(-_-メ)和) なんか家庭教師、頼まれたんだけど。
先ほどまで続いていた吹奏楽部の全音符が鳴りやんだ。
代わって、体育館からバッシュのスタッカート。
誰かが水たまりを踏みつけた、水滴の和音。
震度2で唸るバスが溜息をついた。
春の名残を伝える甘い匂い。
桜の緑が夕闇を塗ってほとんど黒。
ハザードが明滅する縦列停車にクラクション。
本日二度目の帰りの会を終え小学生が駆けていく。
音も匂いも見えるものも、冷たく小さく細かくなった。
「ねぇ」
「借りが何なのか知らないけど、お礼は言っておく。ありがとう」
すらりとした細く滑らかな肢体を見上げる。
セミロングの艶やかな髪が動き、俺を見つめる笑顔が眩しく光った。
そのとき初めて、先ほどの甘さは、バスが吐き出す内機の風が運んだ二俣の匂いだと知った。
実は素顔を晒す緊張と恐怖で倒れそうだと言ったら、彼女は笑うだろうか。
「その顔に助けられたわ」
「……え?」
俺のか細い声など聞こえなかっただろう。
二俣は慌ただしくバスの中へ、後部座席へと向かう。
ドアが閉じ、バスは大儀そうに息を吐き出してから、鈍重に出発した。
「……」
茜と夜が混ざった紫の空を見上げた俺は、不思議と身体が軽くなっていた。
とはいえいつまでも学校の前にいたくなかったので、徒歩二分を一分に短縮して、足早に家に帰る。
と。
「おやぁヒーくんじゃないの。どしたのさ」
お隣の二階建てアパートに住む看護師に声をかけられた。
「ああ……」
どうしたのとは、マウスガードを付けていないことだろう。
「ちょっと緊急事態で」
「キミの人生、緊急事態多くない? 朝も救急車で出て行ってたじゃん」
「寝る時間にお騒がせして申し訳ないです」
彼女は夜勤だった。たまに24時間以上帰ってこない日もある。
「構わんよぉ。私だってゴミ出し頼っちゃってるしねぇ」
そんな生活なのでゴミを分別し、出すこともままならない。
厄介なご近所トラブルになりかけたところで、俺が彼女の分のゴミも出すからと名乗り出て、なんとか収まった。
「救急車、お母さんでしょ。具合悪いの?」
「朝にちょっと調子が悪くて、でも入院とはなりませんでしたよ」
「そっかぁ。良かった……のかなぁ―――う~ん、ムズイね」
看護師は
「ま、簡単じゃないのは当然だよねっ。あははっ!」
彼女もそういうタイプで、少し悩ましげに言葉を
「ねぇヒーくん」
その笑顔の延長で、彼女が言った。
「これから飯いかね?」
「え? だってこれから仕事でしょ」
「いや、まだ時間あんの。安くて量あってそこそこ美味い中華屋見つけたんだよね。どう? お姉さんに奢られてみない?」
「魅力的なお誘いですが、これからの時間は家にいないといけないので。父も、遅いですし」
「……うん。そりゃそっか。察し悪い大人でごめんね。ゴミも出せないし」
自分で余計なことを言って落ち込んでしまう。そんな状態で出勤させるわけには行かないので、俺は言った。
「いいえ、すぐ隣に看護師の方がいらっしゃるっていうのは、別に頼るわけじゃないですけど安心できます。あなたがいて、本当に良かったです。お仕事、頑張ってください。ゴミは出しておきますから、またウチの玄関の前に適当に置いといてください」
「やめろ」
「はい?」
街灯が点かないギリギリの時間。
「高坊にガチ惚れこいたろかしゃんと思ってまうでやめたってちょーよってこと」
「……ほぉですか」
日暮れの一番暗い時間。お隣さんの表情は見えない。
「じゃあまたね。飯にはいつか行くから。連れ去るから」
「未成年略取」
「あはは!」
「……」
さらに身体が軽くなっていた気がした。
人と話して回復したのだろうか。
そう思い玄関の扉を閉めた。
その瞬間だった。
「ああ、やっぱりダメだ」
間抜けな呟き。
ガタガタと腰砕けになってしまう。
これはアレだ。
試合で骨折してるのに、アドレナリンでその場は痛くないってやつだ。
いやしかし、まだ“仕事”が残っている。
俺は立ち上がり、大きな介護ベッドが占拠するリビングに辿り着いた。
「母さん、飯食うか?」
頷いた。ような気がした。
「分かった。ちょっと待ってな」
リモコンを操作し、ベッドを起こす。
「降りるぞ」
まずはベッドの脇に座らせる作業だ。
横抱きで、持ち上げるのではなく、滑らせるように動かす。ここで無理をして、父親は腰をやった。
上手く座った。だが、右半身が完全に麻痺しているので、長くはそうしていられない。
「車椅子に移るぞ。こっちにゆっくり倒れて―――」
やり方はいろいろあるが、母親は痩せているので割と力技で行ける。
俺の胸に全体重を預けるように倒れ込んでもらい、そのまま両脇を抱いて立たせる。
そのままの流れで、あらかじめベッドに横付けしておいた車椅子に、ストンと下ろす。
「ふぃ~」
ひとつのイベントを終え、俺は大儀に息を吐く。
一年やってもうだいぶ慣れたとはいえ、神経の使い方は変わらない。
途中で落としてしまえば半身不随で自立独歩不可の母は終わりだ。
もうすでに動脈瘤が破裂した頭が、無事で済むはずもない。
「飯、持ってくるわ。待ってな」
昼に訪問介護士が食わせてくれる弁当(今日は病院にいたので丸々残っていた)と、後は自分で作ったもの。
失語で意思疎通は取れないが、何を食べてくれるのかも一年でだいぶ分かってきた。
栄養はなんとか薬や点滴で補うとして、まずはどうにか食えるものを作ることが重要だった。
しかし、食欲自体が日に日に無くなっている。
今朝のように、朝から突然体調を崩すことも増えた。
医師からもそれとなく「在宅介護は限界だ」と伝えられていた。
と、食事をする手が止まった。
これは……。
「とりあえず、今は我慢してくれ。ベッドに戻ったら、オムツ換えよう」
いい大人の、親のオムツを、ほぼ毎日換える生活。
「いつ子持ちになっても大丈夫だな」
自分を笑うために言ったのに、少しも笑えないどころか、また身体から力が抜けてしまった。
食事、下の世話、洗い物を終え、しかし父親が帰ってくるまではリビングにいようと思った。
勉強は、さっきまでやっていたので少し休憩。
ならば読書、と行きたいところだが。
「どこにやったのかなぁ……。『フランケンシュタイン』の文庫本、知らないか?」
当然、母から返事はない。
「ん?」
そのとき、チャットアプリにメッセージが届いていた。
「……二俣?」
『私に、勉強教えてくれませんか?』
そのあと、延々と言い訳のような長文が送られてきたが、すべて既読無視する。
「ねぇ、なんか家庭教師、頼まれたんだけど」
物言わぬ母に言う。
「飯の時間には帰ってくるからさ。ちょっと行ってもいいかな?」
また再び、身体に力が戻ってきていた。
【続く】
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