『死』という文字。

 死、という文字を見れば、悲しくなるのか恐ろしく感じるのか……それは人によるだろう。だが、この文字を見た時に、まず『喜ぶ』『嬉しくなる』『楽しくなる』なんてイメージを抱く人は少ないはずだ。

『一』『タ』『ヒ』……、分解してみればなんてことない文字たちだが、これが組み合わさって『死』という形になれば、人はマイナスイメージに引き寄せられる。


 では、どうしてマイナスイメージがこの文字にあるのだろう。

 ――死。人が死ぬ、この世からいなくなる……、二度と会えなくなってしまう。


 それが身近な人であれば、なおさら悲しさは大きいし、面識がなくとも顔が知られている有名人であれば、喪失感が人の心に穴を空ける。


 死とは昔から、悲しみの頂点だった。


 だけど考えてみれば、この世から人が去り、二度と会えなくなる現象に『死』の文字が与えられただけだ。『死』という文字に、後から『人がこの世からいなくなり、二度と会えなくなること』という意味が与えられたのだとしても、与えられる以前の『死』という文字にマイナスのイメージはない。……文字を作った人間が、起きた現象に文字を当てはめただけで、そのせいで文字がマイナスの力を持ってしまった、とも言える……。


 仮に。


 とても甘い果実にこの文字を与えていれば、『死』という文字は今も若者に人気でよく使われる、ポップな文字になっていたのかもしれない。


 逆に、死という文字に与えられた役目を他の字に当てはめてみたら……、たとえば『苺』という文字に『人がこの世からいなくなり、二度と会えなくなる』という意味を与えてみれば?


『苺』という文字を見たら、人は悲しみや恐怖に引き寄せられるのか。


 文字も起きた事実も、人が『そうである』と決めただけだ。


 死ぬことが『重たくて暗い』ことだと決めたのは人間だ。


 なのに……、それで誰かが死ぬ度、悲しくなって脱力感に苛まれるのは、まるで自分の首を絞めているかのようだった。


 じゃあ……、死ぬことを『咲く』ことだと認識を変え、


 人間のゴールをそこに設定すれば、重たいイメージは多少は変わるのか?


『咲く』タイミングの遅い早いは関係ない。


 咲くまでにしたことが、咲くことに影響を与えることもない。咲いた後に、これまでの功績に応じてなにかが与えられるわけでもない……、人間はやりたいことをやっただけだ。


 やり切ったら咲けばいい。やりたいことが残っていれば、まだ咲かなければいい……。

 それでも咲くタイミングはやってくる。


 もしかしたらやりたいことができずに咲いてしまうかもしれない……、でも。


 人間のゴールが咲くことなのであれば。

 咲くことよりも優先されることはないはずだ。


 だから咲いたことを誇れ。


 ――人間よ、咲き誇れ。

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