夏の笑顔

 夏は笑わない。


「夏に生まれたから安易に夏と名付けられただけで、性格的には冬だと思う」


 と自嘲気味に言った通りに、彼女は北国の人間の寒さで強張った顔さながらの無表情だった。笑顔を始め悲しんだり怒ったり悔しがったり恥ずかしがったり、それらの感情は少なくとも表情には現れない。


 そういえば彼女は「感情が希薄ってわけではなく、感情を出すのが苦手なの」と言ったこともあった。


「赤ちゃん時代に、親の笑った顔を見てミラーニューロンだったかなんかの作用で人は笑い方を覚えるんだって。さぞかしうちは笑顔の絶えた家庭だったんでしょうね」


 無表情なのでわかりづらいが、これはこちらを笑わせようとしての発言だ。最近ようやくわかってきた。


 といっても笑えるわけではないのだが。たやすく家庭環境を想像できる彼女の冗談も、なかなかに笑えない。


「少し、練習してみないか」


 僕はそんな提案をしてみた。


 無表情な人間は何かと損をすることが多い。


 人とのコミュニケーションはネット上のみで十分か、あるいはまったく必要ない、という人間なら話は別なのだが、そんなのはおそらく少数派だろう。


 無表情でいる人間はあまり良い印象を持たれない。冷たそうだとか、高慢ちきっぽいだとか、ギャグが寒そうだとか、話したこともないのに第一印象だけで勝手に決めつけられ、その評価にずっとひきずられることもままある。


 逆にどんなに性格がクズでも、人懐っこい笑顔を浮かべている人間は、それだけで良い人そうとの色眼鏡で見てもらえる。


 笑顔は、最も手軽にできる化粧のようなものなのだ。


 夏も将来的には笑えるようになった方が世渡りが楽になるはずだ。と、そのように提案した。彼女はそれを聞くと素直に人差し指で口角を無理やり押し上げ、


「こうかしら」


 目尻は下がらず口角だけが上がっている。なにやら口裂け女のように見えてきた。


「目尻も下げてみて」


「目尻? ってどう下がるの?」


 本気でわからないといったような顔で、彼女が首を傾げた。思ったよりも深刻らしい。


 笑う、という行為はもはや当たり前に出来ることなので、説明するとなるとなかなか難しいものがあった。どうしたものか、と悩んでいると夏が僕の袖を掴んだ。


「あなたは笑わない私って、いや?」


 そんなことを言ってくる。


「そう言うわけじゃないが……笑ったところは見てみたい」


 僕は正直に答えた。


「そう」


 彼女は素っ気なく言う。


「ならせいぜい、笑顔の手本でいてちょうだい。いつかは、笑ってみせるから」


 相変わらずな無表情で、そこから感情を読み取ることは不可能に近かった。ただ、クレシェフ効果という奴だろうか。


 少なくともしばらくは一緒にいてくれることを約束してくれた彼女の顔は、微笑んでいるように見えた。


 僕は思わず笑みをこぼし、「ああ」と言った。

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