9. 少女を縛る空白
粉々になったマグカップをビニール袋にまとめ、ゴミ箱へと放り込む。
だが以前、近隣住民に「分別」についてこっぴどく注意されたことを思い出し、慌てて袋を拾い上げた。
ひとまず床にそれを放置し、振り返る。
事務所のソファーの上に座り、こちらを見つめている少女・アイリスと目が合った。
「これでよし、と。大丈夫だった、火傷してない?」
「うん……ごめんなさい、マグカップ…」
「ああ、いいのいいの! あんなの、百円ショップで買った安物だから。また揃えりゃ良いだけの話だよ」
というのは実は嘘で、旅行先で買ったお気に入りの一品だったのは、少し辛い。
とはいえ、そんなことにこだわっている場合でもない。
ナデシコはソファーに腰を下ろし、再びアイリスと向き合う。
目の前にはナデシコの飲みかけのものと、アイリスのために再び淹れた二杯のコーヒーが並ぶ。
少し冷めてしまったそれらを前に、再び言葉を交わす。
「ごめんね。職業柄、あれこれ踏み込んじゃうもんなんだ。びっくりさせたね」
アイリスはやはり少しうつむきがちに視線を落とし、ちらちらとこちらを見つめてくる。
大きな眼は手元のコーヒーとナデシコの顔を、しきりに行き来していた。
女刑事・ユカリから助力を依頼された、ワンドゥでの殺人事件。
その場にいた犯人と思われる「少女」。
そして「殺人事件」という言葉に過剰な反応を見せる、目の前の少女・アイリス。
それらの「点」は、もはやナデシコの中では確実な「線」となって繋がりつつある。
本来、戸惑うべきなのかもしれない。
もしそれらが真実だとすれば、今、目の前に座っているのは、世間知らずな、ワンドゥに不慣れな気弱な少女などではない。
人を一人殺害し、逃亡している「殺人犯」である。
物証だけ見ればそうなのだろう。
だがしかし、それでもナデシコは笑顔を浮かべている。
ここからだ――軽く息を吐き、前を向く。
可能性だの、確率だので物事を見てはいけない。
その色眼鏡が、いつだって人間の眼を曇らせ、屈折させる。
「私はさ、最近ここらで起きた『殺人事件』を追ってるんだ。まだ捕まってない、犯人の手掛かりを探してたんだよ。だから、あの場所にいたのさ」
びくり、とアイリスの体が震える。
その明らかな動揺に、更に踏み込む。
慎重に。静かに。
「びっくりだよ。まさか、偶然にもその『関係者』とこうして出会っちゃうなんてね。運が良いか悪いか、分からないけどさ」
「私…私は――!」
「待った待った、分かってる! 大丈夫だから」
再び暴走しそうになるアイリスに、真っすぐ向き合う。
わなわなと震えるその大きな瞳に、ナデシコは自身の意図を告げた。
「いいかい? 誰がやったのか、何が起こったのか、誰が悪くて誰が裁かれるべきなのか――世の中はもちろん、そういうことを大事にするだろうさ。だから警察だって必死に動いてるし、街の人達は怖がってる。『殺人犯』は誰なんだ――って」
アイリスの呼吸が荒くなっていく。
殺人という言葉に、少女の心が締め上げられている。
それを理解した上で、ナデシコはさらに先に進む。
「でもね、私はそういう答え『だけ』が欲しいんじゃあない。そんなことは警察が言わなくても調べてくれるだろうし、それをどうこうするのも、専門家の奴らのやることさ。私はね――」
ずい、と身を乗り出す。
アイリスとナデシコの顔が、急激に近付いた。
少女の内面に、再び語り掛ける。
恐怖や戸惑いで、彼女が自身を――そしてナデシコという女性を見失わないように。
「『真実』が知りたい。だからやってる」
アイリスの震えが止まる。
少女はか細い声で「真実」と繰り返した。
大きく頷き、続けた。
「少女が大人の男を殺した――物証だけ見れば、そういうことなんだろう。だけどね、それだけじゃあ、十分じゃない。あの日、あの場所で何があったのか。『少女』はなぜあそこにいたのか。殺された男は何をしていたのか。そして――『誰』が殺したのか」
アイリスのか細い身体の中で、どくん、と鼓動が高鳴る。
ナデシコの顔から、へらへらとしたうわべだけの笑顔は消えていた。
強く、ただ真っすぐな瞳で対峙する。
殺人犯なのか否か。
そんなことは、今のナデシコにとってはどうでもいい。
不謹慎でも構わない。
ナデシコは今、自身の「矜持」を示している。
「私はね、全部を知りたいんだよ。殺した人間のことも、殺された人間のことも――じゃないと、裁くことなんてできない。そこにある『真実』を知りもしないのに、前になんて進めない。だから探偵をやってる」
一呼吸置き、目の前の少女の顔を見つめなおす。
アイリスの震えは止まっていた。
ソファーに腰かけたまま、背筋を正し、ただ真っすぐこちらを見つめている。
驚きの色が、最も濃いのかもしれない。
ナデシコという「探偵」の気持ちを、彼女もまた自身の心の中で反芻しているのだろう。
その「心」に真っすぐ、ナデシコは問いかけた。
「あんた、あの時、あの場所にいたんだよね。あんたが――殺したのかい?」
その問いかけに、アイリスはすぐには答えなかった。
一度、視線を手元の黒い液体に戻し、その表面を見つめる。
微かな震えに歯噛みし、だがそれでも必死に思いを巡らせていた。
考え、噛みしめ――そして再びアイリスが前を向く。
「私、やってない……私――人なんて殺してない」
静かな事務所の中で、二つの小さな鼓動が、それぞれの歩調で進んでいく。
吐き出された言葉が音となり、肉体そのものに染み込む。
数秒なのか、はたまた数分なのか。
ナデシコとアイリスは互いの目を見つめたまま、微動だにしない。
無言のまま、思いを巡らす。
瞳の輝きのみを頼りに、その更に奥の奥に潜む、心の中を覗く。
やがてナデシコはコーヒーを少し飲み、ため息をついた。
ソファーに体を預け、天井を仰いだ後に、こう告げる。
「そうか。うん――――分かった」
予想外の返答だったのだろう。
アイリスは驚き、目を見開く。
元々大きな目が、より一層、その大きさを増した。
「え……」
「まあ、最初から分かってたけどね。そっかそっか。まぁ、じゃあ手掛かりゼロに戻っちゃった感じだなぁ」
戸惑うアイリスから、ようやく視線を外すナデシコ。
後ろ頭をかきながら、虚空を見つめている。
「じゃあまぁ、やっぱり殺されたあの男の周辺を洗ったほうが良いのかなぁ。殺される理由…それが分かれば、犯人も――」
「あ……あの…」
「製薬会社かぁ、簡単に入り込めそうにないなぁ。もう一回、そのへんも含めて姐さんに相談するかな――」
「あの!!」
ぶつぶつと自問自答するナデシコを、アイリスの大声が遮る。
探偵も我に返り、目を丸くした。
「ん――ああ、ごめんごめん! いつもの癖でさ、つい。どしたの?」
「あ……えっと…」
対峙すると、これはこれで言葉が出てこない。
しばらく視線を泳がせてしまったが、それでもアイリスは自身を奮い立たせ、問いかける。
「あの…信じて、くれるの?」
「え、なにを?」
「だから……私が…やってないってこと…」
しばし、ナデシコは驚いたようにアイリスを見つめていた。
だが、すぐにためらうこともなく頷いて見せる。
「うん、だってやってないんでしょ?」
「そうだけど…」
「え、もしかして本当はやってるの? 嘘ってこと?」
「ち、違うよ! 嘘じゃない!」
「じゃあ良いじゃんか。やってないんだから」
二人の会話は、どこかで決定的に噛み合っていない。
無論、アイリスとしては自身の無実を証明したいのだから、ナデシコが信じてくれていることは安心すべきなのだろう。
だが、それでもなお理解できない。
なぜそこまで、素直――否、愚直なまでに他人を信じるのか、が。
アイリスの動揺を察したのか、ナデシコが付け足す。
「大丈夫、あんた殺してない。あんたは『嘘』ついてないもの。私ね、昔からそういうのは分かるんだ」
「でも、そんなの――」
なにも確証がない。
そう言いかけたアイリスに、さらにナデシコは続ける。
まっすぐ、強い眼差しのまま。
「いろんな『嘘』を見てきたからね。まぁ、そりゃあ私だってエスパーでもなけりゃあ、神様でもないから、何でもかんでも分かるわけじゃないけど。それでもこうして向き合って、話すりゃ、見えてくるものがあんの。あんたのそれは演技や計算なんかじゃない」
思わず、息をのんでしまうアイリス。
ナデシコの姿に再び、あの「ヴィジョン」が重なっていく。
渦巻き、無秩序に暴れ、そしてやがて収束していく「風」の束。
ボロボロのソファーに座る、シャツとジャージ姿のだらしない「探偵」。
その風体のすぐ後ろで、確かに「竜巻」がうねっている。
「なによりも『目』がそう言ってるよ。弱弱しくて、頼りなくて――でも必死だ。自分だけが知ってる『真実』を知ってほしい、ってね」
その一言で、アイリスの眼が潤む。
目を見開いたまま、突如沸き上がった感情に震えてしまう。
戸惑い、言葉を失うアイリスに、ナデシコは少しだけ身を乗り出して問いかける。
不敵で、実に意地悪な笑みを浮かべながら。
「ねえ、一つ提案があるんだ。さっきも言ったように、あんたを警察に受け渡したり、街に放り出したりなんてしないさ。落ち着くまで、しばらくはここにいればいい。だけどさ――ちょっとばかし、協力してくれないかな?」
「協力…私に?」
「そう。あの日、あの場所で何があったのか、知りたいんだ。何でもいい。あんたが見たことを、教えてほしいんだよ」
素直な善意ではないあたり、ナデシコ自身、自分のことを「調子の良いやつだ」と心の中で罵倒する。
どこまで言ってもナデシコは「探偵」である。
少女を守るだけでは、先に進めない。
彼女の中に隠れている「真実」への鍵を、手にしたいのである。
ナデシコの提案に、アイリスは実に困惑した表情を浮かべた。
両手を握りしめ、しばし目を伏せ、考えている。
急かすことはしない。
ただただ、アイリスが決断するのを待つ。
少女の表情、しぐさ、眼差し、まばたきの回数――そういうものを全て観察しながら、ただじっと耐える。
やがてアイリスは決意し、か細く、弱弱しい声で答えた。
「私……知らないの…何があったか」
「知らない? でも、あの場所にいたんでしょ」
「うん……だけど、分からないの。私、あの時――」
顔を上げるアイリス。
その大きな眼が、潤んでいるのが分かる。
底なしの悲しさが、幼い顔に覗く。
やがて告げられた言葉に、ナデシコの笑みも消えてしまう。
「覚えてない…なんであの場所にいたのか、記憶がないの」
乗り出した身が、自然とソファーに戻ってしまう。
少しだけ口を開いたまま、それでも少女にかける言葉が見つからない。
なんてこった――――ナデシコが思っていたそれよりも、遥かに事件の内容は複雑で、そして怪奇らしい。
記憶を失い、殺人現場にいた黒いドレスの少女・アイリス。
彼女は嘘をついていない。
さっきから今まで、一度も。
だからこそ、分からない。
この少女が「何者なのか」が。
殺してはいない。
だけど分からない。
自分が殺したのかどうか、すら。
それが、逃げた理由か――自分が潔白だと証明することすらできない。
彼女はただ「信じたい」のだ。自身が黒ではない、と。
時刻は昼になろうとしていた。
ブラインドが下りたままの窓の隙間から、強い日差しが事務所の中に延びてくる。
光と影がまだら模様を作り、アイリスの体をぼんやりと浮かび上がらせる。
黒く美しい長髪、幼さの残る顔、華奢な体。
どれだけ彼女を見つめようとも、その奥底にある「真実」が見えてこない。
光か、闇か。
あるいはそのどちらもか――――ナデシコは目の前に座る対極を宿す少女を見つめ、ただ力ないため息をつくことしかできなかった。
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