第二章:すれ違う二人

第一話:人と神

――帝国暦98年11月中旬 アレクシアの屋敷



「お……ふぁぁああああああっくしょん!!! でずわ……」


 先月、ランカスターの反乱を鎮めたアレクシアは帰ってきてまもなく、病に臥せっていた。

 高熱、筋肉痛、悪寒、吐き気、鼻水。と連打を浴びて完全に倒された彼女は、自身の屋敷で療養していた。

 いくら前世の知識を持っていても、医学では素人同然の彼女は恐らくインフルエンザだろう、と素人診断を下しながら、その朦朧とする意識の中を彷徨っていた。


「ずずず……」


 鼻をすすり、医者から出された薬湯をすする。人生で初めて完全に動けなくなった彼女は、朦朧とした頭で、側で見守る医者に問いかけた。


「ごれ……ぼんどになおりまずの……?」


 地獄の底から這い出た亡者のような声。医者も思わず沈痛そうな表情で返答した。


「治ります。ただの風邪です。熱が下がるまでは寝ていて下さい」


「じみんばだいじょうぶですの……?」


「市民は大丈夫です。まずアレクシア様はご自分の事を第一にお考え下さい」


「だのみまじだわよ……」


 とは言ったものの、臥せるアレクシアを前にした医者は気が気でなかった。毎年冬の訪れを告げるように現れる流行り風邪、『見えざる悪魔』。しかし今年は異常だ。既に市内の病院は病人で溢れ、なぜかピンピンしているニキアスが指揮を取り、医者も帝国国教会も連合国司祭達も治療や看護、神への祈りと頑張ってはいるものの、子供や老人に死者が増え始めていた。


「アレクシア様……どうか早くのご快復を……」


 こういう時に我らが女神が臥せっているのは痛い……と医者も思う。

 だいたい何か知恵を出してくれる彼女は、この地の誰もの希望だった。



――その頃、ペルサキス城



 目の下に真っ黒な隈を作ったニキアスが、必死の形相で市内各所から、領地の至るところからの報告を纏めていた。

 この戦いが始まって早々にアレクシアが退場し、ただ一人で広くなったペルサキス領をまとめ上げる。既に若干脳が壊れ始めた彼は、時折不気味に笑い出しながらも、医者や官僚が作っていた緊急事態手順書に沿って必死に指示を下す。


「ふふふ……この書類の量をアレクシアが捌いていたとはね……」


「いえ、もっと多くです。アレクシア様は我々の仕事も手伝っていましたので」


 今日分の報告書に目を通し終わり、なんとか新しい患者が減り始めた事に安堵して、ニキアスと官僚は二人、茶を飲んでいた。


「そうか……じゃあ僕は彼女にふさわしいところを見せないとなぁ」


 この時代には、既に見えざる悪魔の正体を推測した医学書が存在する。『空気の如く透明で、麦粉より細かい悪魔が鼻や口から脳に忍び込む』と記述されていた。また、『人が多ければ多いほど彼らは力を増す』とされており、それに則った対策が取られてきた。


 港の封鎖に外出禁止令、地域ごとに指定した銭湯の利用許可、そして軍が備蓄している食料や石鹸などの配布。冬に訪れる『見えざる悪魔』の対処として定められた手順は、極めて合理的に作られている。

 その手順書を読み返す。流行の程度によって分かれたチャートの、その一番下。

 『最悪の事態』と書かれたところを、彼らはなんとかこなしてきていた。


「しかし連合国人もよく協力してくれるねこれ。すぐ逃げると思ってたんだけどさ」


「シェアト様からの命令だそうで。向こうの司祭が真っ先に残ると言いだしましたから」


「……接待は日頃からちゃんとしておくもんだねぇ。こないだ頭を下げてきた甲斐もあるってもんだ」


 アイオロスの件で、対岸のアルフェラッツまで出向き、下げたくもない頭をひたすら下げてきた。帝国法での賠償金の数倍の額を支払い、ただただ謝罪し続けてなんとか許しを得て戻っては来たものの、またアイオロスにやられたと蒸留酒を煽りながら怒鳴り散らしていた。

 それを思い返してしみじみと茶をすするニキアス。大好きな酒もここ数日は飲んでいない。

 アイオロスはとりあえず客室に幽閉しておいて、絵でも描いてろと画材を渡しておいた。この戦いが終わったら絶対に連合国に連れて行って跪かせてやると決意して。


 とりあえず、自分のところが一段落したということで、彼はふと気になった。


「そういや首都の情報は来てるかい? どこからでも良いんだが」


「えーっと、リブラ商会からのが最新ですね。首都は我らがペルサキスと違ってまともに統計を取っていませんが……”通りには老若男女問わず死者が転がり、川に死体を流し、皇帝は姿を見せず”だそうです」


「そりゃあ酷い……」


 その光景を想像して、ニキアスは鳥肌が立った。幸いこの地ではなんとか死者を埋葬する程度の余裕はあったし、今の所身体の弱いものにしか被害は出ていない。既に快復した若者たちは積極的に軍や教会を手伝うなど明るい兆しもある。


「ソロン宰相閣下からは、”至急、援助願いたい”とのことですがどうしますか?」


「無理だな。医者の話じゃあ、見えざる悪魔に取り憑かれたら死んでも取り憑かれたまま。……死体からでも憑るんだろ? こっちから行っても向こうで死ぬだけだ……いや、少しなら手伝えるか」


 冷静に無理だと判断を下したニキアスであったが、彼には一つ、いい考えがあった。


「なにか策が?」


「まぁ……見えざる悪魔との戦争なら共闘しよう。翼竜大隊に支援物資を落とさせる。テオを呼んでくれ。打ち合わせをしよう」


「分かりました。急ぎましょう」


 数分後、翼竜大隊隊長、そして最初に空を飛んだ男であるテオを連れて、官僚は戻ってきた。

 まだ若く、領主であり最高司令官でもあるニキアス直々に呼ばれるとは思っていなかったテオは、ガチガチに緊張した様子で執務室の椅子に腰掛けた。

 その様子を見たニキアスは、緊張をほぐすように軽く笑いかけ、穏やかな口調で話しかける。


「固くなるなよテオ大隊長。僕と歳も変わらないんだ……まぁいい。食料や新薬、石鹸に、あとは対策手順書か。プテラノドンで持てるだけ持って首都に飛んで欲しい。ただ、着陸はするな。オーリオーン城の中庭の上空に行ったら、そこから落とすんだ」


「はぁ……そんな事で良ければ」


 なにか無茶ぶりをされるのかと思っていた彼は、いつもアレクシア大学の研究者から押し付けられる気象観測……一寸先も見えない雲の中を無理やり飛んで風を測ったり、極寒の高高度からの雨雲の観測などの任務より遥かに楽なことを理解して、少し拍子抜けしていた。


「どれくらいの重さを持っていけたか、どれくらいの高さからなら正確に落とせたか。全て記録してくれ。次行くときの資料になる」


「了解しました。では準備を始めますので、これで」


 そう言って立ち上がり、去っていくテオはまだ理解していなかったが、後の彼はもっと物騒なものを抱えて飛ぶことになる。

 ニキアスは、いつか来るその可能性を考慮して、詳細な記録を残させることにしたのだった。


「あ、ランカスター地区ってどうなんだっけ? あそこって見えざる悪魔は来ないって聞いてるけど」


「エリザベス様に聞かれたらよろしいかと。……ついでですから、少しは体を動かしてきては如何でしょうか?」


 ニキアスがそう言うと、官僚は既にこの地を訪れ、城の客として部屋を与えられたエリザベスの名前を出した。


 二週間も経ったが、今だに自分の領地になったことをたまに忘れるランカスター領。もしかしたら有効な対策を知っているかもしれない。


「だねぇ。ちょっと行ってくるよ。何かあったらすぐ呼んでくれ」


 この広い城の、執務室から結構離れた客室。運動にも丁度いいとニキアスは走っていった。



 その頃、既に一週間は自室から出られていないエリザベスは退屈を持て余していた。


「ほんとヒマだわ。『見えざる悪魔』なんて……いや怖いから出たくないけど。駄目ね。独り言が増えてきたわ……ん?」


 ぶつぶつとベッドに横になりながら独り言をつぶやき続け、若干参った様子のエリザベス。食事の時間でもないのに扉をノックする音に、少し驚いた。


「やぁ。エリザベス。ランカスターって見えざる悪魔が来ないって本当なのかい? 何か対策しているとかあれば教えてほしいんだが」


「ニキアス様! ……完全に、ではありませんが。向こうは冬でも暖かいですし、悪魔は沸かした湯を嫌うと言い伝えられていますから、皆部屋の中でこまめに湯を沸かして飲みますね。ついでにその湯で洗濯をして部屋の中で干しておくと悪魔が寄り付かなくなる……とか」


 今では自分の上司になった彼の顔を見て驚いたエリザベスは、少し早口になりながらランカスターの伝統を語る。現代ではインフルエンザ予防に温かく保ち、適度な湿度を保つことが大事だと言われているが、彼らの経験則から来る伝統は概ね正しいものだった。


「なるほど、参考になるな……」


 ほぅ……とニキアスは顎に手を当てる。とりあえずランカスターには殆ど来ないというのは事実。それならなんでもやってみようと思った彼は、真似してやってみることにした。



――ニキアス達が必死で戦っていた頃、アレクシアは夢を見ていた。



 オーリオーン城。

 外は真っ白な雪に覆われていたが、城内ではあわただしく従者たちが歩き回る。

 廊下を行き交う従者たちは、まるで自分が見えないように通り過ぎていった。


「……? これは、夢ですわね。ホームシックかしら?」


 今更ホームシックもないでしょうに。むしろペルサキスのほうがよっぽど地元ですし。とアレクシアは独り言をつぶやき、彼女の夢の中を少し歩いた。

 大広間に着くとちょうど何かやっているようで、小さな白金の少女と、大きな白金の女性が眼に入る。


「アレクシア、お誕生日おめでとう。あなたが将来立派な皇帝になるのを、わたくしも楽しみにしていますわ」


「ありがとうございます! おかあさま! がんばりますわ!!」


 笑顔の母、昔の自分が元気に返事をするのを見て一瞬微笑ましく思ったが、この日は……


「まさかこの日は……! お母様!!」


 アレクシアは気づいた。母が毒殺された日。祝うことを止めた自分の誕生日。

 彼女が母親に向かって走り寄ると、景色が変わった。


 夕方のひととき、二人でお茶をした最後の記憶。

 おかわりに頼んだ沸かしたての紅茶を飲もうとして、あまりの熱さに手を離す幼いアレクシアの手をそっとさすって、母は自分の飲んでいた紅茶を差し出す。


「アレクシアったら、本当に紅茶が好きですのね。ほら、それは貰いますわ。こちらのが飲みやすいですわよ」


「それは! 駄目ですお母様!! そちらには毒が!!」


 夢だと分かっていて、母に向かって叫んだアレクシア。

 母が口をつけて毒が回るまでの間、しばらく楽しそうに話し合う二人を遠くから見ていた。

 やがて母が血を吐き崩れ落ちる。


「あぁぁぁぁぁぁぁ!! どうして……どうして……」


 それを見たくなくて顔を伏せ、泣き崩れるアレクシア。

 その彼女の頭に何かが響いた。



『お前の死は母が引き受けた』



「誰ですの!?」


 涙を拭いて振り返った先。自分と同じ顔をした真っ黒な少女。

 彼女は張り付いたような無表情。その真っ赤な瞳で、じっとアレクシアの目を見つめる。


「我はお前。お前の力。お前を信じる者達の意志」


「いい加減なこと抜かすなですわ。貴女がシェアトの言ってた神の力? あったとしても、喋ってくるとかねーですのよ」


 悪夢を見て機嫌の悪いアレクシアは、自分の夢の侵入者を睨みつけた。

 しかし黒い少女はそれを意に介さず、アレクシアに語りかける。脳内に響くような声。

 まぁ夢の中だし脳内ですけれど……と彼女は身もふたもないことを思った。


「我は神祖アポロン。そしてランカスターの神。そしてアンドロメダの主神ゼウス。人の意志とは神そのもの。お前はその器のひとつ」


 自らを神と名乗るその暗く冷たい声をやっと思い出した。ランカスターで自分の口から出た声。

 はっとしたアレクシアは彼女に聞く。


「まさか、この間の……?」


「肯定する。器の娘よ。我は意志なき意志の力。我の言葉はお前の言葉。お前は気づいた」


 こいつの言葉が自分の言葉……? 気づいた……? あぁ、つまりこれは自分の立てたありえない仮説、信仰の力だとかを夢がそれっぽく代弁しているだけか、とアレクシアは拍子抜けした。

 そう気づくと、黒い少女が途端に道端の石ころ並みにどうでもいいように見える。

 急に馬鹿馬鹿しくなったアレクシアは、さっさと目覚めようと、この夢を追い払おうと大声を出した。


「……なるほど。これは夢で間違いありませんわね。わたくしは自分の意志で戦いますのよ! わたくしから出ていきなさい! 神の力? 信仰の力? 扱えない力など人には不要ですわ!!」


「良い。やはりお前は神の器。夢から醒めよ」


「どうせ貴女、わたくしの意志なんでしょう? 自画自賛なんてキモいだけですの!!」


 相変わらず仏頂面の黒い少女に向けて中指を立て、歯を剥いて威嚇する。

 一瞬だけ黒い少女が笑ったように見えたが、どうせ夢の中、見間違いだろう。

 視界が急にぼやけて覚醒に向かう夢。アレクシアは最後に誰かのつぶやきを聞いた。



『民の病はお前が引き受けた』



 朝。目覚めたアレクシアは大きく伸びをして、大きくあくびをする。

 身体が軽い。熱もない。ベッドの近くでは、看病していた医者と従者がぐっすりと寝ていた。


「治ったみたいですの……」


 しかし夢の自分が自分のことを神だと名乗るなんて……と彼女は布団を抱きしめ、恥ずかしさのあまり足をバタバタさせた。

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