黄色い帰り道

 母親は学芸員、父親はデザイナー。絵を描くことを仕事にしている親の間に生まれたなら、その子が絵を描くことは当然のことのように思えた。

 両親は二人ともが芸術家を目指して挫折した過去があった。そして、娘である百音にその夢を託そうとした。百音は産まれた時から芸術家を目指すことを宿命づけられていると言えた。


 意味があるのかないのか科学的根拠もなかったけれど、良い美術品の鑑賞は早ければ早いほどいい、と彼女の両親は赤ん坊を抱えたまま数々の美術館を巡っていった。

 両親はその時に見た美術品について事細かな説明を加えたらしいが、当然というか、百音にその当時の記憶はまったくない。


 二歳になるともう筆を握った。当然、描くのは意味を取らない模様ばかりだったが、両親はそれで満足だったらしい。


 同年代の子どもと過ごすようになってからも、絵を描き続けた。まわりがボール遊びやおままごとに夢中だった時、百音はクレヨンや色えんぴつ、絵筆を握って好きなキャラクターを紙に写したりして遊んでいた。この時は、お絵かき好きな子ども同士で集まってよく絵を描いていた。


 小学生になると、どんどん絵が上手くなって友達に褒められることが増えた。「百音ちゃん絵うまい!」「また高橋が賞取ってるぜ!」

 順調に絵が上手くなっていくことも合わせて、百音はずいぶんといい気分になっていたことを覚えている。


 中学生になった。

 思春期に入り、背伸びしたい年頃の同級生は皆おしゃれや恋愛に邁進し、絵を描く人間はグッと少なくなった。それでも百音は絵を描き続けた。親は百音が絵を描いてさえいれば喜んでいたので、友だち付き合いよりも絵を優先していた。その甲斐あって、賞もたくさん取った。

 しかし、それで周りから少しずつ人が離れていったことには、なかなか気づけないでいた。


「高橋さん、この後女子で集まって――」

「やめなよ。高橋さん、人付き合いより絵の方が好きなんだから。……呼んでも空気悪くなるだけだし」


 仲がいいと勝手に思い込んでいた相手に、こう言われたこともある。気づいた時には手遅れで、百音はすっかり孤立してしまっていた。絵を描いてるだけでいいと思っていた百音はそのことにずいぶんなショックを受けた。

 ある日、百音は両親に話した。友達に嫌われるから絵を描くのをやめたいと。父親は言った。


「ははは、無理をいっては困るよ百音。凡人の言うことは気にしちゃダメだ。一つのことにひたむきに打ち込めることの素晴らしさを彼女たちは理解できていないんだよ。今やめたらきっと後悔する。さあ、筆を取るんだ。今日も教えたいことは、山ほどある」


 母親は言った。


「ふふ、百音はわかってないんですよ。貴方は同世代の誰よりも絵が上手いわ。お母さんは子どもの頃もっと早くに絵に触れていれば、ってことあるごとに思ったものなんですからね。貴方がこうしていられるのは、とても幸せなことなのよ」


 不満はあった。しかし、百音にとっては親の言うことが世界の全てだった。くすぶる気持ちは臓腑の奥へとしまい込み、それからも絵の道を邁進する日々が連綿と続いていった。


 高校生になった。一年のうちから美大を見据えて予備校に通っていた。その帰り道。もうとっくに日は暮れて街灯の明かりでぼんやりと白く照らされた帰り道だった。


「ねずみ色……浅葱色……濃紺……青……」

 

 百音には全て気が滅入る色だった。いつからか胸の奥につかえるような感覚がつきまとうようになり、物思いにふけることが増えた。そのうちに暗色を見ることさえ苛立ちを覚えるようになった。それで、絵を描くことに拒否感を示すと、親は心配してくれた。……こういう時は、心配してくれるのか。そこでまた胃の下あたりを刺す感覚を覚えた。

 百音は宙空に手をかざした。世界が明るい色だけになればいいのに。コントラストだとかクソくらえだ。明るい色に……どうせなら小学生や幼稚園の頃のように単純で力強い色。赤やオレンジ……黄色がいい。

 百音はかざした手で宙空を拭うように振り払った。

 すると、アスファルトで舗装された道路が、空間がえぐられたように色が変わった。

 百音は目を見開いた。目の前に真っ黄色な道路が突然現れたのだ。百音の手の動作に沿うように。おそるおそる手を動かすと、念じた通りに舗道は黄色く塗りつぶされていった。

 理屈はわからない。しかし、気分は高揚していてさっきまでのモヤモヤがすっと消えていった気がした。

 百音は世界を好きなように塗りつぶしていく。ブロック塀を赤に、月はオレンジ、夜空は水色。気分は絵を覚えたての子どもで、それがまた忘れていた絵を描く楽しさを呼び起こしてくれるような気がした。

 百音はスキップをしながら世界を塗り替えていった。高揚する気分が、そばの影に気づくのを遅らせた。


「お楽しみいただけてますかな」

「え、なに、誰」


 驚いて見ると百音の膝丈ぐらいの小人が、こちらを見上げていた。三角帽子と赤と白のしましまが特徴の小人で、顔には笑みを浮かべていた。百音が、小学生の頃、学校の授業で見たアニメのキャラクターに似ている気がした。百音は親の方針でアニメや映画は家で見ることができなかったから細かいところは覚えていないが、だいたいこんな姿だった気がする。

 小人は恭しくおじぎをして「モネさんを、お招きしたいところがあります」と申し出た。


「わたしは、絵の世界の住人です。絵の世界の神様は絵のうまい者を常に求めています。絵の世界では、絵の上手いことだけが正義です。いかがですか、来ていただけませんかな?」


 百音は即答した。


「行きます」


 小人はニッコリと微笑んで、百音の手を取った。


「そう言うと思ってましたとも」


 絵も世界も、単純な方がいい。絵を描くだけでいいなんて、こちらと比べてシンプルでわかりやすい。親の顔色も、伺わなくていい。それに、今は気分がいいのだ。こんな気分は、小学生の時以来だ。

 小人に手を引かれて百音は歩いた。そのうちに耳元に、なにか水の流れるような音が近づいてきたが、それも小人の用意したドアをくぐれば、ぷっつりと途絶えた。


 百音の両親は、リビングで憔悴し切った顔で座り込んでいた。百音は、もう三日も家に帰っていなかった。

 その二日後、その家の近くの河川で、学生のローファーが片方、見つかった。

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