10. 手合わせ
パァン、という乾いた音がまた一つ、ジムに響き渡る。
ある者はダンベルを持ち上げながら、ある者はランニングマシンに乗りながら、ある者はストレッチをしながら――各々が自身のトレーニングを続けつつ、それでも視線だけはしっかりと“ある一点”を見つめていた。
ジムのほぼ真ん中に配置されたリング。
ボクササイズなどに利用するための簡易的な闘技用ステージに、その目は釘付けになってしまう。
ある者は完全に鍛錬の手を止め、すぐリング脇からその“戦い”を観戦し始めてしまった。
跳び蹴りを受け止められ、すぐさま着地し、距離をとるナデシコ。
既に白シャツは汗でぐっしょりと濡れており、下につけたスポーツブラが透けている。
しかし、恥じらうつもりもない。
歯噛みし、肩で息をしながら呼吸を整えている。
その視線の先に立つのは、金髪をまとめ上げ、眼鏡を外し、同様にシャツとジャージという身なりをした美しい女性――ナデシコの知り合いである女刑事・ユカリである。
ナデシコと違い、汗一つかいていない。
構えも作らず、ただ直立不動のまま静かに前を見ている。
その“静”に、とびっきりの“動”が突進する。
踏み込み、左右の拳を叩き込むナデシコ。
指から先が露出した“オープンフィンガーグローブ”を付けた拳が顔面を襲う。
上体を微かに反らすだけで、ユカリはそれを避ける。
寸止めなどしない本身の攻撃を、瞬きもせずにしっかりと捉えていた。
二撃が無駄になってもナデシコは止まらない。
歯を食いしばり、更に体を加速させる。
ここから――肉体をひねり、回し蹴りで胴体を狙う。
だが、その一撃はユカリの刺すような蹴りで止められてしまう。
炸裂部に伝わる痛みを気付けに、すぐに切り返す。
蹴り、殴り、またも蹴り、殴ると見せかけて蹴り――拳と足による高速の攻撃が、狭いリングの中心でつむじ風を生んだ。
リングの上で繰り広げられるハイスピードの攻防に、周囲の人々は魅了されてしまう。
本来、軽い運動のためにしか利用されない粗末なリングで、規格外の攻防が巻き起こされているのだ。
つい五分ほど前から始まったこの“スパーリング”は、瞬く間にジムに来ている客達を惹きつける“ショー”へと進化していた。
もっとも、会員同士でのエクササイズやスパーリングなど、特に珍しいことではない。
プロの格闘選手も利用するジムであるから、そういった激しい攻防に立ち会う機会も、ままあることだ。
それをもってしても、今リング上で行われている立ち合いは別格だと言える。
ナデシコの戦い方は羽のように身軽で、上中下段を使い分けるだけでなく、跳び蹴り、回し蹴りを組み込んだ“奇抜”なスタイルだ。
意表を突き、相手の意識の外を狙う、変化球の集合体のような戦い方である。
跳びはね、しゃがみ、回転しながら、人間離れした攻め手を見せるナデシコはもちろん。
だがそれ以上に、“観客”達はもう一方の女性に目を奪われてしまう。
ユカリは一発たりとも被弾しない。
向かってくる拳と蹴り、それらの軌道を全て見切り、かわし、時には先に潰す。
最低限の動きで、しかし最大限の効果を発揮する、卓越したディフェンス技術である。
また一撃、ナデシコが跳び、身をひねって蹴り込んだ。
渾身の跳び蹴りも、ユカリの素早いガードで防がれてしまう。
しかし、これこそがナデシコの狙いでもあった。
思わず笑みを浮かべ、吼える。
「もらいぃ!!」
蹴りを寸止めし、身をひるがえす。
ガードのために差し出されたユカリの腕に足を絡め、組み付いた。
周囲の観衆が「おお」と沸き立つ。
腕を捕らえたまま、ナデシコの背中が先にリングに落ちる。
その勢いをもって、一気に“腕関節”を極める算段だった。
見ている誰しもがナデシコの逆転を予感する。
しかし、静かに立つ女刑事は、その遥か“上”を行った。
ユカリは腕に組み付かれたまま、自身で跳ぶ。
空中で身をひるがえし、前転して見せた。
再び沸き立つ観衆。
一瞬、逆さになったユカリとナデシコの視線が、至近距離で交わる。
宙返りして着地し、同時に腕をナデシコから引き抜くユカリ。
ナデシコが背から倒れ込んだのに対し、ユカリは優雅に音もなく着地する。
やっば――冷や汗が流れ落ちる前に、ユカリの拳が迫る。
辛うじてガードを作るも、間に合わない。
突風が正面から、ナデシコの顔面を叩く。
放たれたユカリの中段突きは、寸止めだった。
炸裂するほんの数ミリ手前で、拳が止まる。
圧倒的な迫力に、回避すらできなかった。
呆然とするナデシコに、ユカリはふっと笑い、拳を引く。
「ちょうどお昼ね。お腹減ったから、ここまでにしましょ」
髪留めをほどくと、彼女の光沢のある長髪がばさりと音を立て、輝いた。
傷一つなく立つその姿は実に優雅で、周囲の観衆も思わず見惚れてしまう。
対して、ナデシコだけは片膝をついた状態で、歯噛みしていた。
足りないか――見下ろす者と見上げる者。
この二者のどちらが“勝者”かと問われれば、明白だろう。
いらだちは、不意に響いた拍手の音で消えてしまった。
周囲の観客達が二人に向けて放つそれに、我に返ってしまう。
「はあ……今日も駄目か。いけたと思ったんだけどなぁ」
悔しがるナデシコに、グローブを外しながらユカリが笑う。
「惜しかったわね。でも、良い攻めだったわ。ヒヤッとしたわよ」
「あんな超人的な避け方して、よく言うよなぁ」
露骨に眉をしかめるナデシコに、ユカリはくすくすと笑う。
美しさ、まぶしさ、そして強さ――やはりまだまだ、何一つ勝ち目がないことに、重々しいため息が漏れてしまった。
***
「そっかぁ、まだ進展なしかぁ」
ジムの外に設置されたカフェスペースで、プロテイン入りのドリンクをすすりながら、ナデシコが声を上げる。
「そっ。あれから増員して捜査に当たってるけど、まるで手掛かりなしよ。まぁ、この街が広いっては承知の上だから、どこかに隠れられたんじゃあ、事は厄介になる一方ね」
相変わらず、警察は例の“殺人事件”の容疑者を探しているらしい。
かくいうナデシコは「ふ~ん」と気のない返事をしつつも、どこか気まずさを隠すために必死にドリンクを吸い込む。
ずばばばばという遠慮のない音に、少しユカリが目を細めた。
その容疑者なら、きっと今、ナデシコの事務所にいる。
あの黒いドレスの少女・アイリスだ。
ユカリとこうして週一で行っている“トレーニング”の予定があったため、アイリスは現在、事務所で留守番をしている。
どこにも出歩かないこと、と釘を刺しはしたものの少し不安にもなってくる。
そして、その少女の情報を、ナデシコはユカリには伝えていない。
もし彼女の存在が明るみになれば、警察は何が何でもアイリスを保護しようとするだろう。
あの殺人事件において、アイリスは核心を握る“重要参考人”――あるいは“犯人”の可能性が大だからである。
「探偵さんはどう? なにか犯人の尻尾はつかめたかしら」
「いやあ、これといって。色々と当たってみたけど、決定的なものはなんにも」
明らかな嘘――ナデシコも、相手が相手なだけに少し罪悪感が芽生えた。
せめてユカリには真実を伝えようかとも思ったが、とっさにかわしてしまう。
ナデシコ自身、まだあの少女を理解しきれていないからである。
ユカリは「そう」と眼鏡を直した。
「どこに隠れてるのかしらね。被害者にも特に黒い噂みたいなのが出てこないから、八方ふさがりよ。いよいよ、犯人に直接問いただすしかないかしらね」
「まだ遠くには行ってないと思うんだけどね。交通網も、警察は洗ってるんでしょ?」
「ええ。少なくとも、近隣の公共交通機関にはそういった記録は残ってなかったわ」
危機一髪、といったところだろう。
もしアイリスがバスや電車で街を移動しようとしたら、真っ先に警察に発見されていたかもしれない。
ナデシコも詳しくはないが、最近では至る所に監視カメラが存在し、データは逐一、連携されていると聞く。
これを見越して“あの子”は路地裏に身を潜めていたのだろうか。
もしそうだとすれば、見かけによらず、狡猾で計算高いようにも思える。
「そういえばあなた。手掛かりも収穫もないなら、“話”ってのは一体なによ?」
ユカリがフェイスタオルを丁寧にたたみながら、問いかけてくる。
ナデシコは慌てて残りのドリンクを飲み込み、笑顔を浮かべた。
「ああ、そうそう。あのさ、姐さん。この前もご飯おごってもらったところ、本当に悪いんだけどさぁ。うち、最近出費が本当に多くて――」
初めてユカリの眉間に克明な“しわ”が刻まれる。
一瞬、その不機嫌な眼差しにひるんでしまった。
「なによ、また
「あー、いやぁー……っていうか、その、かなーり金欠でさぁ。あははは」
ダメだ、押し返せ。
自身を鼓舞し、目の前で両手を合わせ、頭を下げた。
「ごめん、本当にきっちり返すからさ! お金貸してくれない!?」
ユカリの顔がさらに歪んでいく。
クールに見えて思いのほか、彼女の不機嫌な部分だけは分かりやすい。
「なによ、いよいよ現金請求? だからあれほど――」
「わーかってるって、大丈夫! ちゃんと、依頼主からも恵んでもらうからさ! ちょっとこう、色々と臨時で必要なんだよ。頼むよぉ、
周囲を行き交う人々も、必死に頼み込むナデシコを珍しそうに見ている。
先程までリングの上で火花を散らしていた二人が一変、今度は真剣に“金”の話をしているんだから、よほど奇妙に見えたのだろう。
その視線による居心地の悪さに、ユカリはため息を漏らす。
彼女は鞄の中から財布を取り出した。
「いくらくらい必要なの。私だって給料日前だから、そこまで奮発はできないからね?」
「いや、もう、本当。ちょっとだけでいいから。どうぞお恵みを」
「やめなさいよ、その言い方。ほら、踏み倒したら承知しないからね」
ユカリはしぶしぶ、紙幣を数枚、差し出す。
それを両手で受け取りながら、ナデシコは何度も頭を下げた。
「ありがとーう! これで今月、飢え死にしなくて済むよぉ、助かったぁ!!」
「良いから、静かにしなさいよ。ほら、しまいなさいって」
へこへこしながら、大事そうに財布にそれを収めるナデシコ。
ナデシコ一人ならば、月末を乗り切るくらいの最低限の銭はあるし、最悪、数食を我慢することだってできる。
しかし、今は事情が違う。
とりあえずかくまった、あの“重要参考人”のために、色々と買い揃える必要があった。
やれやれ、とため息をつくユカリ。
その眼差しの先で、困ったように笑うナデシコ。
彼女に伝えるべきか――度々、ナデシコは心の中で葛藤していた。
しかし、そのたびに思いを振り払う。
ユカリのことは十二分に信頼している。
信頼しているからこそ、中途半端な情報を彼女に伝えたくない。
ユカリだって“真実”を追い求めている。
だからこそ、ナデシコ自身が見極めた“真実”をきっちりと手渡したいのだ。
そんなわがままを、後ろめたいと思う。
だからこそ、どうしても嫌な、心無い笑顔を浮かべてしまう自分が、ナデシコは少しだけ嫌になった。
“借り”は返さなければいけない――受け取った金額の中に“真実”というとびっきりの利子をつけねば、自身のこの気持ちも晴れそうにはなかった。
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