(吏`・ω・´) あなたの家へ勉強しに行っていいかしら。

 姉に頭ポンを見られてから一週間後。


 私は少しずつ、変わり始めていた。


「ふわぁぁぁ……あれ? 吏依奈りいな、最近朝早いじゃん」


 姉があくび混じりに訊いてくる。


「勉強は朝するのが一番集中できるって相楽くんに言われて。あの人ほぼ毎朝五時起きで勉強してるらしいわよ」

「修行僧かなにかなの?」

「そこまでは無理だけど、頑張って早起きは続けるわ。お弁当もこうやって作れるようになったし」

「それ、相楽センセが作ってくれた夕飯の残り物詰め込んだだけじゃない?」

「……私も手伝ったんだから同じことよ」


 少しずつ、少しずつだから。


「ま、何でもやってみなさい。当たって砕け散ったら、骨くらい拾ってやるから」

「どういう意味よ」

「アンタはもう一回落ちこぼれちゃったんだから、もう失うものなんてないでしょってこと。たとえ無駄でもなんでも、ひたすらがむしゃらに努力するしかないんだよ」


 昔から、こうやってズバズバと言われるのが苦手だった。


「……うん」


 言葉はいたって正論だし、体育会系な“檄”を飛ばしてくれているのだと分かってはいる。


「行ってきます」


 でも少しばかり、やる気を削られてしまうんだよな。


 正真正銘、私より何倍も頑張っている姉の言葉では言い返せない。


 昨夜も家庭教師ついでに夕食作りを手伝ってくれた彼から“甘えたガール”なんて言われたけど、その通りだな。


「あ、そうだ。少し帰りが遅くなるかも」

「なんで?」

「今日は、相楽くんの家に寄ってくるから」

「……マジで?」

「何がマジでなのか分からないけど」


 彼の家で勉強してくることが、何か驚くようなことだろうか。


「相楽くんにはまだ言ってないけど、押せば行けるでしょう」

「うわ、妹が意外と肉食だったわ。お母さんに連絡しよっかな」


 野菜不足を心配されるような食生活はしていないつもりだったけど?


「バスの時間だからもう行くね」

「あ! 待って吏依奈! センセにちゃんとゴム持ってるかどうかは聞きなよ? まぁ最悪私のピルを飲ませれば……」


 何を言ってるのか分からなかったので、とっとと家を出た。


※※


 昼休み。いつも通り、屋上に向かう階段の踊り場。


「今日のは自信作なの。どうくるり、食べてみる?」

「食べる食べる~!」

「はい、あーん」

「ん~、ありがと吏依奈」

「…………」


 くるりに食べ物を与えられる日々、心の底から尊い。


二俣ふたまたよ、ナガサが飯をどう味わうか悩んでるから目を閉じ手を組み静かに涙を流すのやめたって」

「いや、それは別によくあることだからいいんだけど」

「このイカレ抜いた光景が?」


 くるりが小首を傾げつつ言った。


「なんだか、味がいつもと違うっていうか―――これさ、カズくんが作った?」

「―――は!? そんなわけないじゃない!!?」

「二俣ってカードとかでカモにされるタイプだよな絶対」


 食いしん坊、恐るべし。


「そうだよね~。でも吏依奈のお姉さんの味ではないよね?」

「そ……そうよ。先週から私が作ってるの」

「そうなんだ! えらいえらい」


 ややふざけた調子でくるりが頭を撫でようとしてくる。


 甘んじて受けようと思った。


 なのに。


「やめて」


 そのささやかな贈り物を、私は断った。


「んもぉ~、吏依奈は恥ずかしがり屋さんだね」

「意地を張るなよ二俣。本当は嬉しいくせに」

「違うわよ。あなたが―――」


 視界に入ったからだ。


 ……あれ?


「二俣?」


 どうして彼の顔を見たことが、くるりの手を拒否することになったのだろう。


「どこか調子悪いのか」

「……んっ」


 ボーっとしてしまった私の額に、彼の手がやってきた。前髪がくしゃりとかき上げられ、ごつごつとした手が被さる。


 冷たい。


「ナガサにイカレてる部分を差し引けば熱はなさそうだな」

「―――うんっ。大丈夫よ、相楽くん。ありがと」


 零れ落ちるままに微笑んだ。


「はわわわわわわわ」


 すると、なんだか変な声が聞こえてきた。


「くぅ~~~」

「グリ高にカビラさんが来たと思ったらナガサだった。どうした?」

「カズくん、なんかね。わたしの方が、やばいかも……」

「くるり?」


 なぜか親友が胸を押さえて悶えていた。


「やっぱり吏依奈、最近、可愛くなってない?」

「……はぁ?」


 “可愛い”の擬人化みたいな人物からとんでもないことを言われた。


「いや違うよ。美人さんだなっていうのは、ずっと思ってたけど。今は可愛いの方が勝ってるの」

「どっちもないから」

「いいや! あるよ!!」


 今日のくるりは食い下がる。


「なんかね、雰囲気が優しくなった。ふにゃっていうか、ようやく警戒心が解けて人に慣れた保護猫みたいっていうか」

「猫……」

「なんか綺麗だけど孤高って感じだったのが丸くなって、クラスの子ともよく話すようになったし」

「まぁ、孤高の美人オーラの魔法が解けて正体がバレてきたともいえるけどな」

「う……、相楽くんまでそんなこと言わないでよぉ」

「そう! そこ!」

「わっ!?」

「ナガサがシャケおにぎりカッ食らいながらエキサイトしとる」


 くるりの尋問が止まらない。


「前だったらすぐカズくんとまんざ……吏依奈がつっかかってたのに」

「くるり、今漫才って言いかけた?」

「ナガサ、二俣のことヤカラ扱いしとらん?」

「うぬぅ……。とにかく変だよ。二人に何かあったの?」


 これはマズいかもしれない。


 くるりに秘密の家庭教師がバレてしまう。


 ここは、多少無理をしてもいつもの調子でやらないと。


 ……いつもの調子ってなんだ? 今日のはいつものじゃないのか?


 わからない。


 まぁいい。とにかく、言い合いに持ち込めばいいのだ。


「相楽くん!!」

「二俣って喉強いよな。俺とナガサが反射的にビクッとなるレベルで急に声のゲインぶち上げても潰れたりしないんだもの」

「名前が生意気なのよ! 相楽そうらく秀和ひでかずって八文字よ! 多すぎ!」

「難癖の入射角よ」

「くるりみたいに―――ええっと、永作? 瑠璃? だから……」

「見切り発車のキレ芸で自滅する若手芸人みたいだ」

「六文字よ! 少しあなた削りなさい! 慎ましさがないのよ、ねぇナガサ?」

「テンパり過ぎてナガサって言ってまっとるがや。ネーミングライツどうしたよ」

「はっ!?」

「あははははは!!」


 ナガ……じゃなくて、くるりが爆笑を始めたところで私も少し冷静になれた。


「……自分でも少し無理があるとは思っていたわ」

「正気に戻ってくれて大変けっこう」

「ああもう恥ずかしい」

「だいたい、それで言えば二俣吏依奈も七文字だろうが。ナガサに一文字献上しろってなるだろ」

「何を言っているの? くるりには名前どころかこの身体の原子核の一片までをすべて捧げられるわ甘く見ないでちょうだい!?」

「人の正気ってこんな長続きしないものかね?」

「あはは! ひぃ、ひぃ……ゲホッ! ゴホッ!」

「「ナガサ(くるり)、そんなむせ返るほど笑える??」」

「お、おもしろい、よぉ? うふふふ……。やばい、ツボ入っちゃった、かも……」


 くるりが笑い転げている今がチャンスだと、私は彼に言った。


「ねぇ、相楽くん? 今日、あなたの家へ勉強しに行っていいかしら」

「え? ……うん、まぁ、いいか」

「やった!」


 自分でも分からず自然と拳を握ってしまった。


 私は、少し変わり始めていた。


 少しでも、誰かの役に立てる人間に近づけるように。


 でも。


 そんな思いは、すぐに消えてしまう。


 私は、彼のことを本当に何も知らなかった。


【続く】

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