11. 逃避者の休息
店の古びた時計を見ると、もう午後一時――すでに昼時を回っていた。
予定では今頃、探偵事務所に戻っているはずだったが、少しジムを出るのが遅すぎたらしい。
腹が減ってきてしまった。
本来ならこの後、“軍資金”を元にあれこれと食材や日用品を買って帰るつもりだったのだ。
だが刻一刻と、脳内に描いたプランが後へ後へとずれていく。
椅子に腰かけたまま、ナデシコは視線をカウンターの奥に向ける。
ナデシコが持ってきた黒いドレス――元々、アイリスが着ていたそれを、角ばった顔の店主がにらみつけている。
「なかなかどうして――うん、なるほど――ううん」
らちが明かないな――ため息をつき、ナデシコは店主に語り掛ける。
「ねえ、どう。綺麗にできそう?」
「ああ。やってやれないことはないさ。ただまぁ、うちにこういう服を持ってくる客はそういないからな。そこらの洋服と同じように扱っちゃあ、こうも繊細な服は簡単にダメになっちまいそうだ」
大柄な男と店舗の名――「ミスズ・クリーニング」と白字で刻まれたエプロンは、どこかアンバランスな取り合わせに見える。
太い眉毛の下の目を細め、彼はアイリスの私服を品定めしている。
「だが、頼まれた仕事についちゃあ、“しわ無し、待たせず、きっちりと”がモットー。どんな服だろうが、しっかりと
承諾してくれて、ほっと胸をなでおろすナデシコ。
腰を伸ばし、固まりかけている筋肉をほぐす。
「良かったぁ、さすがおっちゃん。じゃあ、お願いね――」
「ああ、合点。まぁしかし、ナデシコちゃんもついに、か」
「ん?」
なんだか妙な波長に振り向く。
店主はいまだに、ハンガーにかかったアイリスの私服を眺めている。
「やっとこういうので、自分を飾るようになったかい。“乙女心”ってやつだねえ」
「え……いやいやいや、違う違う! それ、私んじゃないから!」
服の持ち主の素性は、彼には伝えていない。
下手にアイリスのことを口に出せば、何かのきっかけに居場所がばれるかもしれない、と
しかし、それはそれで妙な勘違いを生みつつある。
「しかし意外だね。ナデシコちゃんがこういうタイプので攻めていくとはな。てっきりスポーティな趣味かと思いきや、予想以上におしとやかな――」
「話聞けっての、違うって! 私のじゃなくて、友達からの預かり物だっての!」
あれこれ言い訳は考えたが、もはや店主は聞く耳を持たない。
彼はにやりと不敵に笑っている。
「もし良かったら、トータルコーディネートしてやるからな。おっちゃんに任せなさい。伊達に服と数十年、連れ添ってないもんでね」
にっかり笑うその顔が、なんだか妙に腹立たしい。
ナデシコは何とも妙な敗北感に包まれつつ、少し顔を赤らめて店を出た。
差し込む日差しが肌を刺激する。
雑踏と車のクラクション。
店への呼び込みの声と、どこかで遠くで行われている街頭演説。
行きかう人々を眺めながら、なんだか妙な疲労感に包まれていた。
変な噂を広められなければいいが――商店街特有の情報網にぞっとしつつ、とにかく今は次の店へと急いだ。
***
誰もいない探偵事務所は、ただただ静かだ。
隅に置かれたテレビは配線が壊れているらしく、何をいじっても使えそうにない。
他には本棚にいくつか書籍を見つけたが、そのラインナップも実に多彩で一貫性がない。
分厚い法律の本は新品同様なのに、その隣に置かれた娯楽作品は擦り切れるほどに読み込まれている。
特に中でも“忍者”の登場する時代小説、SF活劇や、“探偵”の登場するミステリー物の漫画については、手垢やコーヒーの染みがついており、この事務所の持ち主の趣味がうかがえる。
どれも興味深く読んでいたが、やはり驚くほど時間はつぶせない。
一人、取り残されたアイリスは、しかたなくベッドに戻り、シーツにくるまってじっと待っていた。
あの妙な“探偵”は帰ってこない。
知り合いとの約束があったということを思い出し、慌てて出ていったのは午前のこと。
出ていく前に「無闇に外に出ないこと」と告げていた。
自身の愛用のドレスも、クリーニングに出すため紙袋に詰め、持っていかれてしまった。
服があろうがなかろうが、律義にそれを守る義理もない。
代わりのシャツとジャージズボンは少し大きいが、この姿でここから脱出することだってできる。
だが、アイリスはその選択肢を拒んだ。
帰れるわけがない――今のこんな状態で、元居た場所に帰れない。
もっと言えば、それが正しい選択なのかも、まるで自信はない。
そんな混乱した意識の中で、それでも一つだけ、妙にはっきりと思うところがある。
あの探偵は不思議な人間だ、と。
自分の言葉をなんの確証もなく信じ、そしてかくまおうとまでしてくれている。
その行動原理が、少女にはまるで理解できない。
もっと怪しむべきだし、もっと疑うべきだ。
自身の身に起きていることでありながらも、そう思ってしまう。
ただ人が良い馬鹿――には思えない。
飄々とし、柔らかく、明るく。
だがそれでいて、ナデシコの中には何か強固な“軸”のようなものを感じた。
あの探偵には、決して表に出さない、譲れない一本の芯があるのだろう。
その力強さがあったからこそ、アイリスはナデシコを少しだけ信用し始めている。
少なくとも、今まで出会ってきた人間の中には、なかなかいなかったタイプだからだ。
ベッドからまた体を起こし、洗面所の鏡の前に立つ。
ひどい顔だ。
幼い表情の中に、明らかな疲労の色が見える。
昨日よりは随分マシだが、蓄積した疲れは如実に表れていた。
ふと洗面台を見ると、あの“探偵”が置いていった、即席の顔パックが置かれている。
確か、試供品としてもらって余ったものだから、遠慮なく使え、と言っていた。
ぼぉっとしたまま、それをおもむろに開け、顔に装着してみる。
鏡の中の真っ白な仮面を見つめ、思わず苦笑いした。
なにやってるんだろう、私――まるで緊張感がない。
あの探偵と出会ってから、どうにも自身の中の不安や恐怖が、空回りしていくのが分かる。
改めて思う。
不思議な人だ、と。
再び本でも読むか――そう思い立ち、パックを付けたままソファーへと戻る。
その小さな体に、透き通った女性の声が響いた。
「ちょっといいかしら、そこの人」
びくりと反応し、恐る恐る振り向く。
入り口のドアのガラス越しに、眼鏡を付けた金髪の美しい女性が見えた。
もし、来訪者が来たら居留守か、適当に追い返せばいい――そう探偵は言っていたが、見事に目線がぶつかってしまい、隠れることすらかなわない。
互いの視線が交わったことで、アイリスは身動きが取れなくなってしまった。
緩み切っていた脳みその回路が、一気に再稼働し始める。
何とかしないと――完全に混乱した少女は、とにかく言い訳を探しながら、暴走してしまう。
来訪者を追い返すため、適当な嘘をつくために、入り口のドアへと走った。
“顔パック”を外すことすら忘れ。
「は……はい……」
幸いにもドアチェーンはついていたから、鍵だけを開けて隙間から女性を見上げた。
スーツ姿の女性は、驚いたように目を丸くしている。
その意味が、混乱した少女には分からない。
「あ、あの……なんでしょう……」
「ああ、いえ。驚いたわね、お友達かしら? 誰か人がいると思わなかったんで」
「あ……は、はあ……ちょ、ちょっと……泊まらせてもらってて……」
なんとも力弱く、たどたどしい返事である。
アイリスのその言葉に、女刑事・ユカリは「ふうん」と頷く。
「そう。あの子に、こんなかわいい友達がいたなんてね。あ、ごめんなさい。私はあの子――ナデシコの知り合いよ。ちょっと今日、あの子とジムに行ってたんだけど、忘れ物を届けに来てね」
ユカリはバッグの中から、水筒を取り出す。
コップの部分に手裏剣のマークが施された一品だ。
ださい――そんな感情はとりあえず置いておいて、アイリスの目はユカリの顔に釘付けになっていた。
同じ女性でありながら、ユカリのその整った美しさに目を奪われてしまう。
とてもこの女性が、あの奇妙な探偵と知り合いだということが、信じられない。
こちらを見つめる少女に、ユカリは首をかしげる。
「どうかした?」
「あ……あ、いや……」
「これ、あの子に渡しておいてくれる? あとついでに『借りたお金、しっかり覚えてるから』って伝えておいて」
「は……はぁ……」
まるで会話にならないが、それでもユカリはにっこりと笑い、去ってしまう。
彼女が立ち去ったことに一安心しつつ、まだ脳裏にその美貌が焼き付いて離れない。
色んな人がいるんだな――この街にきてまだ数日。
それでも、アイリスは自分が飛び込んだ世界の広大さを、そこに住む人の種類で痛感する。
むしろどれだけ、自分が世界を知らなかったのか、ということが身に染みてわかってしまう。
いまいちセンスのない水筒を持ったまま、再び裏へと戻る。
とりあえずそれを、台所の洗い場の横に置いた。
事件に巻き込まれ、何が何だか分からない。
これからどうすべきか。どこへ行くべきかも分からない。
だから今は少しだけ、この狭くてほこりっぽい探偵事務所が、心強く感じてしまう。
早く帰ってこないかな――静かで、孤独な時間は、もうしばらく続きそうだ。
もう一度、改めて本を取りに行こうと立ち上がり、ふっと洗面台を見る。
そしてようやく、アイリスは自身の過ちに気付いた。
「あ――あああああああ!」
思わず、声を上げた。
顔につけた真っ白なパックが“そのまま”だったことに、その下の頬が一気に紅潮する。
ユカリの美しい顔が、なぜあんなにも驚き、そしてほころんでいたのか、ようやく分かった。
たまらず、それを引っぺがして捨てる。
恥ずかしさにたまらずベッドに飛び込み、硬い枕に顔を押し付け悶絶した。
もうやだ――湧き上がってくる羞恥心とは裏腹に、試供品の効果は絶大だったのか、透き通った肌のみずみずしさだけは取り戻されていた。
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