8. 藪の中の邂逅
底抜けに青い夏の空に、また一つ、悲鳴がこだまする。
誰の耳にも届くことのないそれは、男が振るった荒々しい拳で途切れてしまう。
がつんという硬い衝撃が、頬を叩いた。
電流のような痛みが広がり、思考を鈍らせる。
地面に倒れ込み、あおむけになったまま、離れた位置にいる友人を見ていた。
その顔はひどく腫れあがり、制服は引き裂かれ、白い肌と下着があらわになっていた。
男がその上にまたがり、暴れる彼女を必死に制している。
少女の抵抗を、男の丸太のような腕が無慈悲に押さえ込む。
頬に伝わる、冷たいコンクリートの感触。
そんな自分の真上にも、一人の男がまたがり、こちらを見下ろして笑っていた。
もう何発、殴られたのだろう。
自身の力を余裕で跳ね返し、叩き潰し、そして今こうして凌辱しようとしている。
嫌だ――――どれだけ抵抗しようとしても、まるで肉体が動かない。
ただただ、無様な震えだけが肉体を支配している。
跳ねのけられるはずだ。
隙だらけの男を、倒せるはずだ。
やれるはずなのだ。
ただ、単純に「やろうとしていない」だけなのである。
怖い――――肉体に刻まれた痛みを、しっかりと覚えている。
初めて経験するその激痛に、肉体の防衛本能が訴えかけている。
何もするな、と。
友人の下着に、男の手が伸びた。
無慈悲に、無遠慮に、男はそれをはぎ取り、目の前の裸体に歓喜の声を上げる。
動け――――動け、動け、動け、動け。
どれだけ心で吠えようとも、まるで肉体は言うことを聞かない。
こんなに私は、弱かったのか。
無力を痛感する彼女の胸元にも、暴漢の手が伸びる。
男の体温が伝わる。
体臭が、骨と肉の硬さが、嫌でも伝わってくる。
見上げた男は笑っていた。
血走った眼と、よだれを垂らした口元。
醜悪なその笑顔に、脳の回路が焼き切れる。
動け――――――喉元から上がったのは、悲鳴、そして雄叫びであった。
ソファーから跳ね起きると、ひどく全身が汗ばんでいた。
荒い呼吸のまま周囲を見渡す。
決して整理整頓されていない、掃除すら満足にできていない狭い空間。
ブラインドから差し込む微かな明かりが、部屋の中を静かに照らしている。
これが現実なのだと認識したのは、壁にかかった愛用のポスターを見つけた時であった。
黒い装束に刀を背負い、構えを作る「忍者」。
そしてその横に並んで飾られる、木製パイプをくゆらす「探偵」の姿。
なんともアンバランスな取り合わせに、ほっとする。
こんな無茶苦茶な組み合わせは、自分の部屋以外にはありえないと自覚しているからだ。
とはいえ、改めて眺めてみても、その「クール」な姿に惚れ惚れしてしまう。
脳みそが、一気に現実へと引き戻された。
ナデシコはふぅとため息をつき、ソファーにかかったボロボロのタオルで汗を拭く。
エアコンもない部屋の中で、相棒である小さな扇風機が必死に首を振っていた。
彼の頑張りは認めるが、連日の猛暑の前にはなんとも心もとないのも事実である。
部屋の真ん中に置いた低い机と、それを囲むように向かい合って配置されたソファー。
部屋の中を無理矢理、間仕切りを使って分けた「業務スペース」でナデシコは眠っていた。
やはりソファーでは満足に疲れは取れない。
髪を下ろし、シャツとジャージズボンのみというラフな格好で、大きなあくびをした。
大通りからかなり奥まったところにある雑居ビル。
その四階の一室を使ったここが、ナデシコの職場――探偵事務所である。
それにしても、久々だな――先程の「悪夢」の内容に、少し辟易する。
随分長い間忘れていたが、時たまこうして思い出し、鮮明に描かれてしまう。
もう少し、曖昧かつ荒唐無稽な着色を期待したいものだが、なかなかそうもいかないらしい。
自身の想像力の無さに、なんだか苦笑してしまう。
口の中が粘つく、嫌な感じだ。
昨晩は事が事だっただけに、まともに風呂にも入らないまま眠ってしまったのである。
体中にじっとりと張り付いた汗も、なんとも不快に感じた。
まずはコーヒーでも飲もう――間仕切りの裏に進むと、狭い空間に押し込めるように配置されたキッチンと、トイレの扉が見えた。
だがその隣に配置された安いベッドを見つめ、ナデシコは足を止める。
「あれ、起きてたんだ。おはようさん」
笑うナデシコの目線の先には、あの「少女」がいた。
ベッドの上で毛布を必死に手繰り寄せ、明らかにおびえた眼差しを向けてくる。
彼女が身に着けていた黒いドレスはハンガーにかけられ、壁につるされていた。
今は、ナデシコが代わりにと着せた白シャツを身に着けている。
サイズが合わず、だぼだぼだが仕方がない。
明らかにおびえている少女の警戒を解くべく、ナデシコは笑顔を絶やさない。
「ごめんごめん、びっくりした? 大丈夫、ここ、あたしの家みたいなもんだからさ。あの悪いやつらはもういないよ」
その一言で、少しだけ落ち着いたらしい。
少女の顔に、警戒よりもむしろ戸惑いの色が濃くなってくる。
「勝手に服、脱がして悪かったよ。だけどそれ見たら、全身ずぶぬれだったからさ。雨にでも打たれたの?」
その問いかけに返答はない。
半ば分かってはいた展開だが、どうしたものかと後ろ頭をかいてしまう。
しかし、少女はゆっくりと、か細い声で問いかける。
「あなた、誰……?」
なんとも小さく、しかしそれでいて澄んだ声だ。
ナデシコは電気ケトルで湯を沸かせながら、背中越しに答える。
なんだかんだで、コミュニケーションをとってくれたことは素直に嬉しい。
「名探偵だよ、この街の。まぁ、こんなちんけな事務所しか持てない、駆け出しだけどね」
「探偵…さん。あなたが?」
「そっ! こう見えて、結構、凄腕なんだよ? 昨日もひったくり犯、叩きのめしたんだ」
たった一つのマグカップにインスタントコーヒーを注いだ。
鼻に抜ける豆の香りが、ぼやけていた思考を正常に整えてくれる。
スプーンでコーヒーを混ぜ、心地良い湯気を堪能しながら、少女に問いかけた。
「コーヒーは、砂糖かミルク? それともノンシュガーな大人派?」
しばし、少女は回答に困っているようだったが、たっぷり間を開けた後、微かな声で「ミルク」と聞こえてきた。
快諾し、小さな冷蔵庫から取り出したミルクを一筋、溶かす。
黒の中にしばし白が尾を引き、やがて一つに混ざり合っていく。
「熱いよ」と注意しつつ、マグカップを少女に手渡す。
彼女はベッドに腰かけたまま、戸惑いつつ、だがゆっくりとそれを両手で受け取る。
ナデシコは近くにあった段ボール箱に雑に腰かけ、少女を見ていた。
大きな眼が、相変わらずきょろきょろと周囲をうかがっている。
少女はようやく一口だけ、コーヒーを飲み込む。
その表情から察するに、ミルクの割合はそこまで間違っていなかったらしい。
ナデシコはあくまで気さくに、気軽に語り掛けた。
「私はナデシコ。さっきも言ったけど、この街で私立探偵をやってる。まぁ、見たらわかるけど『そこそこ』売れてる、ね? ええっと…あんたは確か、ジェシカだったっけか」
「違う……私は――アイリス」
少女・アイリスの一言に「ああ、そうだっけ。ごめんごめん!」と大げさに笑う。
無論、彼女の名前など知らない。
シェリーだのジェシカだのという適当な名は全て創作だ。
しかし、あえて間違えることで本当の名前を引き出すという、ナデシコ流の「小細工」である。
「綺麗な名前だね。旅行客かなにか? ついてないねぇ、さっそくあんな輩にからまれるなんてさ」
返答はない。
ただただ、嫌な沈黙が流れるだけだった。
とはいえ、別段ナデシコも焦るつもりはない。
ふぅ、とため息をつき、今度は自分のコーヒーをいれるべく、キッチンに向かおうとした。
ナデシコが立ち上がったのと、少女が声を発したのは、期せずして同時であった。
「なんで……私を助けてくれたの?」
驚き、振り向く。
アイリスはしっかりとマグカップを両手で持ったまま、こちらを見上げている。
「なんで、か。いや、特に理由とかはないんだけどねえ。声が聞こえて、行ってみたら明らかに面倒くさいのに絡まれてたからさ」
ナデシコのいたっていつも通りの回答が、少女にとっては不可解でならないらしい。
戸惑うアイリスにかまわず、ナデシコは再び背を向けてコーヒーを作り出す。
「この街ではああいうことは日常茶飯事だけど、それでも誰かが怖い目にあってるの、放っておけるほど世の中割り切れないもんで」
背を向けたまま作った苦笑いは、少女には見えない。
しかし、ナデシコの感情は言葉に乗り、微かに伝わったようだ。
少女はまた一つ、口を開いてくれる。
「私…どうやってここに? あの後――」
アイリスには、ナデシコと対峙した後からの記憶がない。
彼女の強すぎる警戒心は、それにも由来している。
「ああ。あの後、あんた、気ぃ失っちゃったんだよ。救急車呼ぼうかとも思ったけど、この事務所がすぐ近くだったからさ、とりあえず連れてきたのさ」
この回答に、ようやく少女は納得したらしい。
だがここで、ナデシコは少しだけ踏み込んでみる。
「それにさ、あんた――色々と訳ありでしょう?」
びくり、と少女の全身が強張る。
ナデシコは自身のコーヒーカップを持ち、再び椅子に座った。
二つの湯気を挟んで、ナデシコとアイリスが向き合う。
「訳ありって……」
「ごめんね、分かってたんだ。ただの旅行客じゃあないってことはさ」
ナデシコと少女の大きな眼が、真っ向から向き合う。
ここから先は、純粋な親切心ではない。
ナデシコの「探偵」としての仕事が始まる。
その瞳の奥底――少女の心に、直接問いかけた。
「今のご時世、ああいうファッションは別に珍しくなんてないけどね。ただ、あんたみたいな若い子が全身ずぶ濡れのまま、あんな路地裏にいるってのは自然じゃあない。もっと言うなら――ドレスに血の匂いがついてりゃ、なおさら、ね」
少しでも柔らかく言おうと笑って見せてが、あいにく少女の緊張はほぐせない。
また微かに、アイリスの瞳が震えていた。
あの時――少女と対峙した時、ナデシコの鼻はしっかりと掴んでいた。
彼女から微かに伝わってくる血液の香り。
黒いドレスだから分かりにくかったものの、よく見れば袖にしっかりと、血痕が残っていたのである。
警察や救急車を呼ぶこともできた。
ナデシコが一般的な市民なら、間違いなくそうしていただろう。
だが、どれだけ無名でも、彼女は「探偵」の端くれだ。
彼女をかくまったのは、その裏に潜む複雑な背景を読み取ったから、というだけではない。
とてつもなく不謹慎で、だがナデシコから切っても切れない概念。
それが少女をこの探偵事務所に運ばせたのである。
好奇心――そういう意味では、ナデシコの中にも素直な善意はない。
ナデシコもまた、ワンドゥという歪な世界を生きる人間なのだろう。
女刑事から依頼された、街で起こった「殺人事件」。
そして街の路地裏とは不釣り合いな「黒衣の少女」。
それらの符号にどこか関連性があると、ナデシコの本能が訴えかけていた。
さらに何かを引き出そうと、静かに問いかけてみる。
「まあ、嫌な話だけど、喧嘩だの血だの、そういうのもこの街じゃあ珍しくないからね。軽犯罪なんてそれこそ毎日のようにどこかしらで起こってるし、時には『殺人事件』みたいな血なまぐさい――」
「私じゃあない!!」
初めて、ナデシコの言葉をアイリスが遮った。
今までとは一変、部屋の中の閉じた空気を、彼女の金切り声が鋭く震わせる。
「私、やってない……私、何も知らない……」
少女自身も、それが藪蛇だったと自覚したのだろう。
ただただ、自身の叫びに対する、力ない否定の言葉が続く。
ナデシコはコーヒーに口をつけ、苦みの中で思考を巡らした。
まさか――女刑事・ユカリから託された「事件」の像が、より一層濃くなってくる。
「やっぱり、訳ありだったってことね。あの血は他人のか。あんた、どこもケガしてなかったしね」
「違う…私、なにもしてない……あれは――!」
「まあまあ、落ち着きなって。大丈夫、なにも警察に突き出すなんて言ってるわけじゃあないさ」
まずは少女の気持ちを落ち着かせることが先決と判断した。
しかし、どれだけ優しい言葉を投げかけても、少女の耳には入らない。
「気が付いたら、目の前にあの人が倒れてて――私は――あれは私じゃあ――!」
息が荒くなり、体が震える。
その明らかな異変に、ナデシコもたじろいだ。
藪をつついて出てきたのは、蛇どころではない。
もっと大きい――「真実」が顔をのぞかせている。
「な、なあ、落ち着きなって。大丈夫だから――」
「私……私は――」
ぴしり、という音に気付き、目を見開くナデシコ。
その乾いた音の正体に気付いた瞬間、また一つ、少女が吠える。
「私、やってない!!」
ぱきん、と乾いた音を立て、アイリスが持っていたマグカップが砕け散る。
熱いコーヒーが地面に落ち、ばしゃりと跳ねた。
飛び散ったコーヒーの熱さに、我に返る少女。
目の前の光景に、目を見開くナデシコ。
微かな震えを残したまま、少女はまた弱弱しく呟く。
「ごめん…なさい……ごめんなさい…」
涙を浮かべ、アイリスが謝る。
コーヒーで濡れた手をぎゅっと握りしめ、湧き上がる震えを抑え込む。
握りしめた拳を濡らす液体のそれよりも、小さな肉体の内側でうごめく感情が、肉体を支配し、熱く縛り付けている。
街の喧騒が遠くに聞こえる静かな雑居ビルに、いつまでも少女のか細い声が響いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます