5. 苦手意識

「さて、一旦私から言いたいことはこれで全部かしらね。リエルちゃん、何か質問ある?」


「えっと、特にありません」


 漠然とした不安ならたんまりあった。でもどれもぼんやりしすぎていて言葉にできなかったので、とりあえずそう答えるしかなかった。


「そう、ならここでのお話はおしまいね」


 そう言ってジュノさんが再度オレンジ色の文字を宙空に描く。先ほど転移してきた本が勝手にパタンと閉じ、次の瞬間オレンジの光を放って消えた。おそらく元の書棚に戻ったのだろう。転移の逆行が行われたのだ。


 転移を完了させたジュノさんが、先ほど準備していた会議室のあれこれを、再び手際良く片付けていく。私はというと、元々あった場所を覚えていた椅子を直すミッションだけはこなすことができた。……まあ何もしないよりはマシだったかな。


「さて、それじゃ次は挨拶回りね。一階まで降りましょうか」


 会議室のドアに手をかけたジュノさんがこちらを振り返ってウィンクする。一階と言うことは、これから挨拶に行くのは受付の人たちなのかな。てっきり再び四階に戻って同じ業種の人と会うのかと思っていた。


 今からあそこに行くのかと思うと、情けないけど少し緊張する。一階は、この施設の受付窓口と言うこともあって、もっとも人の往来が激しいところだ。


 人混み自体もあまり好きじゃないのだけど、それよりも私にとって問題なのは、ここが地理的にも役割的にも、四つの国の中心的な施設と言うこともあって、その人混みが東西南北全ての国の住人で構成されているというところだ。


 旅行自体これまで数えるほどしかしてこなかった私は、生まれてこのかた西の国から出たことが一度もない。そんな私にとって、他国の人で溢れかえる一階の光景というのは、まさしく未知だらけの領域なのだ。


 研修期間を経た今も、一階の喧騒には慣れることができなかった。今日たまたま出勤する際に出会ったアテムさんは、私のあまりの挙動不審ぶりに、ずっとこめかみを抑えてイラつきをあらわにしていた。それを敏感に察知した私の肩が、さらに小さく丸まったのは言うまでもない。


 こんな時、できる限り堅実に、なるべく平穏に、一途に正解だけを選んで生きてきた自身の過去たちを、私は恨まずにはいられない。ハメを外して冒険して、そこで手痛い失敗をして、でもそれを後々ケロッと笑い話にできる。そんな周りの友達がいつも羨ましかった。


 そんな風に生きられたら、もっと私の人生にも深み? 厚み? みたいなものが出たかもしれないのに、と事あるごとに思う。しかしそうは言っても、やっぱり怖いものは怖い。「勇気を出すぞ」と決心しては、やっぱり怖気付くという繰り返しの毎日。私の中にある心ですら一筋縄にはいかない。ほんとに困ったもんだ。


 ジュノさんの後ろに着いてエレベータに乗り込み、一階まで降下していく。自分の職場の入り口にいつまでもビビっていてどうするんだ私。シャキッとしろ。そう自分に言い聞かせ、うつむかない決意を表明するかのように、勇ましく顎を上にあげた。……下を見るのが怖かったからでは断じてない。


 エレベーターが静かに静止した。ジュノさんに後に続いて地面に降り立つ。やはり一階の光景は壮観だった。 北の国の住人に付き従って、共に受付に向かう自動人形オートマタがいる。南の国の獣人が西の国の人と楽しそうに話をしている姿もある。目をこらせば足元で、東の国の小人たちが元気に走り回っているのも見える。そんな異文化交流みたいな場面がそこかしこで繰り広げられていた。


「やっぱりいつ来てもここは楽しげよね」


 ジュノさんは慣れた様子で一つの窓口の方へ歩みを進めた。私もはぐれないように慌てて着いていく。どうやら西の国の窓口に向かっていそうだと分かり、少しだけ安心した。その時だった。


「あれ? 見ない顔だね新人さん? 割と可愛いじゃんか」


 なんだか軽そうな調子の声と共に、後ろから頭をポンと小突かれた感じがした。その直後、少し前につんのめった私の両肩に手が乗せられ、イタズラっぽく笑う青年の顔が、突如私の顔面ほぼゼロ距離の真横に現れた。

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