12. 隣人
私の下宿先は、中央図書館からしばらく歩いて、麦畑が広がる地帯に差し掛かったくらいの場所にあった。それなりに広々していて、かつ周囲が静かそうな立地のところを、足を棒にして探し求め、やっと見つけた物件だった。
中央図書館周辺の街並みを歩いている間にすっかり日も暮れて、家の玄関まで辿り着いた頃にはすでにお腹はペコペコの状態だった。
「お、リエルおかえりー。カレーできてるよー」
そんな私をスパイスの美味しそうな匂いと、からりとした笑顔とともに迎えてくれたのは、先日から私の隣人になった少女、シーラだった。
「はあ……。シーラってば、また勝手に侵入してきたの?」
自らを画家の卵と自称する彼女はなぜかこの春から隣に越してきた私に興味を持ったらしく、時々不法侵入して来ては、こうしてご飯を作ってくれたり、部屋のベッドで猫みたいにダラダラしたりしている。
最初はフライパンとかまで持ち出して必死で抵抗したのだけれど、彼女の竹をわったようなさっぱりとした性格とか、不思議でどこか嫌いになれない雰囲気とか諸々に当てられて、最近はうまく丸め込まれてしまっている。
聞く限り、毎日本当に猫みたいな生活をしていて、生活リズムも、その日のスケジュールも本当に気の向くままみたいだった。私より朝早くに出て行って遠くの街に自分の絵を売りに行くことがあるかと思えば、夜遅くまで画板を前にうんうん唸り、次の日の昼まですやすやと眠りこけていたりもするらしい。
私には絶対真似できないような人生を歩んでいるなあと思うけれど、向こうも私に対してまったく同じ感想を抱いているらしい。毎朝同じ時間に起きて、同じ場所に出向いて、誰かから与えられた仕事や勉強をこなす。そんな行為をずっと継続できるなんてすごい、といつも感嘆される。
「今日が勤務初日だったんでしょ? お疲れ様」
シーラはニカっと笑いながらカレーを皿によそってくれる。
「あーうん。ありがとう。……シーラは?」
「今日? うーん、昼まで寝て、そこから畑を書いてたなあ」
「えっと……できたの?」
「いや全然。まだまだ苦しまなきゃ。すぐにできちゃったら楽しくないよ」
シーラはいつも、私にはよく理解できない芸術家っぽいことを言う。苦しみなんて少ない方が絶対いいと思うんだけどな。私には分からない価値観だった。
その後も主にシーラがズンズン話を進めて、私の方はタジタジになりながらそれに合わせる。そうこうしながらカレーとサラダのお皿を運んで食卓を準備し、手を合わせて食べ始めた。
「その……絵っていつ頃できそうなの?」
「さあねー。まだなんとも言えないなー」
カレーを口の周りにつけながらそう言って、シーラはクスクスと笑う。
「なんかやっぱりリエルと話すと面白いね」
「な、なんで」
「うーん。アタシとは違うなーっていつも思うから、かな」
さっきの私の発言のどこにそんなことを思ったのかよく分からなかった。でも、分からないことは怖いことなはずなのに、彼女の不可解で不思議な感性は、私にとって羨ましいような、綺麗で傷つけたくないもののような、そんな魅力を持っていた。
「それより、今日はリエルの話でしょ。初出勤だったわけだしさ。それでどうだったの会社の人は」
「え、えーっと、いい人たちだったよ?」
「そっか。それならよかったじゃん」
シーラはサラダの茹で卵に手を伸ばしながら楽しそうに応じる。そしてそれ以上は聞いてこない。私の家族にはなかなか真似できない、そんな彼女の絶妙な距離の取り方は好きだった。
カレーを食べ終わると、それじゃ! と言ってシーラはヒラリと窓から自分の部屋に戻って行ってしまった。私は苦笑いしながらそれを見届けると、業務日誌を開いて今日のことを思い起こし始める。隣の部屋から画板をガタガタと移動させる音が聞こえてくる。また作品創りで夜を明かすつもりみたいだった。
日誌を書きながら、今日出会った人々のことを思い出す。シーラもそうだけれど、みんなとても個性的な人たちだ。あんなにクセが強い人たちとコミュ障である自分なんかがこれからうまくやっていくことができるのか、正直自信はなかった。
でもなんとかして仲良くならなければ、という思いも確かにあった。だって彼らは、私にはまだないキラキラしたものに満ち溢れていたから。
社会人にはなったのだろうけど、大人になったという実感がまだ私にはない。その言葉の響きに相応しい人間になったとは到底思えなかった。いつか私が彼らみたいにキラキラできるようになった時、そこで初めて胸を張って大人になったと誇れるようになる。そんな予感がした。
いつかそんな日が来ることを夢見ながら、書き終えた日誌を閉じる。私の入社後初勤務の一日はそんな風に幕を下ろしたのだった。
リエルの魔本 群青 @Indigo0927
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