第一話:帝国の後継者

「おファックですわ!!!!」



――オーリオーン帝国暦98年 1月



 オーリオーン帝国第五代皇帝指名の儀を終えたアレクシア=オーリオーンは激怒していた。

 腰まで伸びる白金の髪が冬の太陽に照らされて虹色の輝きを放ち、白磁のような肌が指先まで灼熱に燃える。

 父アポロン四世からの篤い信頼もあり、暗愚と噂される兄ベネディクト=オーリオーンに後継者争いで負けるはずはない……そうとしか思えなかったからだ。

 物心がついたときから神と崇められる始祖アポロン一世の名前を継ぎ、帝国における信仰の対象である現人神として君臨するための準備に全力を尽くしてきた。

 しかしその望みが絶たれ、このままどこか貴族の妻として、十七という年齢にして早くも静かに余生を過ごすだけとなってしまうのか、と絶望さえ感じている。


「どういうことですのお父様…わたくしを推薦すると仰っていたのに……」


 クソ親父が! と怒鳴りかけて飲み込む。

 儀式の行われた玉座の間から、爪を噛みながら退場するアレクシアを嘲るように兄ベネディクトが粘着質な声を掛けた。


「おやおや麗しの妹君、その美しい顔に浮かない顔は似合わないなぁ。ところで次期皇帝の私に挨拶はないのかな?」

「……おめでとうございます皇太子殿下。皇帝陛下はどちらに?」


 苦々しく引き攣った笑いを作るアレクシアと対象的に兄は満面の笑みを浮かべると仰々しく首を振る。


「皇帝陛下はお疲れのようだから自室でお休みだよ。もっとも君はもう会えないだろうけどね」


 後継者指名で敗れた皇族は3年の間皇帝には謁見できないと定められており、それは実の娘であろうと例外はない。

 それくらいは理解していた。しかし文句の一つも言ってやらなければ気がすまなかった。もちろんこれは叶わないのだが。


「それではごきげんようお兄様。もうお会いすることもないでしょうが」

「私は会いたいんだけどねぇ。お前のことを愛しているよ」


 もう三十路になるくせにくだらない冗談を…と嫌味の一つでも投げつけたかったがそれも叶わない。次期皇帝という権力の前では。

 アレクシアは押し黙ると、礼すらせずにそのまま歩き去り迎えの馬車に乗る。帝国首都の町並みもどこか色あせて見えて、ため息しか出なかった。


――それを天守から見下ろしていたアポロン四世は鬱々とした顔で、去っていく娘の後ろ姿を目に焼き付けていた。


「アレクシア……我が娘よ……すまない、皇帝の器はお前のものであったというのに…もし長子でさえあれば」

「陛下。ベネディクト様に特段不備があるとは思えませんが…」


 たしなめる侍従、下級貴族出身で長年仕えてきた彼に対して皇帝は悲しそうな顔を向けて愚痴を吐く。


「わかっとらんな貴様は。あの愚息が務められるとは思えん」


 遠い目をして言葉を続けようとするが、急に咳き込む皇帝。

 水を取りに走る侍従を尻目に椅子に腰掛け、ひとり目を閉じる。


「俺はもう五十か……残された時間は少ない……せめてアレクシアの嫁ぎ先だけは俺の意志を……」



――オーリオーン帝国はヴィクトリア大陸の西側に位置する大国である。

 百年以上前に始まった旧ランカスター王国との建国戦争の終結から九十八年、即位から二十年を迎えたアポロン四世。

 後世において彼のここまでの治世の評価は非常に高い。単位の統一、貿易の自由化、貴族に独占させていた魔法教育の自由化、大々的な競技大会の開催を行ったとされている。

 単位の統一は手工業製品の質や生産量の向上を促し、貿易自由化により特に国境地域を中心に大きく発展を遂げた。

 反面、平民・奴隷階級と貴族・商人階級の経済格差が拡大を続けていた。



――アレクシア邸



「お兄様が来たですってぇ!?」


 後継者指名の儀から数日、アレクシアは自分の屋敷に引き篭もっていた。

 父に裏切られたとしか思えない仕打ち、そして実の兄から受けた屈辱。あまりの怒りに屋敷の庭に魔法で穴を開けるなど大変な剣幕で周囲の侍従達は近づけなかった。

 現に怯えた声の侍女がベネディクトが来たことを知らせている。

 怒りを孕んだ足音を響かせて応接間へ向かった彼女は人払いをすると、優雅にお茶を啜る兄の前に座り、用意されたお茶を一口飲んだ。

 

「何の御用ですか閣下。わたくしを嫁に出す先でも決まったのですか」


 怒りを隠して厭味ったらしく口を開くアレクシア。どうせこの邪魔な妹をどこか辺境にでも飛ばすつもりだろうと思っていたが、兄の返答は彼女にとってより酷いものだった。


「まぁそんなところだよ。私の妻になれ、アレクシア」 

「はぁ????????」


 思考の外からの不意打ちを食らって完全に凍りつくアレクシアに飛びかかりソファに押し倒し、覆い被さる兄。


「君は美しい……帝国で……いやこの世で一番…! あらゆる宝石よりも美しい髪に女神の彫像より清らかな肌、花に例えることすら失礼な唇! 私が皇帝、お前が皇后、血の強さは力の強さだ! 

 兄……いや今日からは夫……いや数年後の皇帝が命ずるんだ! 従ってくれるね? アレクシア。美しい君を妻に迎えたいんだ。君を私のものにしたい……!」

「まさか……毒を……(そんな……力が入らない……)」

「気づいたようだね! まぁ君は私より遥かに強いからね! 茶に痺れ薬を盛らせて貰ったんだ! あぁアレクシア、私の愛する妹、ずっとこうしたかった!!」


 無理矢理唇を奪われるアレクシア、ドレスの裾に手を差し込まれる気持ちの悪い感触が脳に伝わる。

 兄の身体が押し付けられた腹にまで不気味な熱が伝わって、これからされるであろう事まで考えてしまう。


「ぇ……あ……(こいつ……絶対に許さねぇですわ)」

「優しくするからねアレクシア……」

「(キモイキモイキモイキモイ! 助けてお父様!)」


 一通り身体を弄られ堪能されてしまったものの、兄が肌着に手をかけようとする頃、ようやくアレクシアのぼやけた意識がハッキリとしてきた。

 舌はまだ痺れているが短く簡単な呪文なら唱えられる。


「えあ、はんまー」


 空気の塊に吹き飛ばされた兄がテーブルに叩きつけられ、アレクシアもソファに手を付きながらなんとか立ち上がる。


「あ、アレクシア? どうして?」


 アレクシアの用心深さは筋金入りだった。

 母を毒殺されて以来食事にはごく少量の毒を混ぜて耐性がつくようにしているし、寝不足でも疲労困憊でも舌が痺れていてもある程度の魔法を唱えられるように日々訓練している。

 初めて役立ったその用心が、こんなふうに役立つなどとは思いもしなかったが。


「にいさま、とは、できが、ちがいますわ」

「本当にすまなかった! もう帰る! もう帰るから!!」

「まだ、おかえりには、はやい、ですわね」


 怒りに震える髪が虹色に煌めいて数時間後、ボロ雑巾のようになったベネディクトが転がるように屋敷から出ていくのを見届けてアレクシアは眠りについた。


(この世界でもきっとわたくしの居場所はないのでしょう。どんなに努力をしようと決して報われない……)

(知らない男の記憶……このままでは同じようにわたくしも……)


 何度も見た悪夢。栄光から転落し、落ちぶれて這いあがろうとしたら足下を掬われた前世の記憶。

 しかし、眠りから覚めたアレクシアはすっきりとした気分で朝を迎えていた。


「よーーく考えましたわ。前世では無理だったけど今ならできますわね。覚えてろクソ親父、クソ兄貴、クソ帝国。この世界の人間もわたくしを否定するなら一人残らずドン底まで叩き落としてやりますわ」


 そう決意した彼女は、厳重に鍵をかけた金庫から数冊の本を取り出す。

 数年間書き溜めた前世での記憶。この世界でも作ることのできる兵器や簡単な機械の図面、数学や化学の知識、そして経済や政治の知識。皇帝として座してから新たな時代に向けて使うつもりだったもの。

 這いあがろうとひたすら勉強した記憶と、皇女として帝国を背負うために学び続けた学問、それら全ては世界を滅ぼすために。



――同時刻のオーリオーン城大広間、官僚達の集まる中でアポロン四世の声が響く。



「アレクシアはペルサキス家に嫁いでもらう。あれも17、嫁がせるとしたらむしろ遅いくらいだがな」


 皇帝が選んだ家はペルサキス家、帝国東端の国境地帯を統治する大貴族。

 建国戦争で最も戦功を上げ初代皇帝からの篤い信頼を得て封じられたこの大家は、当代皇帝の行った貿易の自由化によって最も恩恵を受けた貴族であった。

 オーリオーン帝国とアンドロメダ連合国の国境を分断するハイマ大河は肥沃な土壌を産み、工業用水の確保も容易な為、資源と資本が集まる帝国東部の中心地である。


「賛成にございます。ペルサキス公ニキアス殿が皇女殿下に一番相応しいかと」


 官僚達もそれには同意だった。中央に近い大貴族に嫁ぐのであれば争奪戦になり、権力争いが起こるのは目に見えていた。

 貴族としての格、そして帝国東端という立地。なるべく遠ざけて封じてしまうのはちょうど良い。


「であろう? 先代も国土を護り抜きよく仕えてくれたからな。そうと決まればアレクシアとニキアスに使いを出せ。雪解けを待ち婚約の儀式を行う」


 そう自賛する皇帝は元々アレクシアが皇位を継げなかった場合はペルサキス家に嫁がせる事に決めていた。

 年端も行かない頃から帝国経済に強い関心を示していた彼女をペルサキス領へ留学させていた事もあるし、その留学中に彼女が奏上した数々の政策や事業を、皇帝は追認する形で実施させてきた。


「以前ペルサキス商人共に聞いたアレクシアの計画は興味深かった。ニキアスとも仲が良いと聞いているし、社会実験だろうが領内ならば自由にしていい、とも書いておけ」

「……皇室を離れた者にあまり力を与えすぎるのも如何かと思われますが。皇帝法令により多数決を取りましょうか」


 第三代皇帝が度重なる失政の責任を追及された際に定めた皇帝法令は皇帝の権限の制限について定めたものだ。

 皇帝の後継ぎは直系の長子又は存命で最年長の子息を原則とする等いくつかの条文が定められ、原則に反する場合は貴族出身の上級官僚から過半数の賛成を得なければならない。

 現皇帝の強い推薦があったアレクシアが皇帝に指名されなかったこともこれによるものだが、『全ては皇帝の意志として扱われるため、皇帝と該当する官僚たち以外には皇帝法令の存在を明らかにしてはならない。』という条文により彼女にこれが知らされることはなかった。

 そしてそのアレクシアに領地において自由にして良い、という権限を譲渡するような発言に当然官僚は眉を顰めるが、皇帝は笑いながら首をすくめる。


「貴様らの大好きな皇帝法令にこのような場合の記載はない。そのまま書け」


 家の名が変わったとて血が残ればいい、ベネディクトが失敗したとき代わりに立つのがアレクシアであれば。

 帝国はとっくの昔に一枚岩ではない。権威は弱まり反抗心を抱く貴族も増えているし、先代が招いた連合国との紛争に起因する重税と兵役で民の心も離れてきている。

 溜まりきった不満がいずれ表面に出てくる事を皇帝は予想していた。


「……では、仰せのままに。皇帝陛下」

「良い。それでは会議は終わりだ。諸君らは仕事に戻るが良い」


 渋々といった表情で令状を認める官僚を満足そうな表情で眺めた皇帝は軽く手を打ち、この会議の終わりを宣言する。

 そして自室に戻った皇帝は椅子にもたれかかると、暖炉の火を見つめながら悲しそうにため息をついた。


「俺はただただ民を疲弊させて返せたものは借金の利子だけ、肥えたのは商人共の腹だけか……おまけに息子と娘が殺し合う事になるかもしれん。とんだ愚帝でとんでもない父親だな」



――翌日、アレクシア邸



「ペルサキス公へ……しかも当面の間領内の完全自治を許可……ですか。お父様はよくわかりませんわね」


 手紙を読んだアレクシアは驚いていた。家を離れた皇族が大貴族の下へ嫁ぐなど混乱の元になると思っていたからだ。

 結婚すらさせずにどこか地方の小さな荘園へ飛ばされる事すら覚悟していたアレクシアは父親の考えが理解できなかった。


「まさか連合国と戦争でもして勝手に死んでくれ、なんて事かしら? 残念ながらあなたの娘は目論見通りには行きませんわよ」


 目を細めてにやりと笑う。そして急ぎ机に向かうと手紙を認め封蝋をし、執事を呼ぶ。


「早馬を呼びなさい。出したい手紙があります」



――二週間後、ペルサキス城



「アレクシア様と結婚しろだって!? 嬉しいなぁ! きっとこの土地はもっと発展できるに違いないよ!」


 軍事要塞であるペルサキス城の執務室で喜びを爆発させる彼はニキアス=ペルサキス。ペルサキス領主その人。昨年病で急逝した父からペルサキス領を継いだ彼はまだ二十五歳になったばかり。

 よく日に焼けた肌に赤い髪、若くエネルギーに満ち溢れた印象を与える美丈夫だ。


「ニキアス様、お喜びの所失礼致します。噂を聞きつけた商人達が挨拶に来ておりますが、お会いしますか?」

「もちろん。お祝いはいくらあっても損はしないからね」


 執事からの連絡に、喜んで応接室にて待つニキアス。そこに通されたペルサキス商人達は口々に祝いの言葉を述べ、美術品や嗜好品を置いて行く。

 一通りの挨拶が済みテーブルに祝いの酒瓶の山が聳えるころ、遅れてやってきたのはペルサキス商人の首長といえる人物であるリブラ商会会長ヘルマンだった。

 元は穀物の仲買人だった彼は貿易自由化改革の追い風、そしてアレクシアの主導した事業を受けて財産を築き、今では下手な貴族よりも資産を持つ大富豪である。


「耳も気も早いねぇ商人は。どこから掴んだんだか……本当に大人気だね皇女殿下は」

「畏れながら企業秘密というやつでございます。皇女殿下は……わずか12歳で我々のところに乗り込んできて……実に楽しい日々でございました。お戻りになられて丸一年ですかな? あのような才能あるお方が我々を治める立場になるなど祝福のしがいがあるというものです」


 いや、ニキアス様に不満があるわけではないのですが……と少しバツの悪そうな顔で続けるヘルマンに、ニキアスは冗談っぽく笑う。


「いいよいいよ、僕の性分は軍人だからね。アレクシア様には君たちの事をみっちり締め上げてもらおう」


 ニキアスは現帝国では数少ない他国と戦う軍人貴族であり、商人はおろか平民や奴隷に対してすら差別意識を持たない貴族であった。

 使えるものは全て使う主義であり、規定の税を納め、公正であるなら過度な締め付けを嫌っている。

 そんな彼に対して、ヘルマンは大げさな身振りで、恭しく頭を下げる。


「神祖アポロンに誓って不正はしておりませんよニキアス様」

「知っているさ」

「それではこの辺りで失礼致します。ニキアス様、本日は誠におめでとうございます」


 ありがとう、と手を振るニキアスと別れたヘルマンは城から出て迎えの馬車に乗り込み、懐から何か手紙を取り出して読み直しつぶやいた。


「あの坊っちゃんも切れ物だが、それでも過ぎた女だよ。我らが女神様は」


 アレクシアからの手紙。通常の郵便より遥かに早い商会の早馬に運ばせたそれには、ペルサキスに入る前に準備しておくことについての命令が細かく書き記されていた。


 同時にニキアスも自室に戻り考えを巡らせていた。連合国南部から取り寄せた葉巻を燻らせながら、蒸留酒のグラスを傾ける。

 父が存命の頃から帝国の将来を憂い続けてきた彼には一つの決意があった。


「……丁度いい大義が向こうから来てくれるとはねぇ」


 これからの未来を想像して思わず笑みが溢れるニキアス。彼の目には野心が燃えていた。

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