第6話
結局、由樹ちゃんは僕に何も言わずに長崎に行ってしまった。僕の心にぽっかり穴が開いた。由樹ちゃんにとって僕の存在意義とは一体何だったのだろう。本当に由樹ちゃんは僕のことを下僕とみていたのだろうか? 確かに、由樹ちゃんは僕のことを弄んでいただけだったのかもしれない。僕は、由樹ちゃんとの関係を勘違いしていたのかもしれない。僕は、今になって真実に気付いたような気がした。鈍すぎる! 僕は、惨めな自分を嘲り笑いたい気分になってきた。
しかし、思い直してみると僕みたいな人間が由樹ちゃんみたいな才色兼備の持ち主と時間を共有できたという事実は奇跡であるといえる。僕にとって由樹ちゃんと一緒に過ごした時間は僕の人生の中で非常に大きな出来事なのである。
メールもラインもブロックされた今、出来ることは手紙を書くことしか方法が見つからなかった。僕は財務省まで足を運んだ。由樹ちゃんの詳しい所在について調べようと思ったからだ。しかし、入り口で守衛に怪しまれた。不審人物とみなされ、警察に通報されてしまった。そして、警察官に色々質問を受けるはめになってしまった。状況が、悪い方向へ動き出した。何だかとても歯痒い気分だ。
「身分証明書見せてくれるかな」警察官が僕に問いかける。免許証を僕は渡した。
「君、ゴールド免許だね。凄いじゃん」警察官は何かメモを取っている。暫くして、「君は何をしている人?」
「はっ?」僕は、思わず聞き返した。
「職業だよ。職業」
「大学院に通ってます」
「どこの? 学生証見せて。へー国立、凄いね。何、勉強してるの?」
「経済学です」
「それで何目指してるの?」
「まだわからないですけど」
「んー、わからないで大学院で勉強してるんだ。いい身分だねー」
「……」
「それで、何しに来たのここまで。勉強と関係あることかな?」
「ある人の所在を調べるためにです」
「それと財務省とどういう関係があるの?」
「つい最近まで財務省に勤務していた人がいまして、その人、今長崎に出向してまして、手紙を書こうと思ったのですが所在がわからなくて」
「それで、わざわざここまで来たの? ふーん。その人だれ?」
「恩田由樹という名前の女性のキャリア官僚です」
「どういう間柄なの?」
「付き合っていました」
「へー、恋人ね。それで、所在を知りたいと」
「そうなんです」
「何だか怪しいなー。君ストーカーじゃないよね。ちょっと、荷物の中身見せてもらうよ。このカッターナイフは何に使うんだい?」
「それはですね文房具としてです」
「ポケット調べるから、両腕上に挙げて」
警察官は丹念にズボンと上着のポケットを調べた。そして、
「このスマートフォンちょっと借りるよ」警察官はスマートフォンを調べ始めた。ほかにも警察官は五、六人いて僕の周りを取り囲んでいたのだが、こそこそ話をしながらスマートフォンをチェックしていた。
「特に、異常はないからこれで開放するけど、この頃物騒な事件が多いからというか、こういうこと言うのは失礼かもしれないけれど、君、大丈夫だよね? 気を付けてね」そう言うと警察官は退散した。
この警察官とのやり取りの間に、守衛が由樹ちゃんの所在を調べてくれていたらしいのだが、こちら側にも守秘義務があるので教えられないということだ。無駄な労力を使った自分が情けなくなった。
財務省での苦い出来事から十日がたった。僕は、大学院での勉強に追われていた。何を勉強していたかというと、『資本論』第一巻 資本の生産過程 第一篇 商品と貨幣 第一章 商品 第三節 価値形態または交換価値 A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 B 総体的または拡大せる価値形態 C 一般的価値形態
D 貨幣形態 のところを中心に価値形態論の理論的展開について掘り下げるつもりでいた。
そこへ、Y教授がやってきて僕に話しかけてきた。
「どうだい、山口君調子のほうは?」
「先生、僕は今、非常に苦しいのです」
「山口君、資本論から逃げては駄目だよ」
僕は、由樹ちゃんに逃げられたことが胸を締め付けられるほど苦しかったのであって、資本論などどうでもよかった。先程、勉強に追われていたと筆者は書いたが、実のところは、僕にとって勉強など今はどうでもよく、由樹ちゃんのことで頭はいっぱいだった。価値形態論など僕にとって重要なことではなかった。しかし、Y教授は喋りだした。
「マルクスの最大の欠陥だがね、抽象的人間労働という価値の実体規定を、第三節価値形態論の前の、第二節商品に現れた労働の二重性で明らかにしてしまった結果……オイ、山口君聞いているのかね!」
「ハイ」
実際のところ、僕に対するY教授の話は「犬に論語」という感じだった。そんな状態の僕に二時間ほどY教授は、意気揚々とマルクスについて喋っていった。僕はといえば、ボディブローをしつこくもらったというか、しぶとい相手と判定まで戦ったというか、何というか、大きなストレスとダメージを貰ったような感じで、泡を吹いてぶっ倒れている感じだった。
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