洞察力がこの中で唯一、その“違和感”に気付かせる。


 手を上げたナデシコ。

 右手は開いたまま、高らかと持ち上げている。

 一方左手はというと、いまだに指を開かず握りしめたままだ。


 否――反射的に見開いた眼に、すぐ目の前のナデシコが映りこむ。


 どこまでもいつも通りに、どこまでも変わらない輝きを目に灯したまま、探偵はただ不敵に笑った。


「――“忍びの者”のお時間だ」


 悪漢達が首をかしげるよりも、そして青年が引き金を引くよりも遥かに早く、ナデシコは動く。


 左手に握りしめていた“それ”を、思いきり足元のアスファルトに叩きつけた。

 小さな陶器製の“球体”が砕けた瞬間、ボンッという音と共にありったけの白煙が周囲に広がる。


「ッ――!!」


 男達が息をのんだ直後、彼らの目、鼻、口が一斉に痺れだす。


 激痛に悲鳴を上げる者。

 咳き込み、手を振り回して煙を払おうとする者。


 反応こそ様々だが、周囲は大惨事に包まれる。


 一足早く気付いたキャップの青年のみ、腕で口元を覆い、細目で煙の中を見つめていた。

 だが、それでもなお、煙に触れた粘膜が刺激され、涙が溢れてくる。


 煙幕えんまく――日常生活ではお目にかからない異様な道具に、悪漢達がかき乱され、混乱していた。


 キャップの青年が必死に前を向く中、そのすぐ隣を小さな黒い影が駆け抜ける。


 アイリスが脇をすり抜け、煙からいち早く脱出していた。

 彼女は口元を押さえ、呼吸を止めたまま、一気に煙の外へと走っていく。


 青年の銃口が少女の背中へと向けられた。

 だがその銃口を、すぐ脇から伸びた手が押さえ込む。


 煙にさえぎられた視界の中で、あの探偵の声が響く。


「そんなやばいもん持ち出したんだからさ。自業自得ってことで、ごめんね」


 振り向く暇すらなかった。


 気が付いた時には足をかりとられ、青年の体が仰向けに倒れ込む。

 視界を奪われた混乱状態で受け身など取れるわけもなく、ただ無様ぶざまに背中からアスファルトに叩きつけられた。


 青年の「うぐぅ」という悲痛な声を背に受けつつ、ナデシコもまた、煙幕から脱出していく。


 風向きは“王国”の外――すなわち、ナデシコとアイリスが走る方向と一致している。

 辛味成分をふんだんに配合された特注煙幕は、ナデシコらの後を追うように広がり、二人を追撃しようとする悪漢達をなおも苦しめる。


 必死に走るアイリスに、ようやくナデシコが追いついた。

 既に息が上がりつつあるアイリスに、ナデシコは笑う。


「オッケー、オッケー! ナイスタイミングだったよ、やるじゃん!」


 賞賛されるも、アイリスは答えるほどの余裕がない。

 汗だくで駆けながらも、必死に「う、うん」と相槌を打つのが精一杯だ。


 全て、二人が事前に打ち合わせした通りだった。


 捜査の中で、どんな厄介ごとに巻き込まれるか分からない。

 今回のように、多勢に無勢を強いられるケースも当然考えられる。


 ナデシコだけならまだしも、闘うということに不慣れなアイリスにとって、荒事は厄介だ。

 だからこそ、そういったケースに遭遇した場合、いかにして“逃げる”のかを、あらかじめ打ち合わせていたのである。


 ナデシコの用意した特注の煙玉。

 その破裂と同時に、呼吸を止めたまま一気に走り抜ける。


 たったそれだけのことだが、今回は見事に窮地きゅうちを切り抜けられた。


 これはもはや“探偵”の持つスキルではない。

 ナデシコが崇拝するもう一つの存在――“忍者”が用いる逃走術。


 いわば“遁術とんじゅつ”と呼ばれる技能である。


 娯楽施設・キングダムを後にし、人混みをかき分けとにかく走る。

 後方で男たちの怒号が聞こえるも、かなりの距離を稼げたようだ。


「ど、どうするの、これから!? どどど、どこに逃げれば――」

「落ち着いて。あの唐辛子パウダーは、なかなか落ちないんだ。もろにくらった奴らは、まだ当分は身動きとれないはずさ」


 追いかけてくる悪漢達はいまだに咳き込み、目を擦って苦しんでいる。

 それだけでも、二人との距離はグングン離れていっていた。


 ただし、ナデシコらも無傷とはいかない。

 目、喉の微かな不快感と、なにより全身にまとわりつく異臭はあまり好ましいものではなかった。


 路地に入り込み、右へ左へと駆け抜ける。

 ぜえぜえと息を荒げながら、アイリスが叫ぶように問いかけた。


「ど、どこまで走れば――!!」

「まだ、奴ら追ってきてるからね。しつこいのが諦めるまで、とにかく距離取るんだよ」


 明確な終わりの見えない逃走劇に、アイリスの顔に悲痛な色が浮かぶ。


 だからといって、足は止められない。

 いつまた、あの悪漢達に追いつかれるか。

 それを思うと、どれだけ足が痛もうが、肺が悲鳴を上げようが、とにかく前に体を押し込んだ。


 パニックになりながら走るアイリス。

 一方でナデシコはまだまだ余裕を見せている。


 颯爽さっそうと駆け抜けながら、彼女は少女に笑いかけた。


「それにしてもあんた、本当に良いタイミングで動けてたよ。探偵よりも、忍者の素質ありかもね」


 言い放ち、無邪気に笑うナデシコ。

 アイリスはというと、もはや頷く余裕すらなく、探偵の笑顔に腹すら立ってくる。


 こんな無様ぶざまな忍者なんていないよ――心の中で悪態をつきつつ、生唾でからからの喉をうるおし、またありったけの空気を吸い込んだ。


 夕日が落ちかけ、仄暗ほのぐらくなった街の中を、ただ二人は駆ける。

 彼女らの巻き起こした微かな突風に、道ゆく人々は皆驚き、二つの影に振り返っていた。

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