第9話 初恋は移り行くスパイスのかおり

「それでそのまま帰ってきたのか……」

 翌週の放課後。

 右近が日曜の話を唐子にすると、唐子は呆れたように言った。

「そうなんすよ。どうして分かってくれないんですかねぇ……」

「いや、違うだろ。俺が呆れたのは、そこで押し切れないお前の中途半端さだよ。あー、もう、ガキは面倒くせぇな! こんなことなら安直に青山妹の動向なんてお前に訊くんじゃなかったぜ」

 やっぱ女子高生の手料理食べれる以外に顧問のメリットないんだよなぁ、などと問題発言をしつつ、唐子は席を立つ。

どうやら今日も料理部は「放任主義」のもと活動することになりそうだ。

「ったく、本当になんであんなんが顧問やってるのやら……」

 部室を出ていく唐子を見送った右近はため息を吐いた。

昨年まで在籍していた先代部長や華憧などの優秀な部員たちを見ていると、顧問の唐子も右近に料理面で良い影響を与えてくれると正式入部前は期待していたものだが……。

いざ入部してみるとこの様子なのだから失望もいいところだ。

この間の香菜の入部試験の際をはじめ、時折鋭い意見を発するのも事実だが……。

現状、右近が唐子から良い影響を受けることはほとんどないと言って良いだろう。

「あ、右近くん早いね!」

 そんなことを考えていると、華憧が手を振りながら部室に入ってきた。

華憧が来てくれれば活動にも身が入るというものだ。

振り返った右近が華憧に手を挙げて応じ、先ほどの話をしようとしたところで、彼は顔を曇らせた。

「なんだ、今日も君一人か」

 その原因はもちろん、華憧に続いて入室してきた香菜の存在である。

入部の際の一連のやり取り、さらには玖明を巡る彼女の発言から、当然右近の香菜への心象は悪いままだ。

「あ、香菜ちゃんとはさっき廊下で会ったんだ! すごいね、香菜ちゃん、カレー食べるためだけに週末新幹線乗って新潟まで行ってきたんだって!」

「新潟はバスセンターのカレーをはじめ、実は近年カレー文化が流行ってますからね。一度行ってみたかったんですよ」

「料理は好奇心って言うし、香菜ちゃんのカレーが美味しい秘訣はこの行動力なのかなぁ」

 何の悪気もないであろう華憧の言葉が右近に刺さる。

 率直に言うと、右近はあれから部室に頻繁に顔を出してスパイス料理を調理している香菜に対し、劣等感を抱き始めていた。

 香菜は入部の時こそ揉めたものの、入部後は特に悪目立ちすることもなく、普通に料理部員として活動、つまり楽しく右近や華憧に料理を振舞っていた。

彼女は意外とカレーを作らない。というか、入部試験以来、香菜はカレーを作っていなかった。

それでも、彼女が作るマッシュポテトやチキンステーキ、金平ごぼうやチャーハンにはどこか異国の香りを感じさせるスパイス類が必ず入っている。

カレーは作らないが、作る料理は全てスパイス料理。

そんな彼女に、右近はどうしても疑問をぶつけずにはいられなくなり、一度だけ彼女に「カレーをどうして作らないんだ?」と尋ねたことがある。

「君は女の子が毎日デート用のおめかしをして出かけると思ってるのかい?」

 実に冷たい口調で訳の分からない喩えを返されたのは覚えている。それ以降、右近は香菜に話しかけることはなくなっていた。

「こないだの休みといえば、俺は久しぶりにカレー以外のものを食ったよ」

「ほお、カレー馬鹿の君がねぇ」

 話しかけられたことに驚いたのか、その発言内容に驚いたのか。

香菜は目を見開いて大げさなリアクションを見せた。いちいち言動が癪に障る女だ。そう思いつつも右近は語り続ける。「それも玖明と二人でな」

「あ、そういや玖明ちゃんからも聞いたよ。朝からそれこそおめかししてたなぁ」

 右近の言葉に華憧が頷く。

理由は分からないが、香菜が玖明のことを特別な目で見ているのは明らかだ。

実際は幼馴染の立場を利用して玖明と食事をして街を歩いていただけの右近だが、香菜に対してはガッツリマウントを取りに行く。これではチキンというよりただの小者である。

「そうかい、まあクミンが嫌がってないようなら何よりだよ」

 だが、香菜のリアクションがあまりにも薄かったため、右近は肩透かしをくらった気分になった。

もっと悔しがるなり興味を示すなりすると思ったのだが……。

そんなことを考えている内に、荷物を後ろのテーブルに置いた華憧と香菜は、右近を差し置き二人で雑談しながら並んで手を洗い始めた。

「そういや部長は中華しか作りませんが、何かこだわりがあるのですか?」

「うーん、家では普通に肉じゃがとかも作るんだけど、ここでは中華料理をたくさん試したくてね。こだわり、というか中学時代、部活帰りによく通ってた中華料理屋があってさ。そこの味に少しでも近づきたくて、色々試してるんだ」

「なるほどー。ちなみに中学の時は部活、何してたんですか?」

「あー、えっとね~……」

「ハナねぇ、今日は誰がメインで作るんだ?」

 話がデリケートな方向に向かいかけたのを感じ、右近は二人の会話に割って入った。

香菜は知らないだろうが、華憧が中学時代まで熱心に打ち込んでいたソフトボールをやらなくなったのは、中学最後の大会で大怪我をしてしまったから。

あの頃の辛い思い出に、事情を知らない香菜が踏み込むのは許せない気がした。

「そうだねー。今日は部長権限で中華の日にします!」

 どこかホッとした表情で、水道を止めた華憧が宣言する。

香菜もさすがにそれ以上は話を続ける様子もなく「それでは私たちは助手役にまわりましょう」などと言って包丁とまな板を取り出した。

「……ありがとね。右近くん」

 そっと囁き穏やかな笑みを浮かべる華憧が近づいてきたため、いい匂いがして右近はドキドキしてしまう。「また今度、ちゃんとお礼するね」

「そういや部長、冷蔵庫に豆腐が入ってますね」

 冷蔵庫を開いた香菜が中を漁っている。

「ほかにあるのは長ネギに豚ひき肉、生姜にニンニクかな? なるほど、ずばり今日は麻婆豆腐だね」

「ふふっ、それは出来上がってからのお楽しみ。でも麻婆豆腐ってカレーに近いところがあるって聞いたからさ。二人の意見も聞きながら調理してみたいなって思ってるんだ!」

 いつものほわほわした笑顔に戻った華憧が早速長ネギを刻み始める。鼻歌混じりだが手際よく丁寧なみじん切りだ。その様子を見て香菜は苦笑を右近に向けた。

「我々『助手』は仕事がなさそうだね」

「そりゃハナねぇはこの部の部長だ。俺らが手伝ったらクオリティが落ちるだろうよ」

「はは、そうだねぇ」

 笑いながらも真剣な目線を時折華憧に向ける香菜からは、悪意などは全くうかがえない。

 捉えどころのない織部香菜という少女の様子も、右近が彼女を苦手とする理由の一つであった。

「……それで? 結局君はクミンと『どこまで』行ったんだい?」

 依然鼻歌混じりのまま、調味料を配合し始めた華憧を視界に入れつつ、香菜は突然右近ににじり寄ってきた。

先ほどの話をここで蒸し返すか、と思う右近だが、香菜自身はニヤニヤ笑っていて、どうやら悔しがって蒸し返した訳ではなさそうだ。

「どこまでって……」

 そんな香菜を拒絶するのもかえって負けた気分になる。

 そう思って右近は至極まじめに答えた。

「駅前の繁華街だよ」

「……は?」

 右近の答えに一瞬固まった香菜。

 彼女は一瞬フリーズしたかのように動きを止めた後、

「ぷっ! あはははは、そういうことか!」

 腹を抱えて笑い始めた。

「んだよ、別に駅前で遊んでたっていいだろ」

 当然自分がバカにされていると感じた右近はムッとした様子だが、香菜はそれでも笑いを止めないどころかさらに、笑いが止まらなくなった。

「まて、まて。それは君なりのシャレじゃなかったのか! いひっ! それ、真面目に言ってるって、ひっ! 君は! 本当に! はははっ! カレー馬鹿だな!」

 そこまで笑われた右近もさすがに自分の発言と香菜の質問がかみ合ってなかったことに今更気付いて顔を真っ赤にした。

「あ、あぁ……。特に何ってことはなかったよ。俺と玖明は……ただの幼馴染だからな」

 夢を諦めて玖明と恋人になる。

 一瞬彼女の告白が頭を過ぎったが、右近は結局そう答えた。

 だが、それが良くなかった。

 香菜はいよいよ身体を「く」の字に折り曲げて苦しげに笑い続けていた。

「ひっ、待て、君、は、ははははっ私をっ……笑い、ひぃ……殺す気、か!」

「うーん、聞いてたけどさすがに右近くん、それはカッコ悪いなぁ。玖明ちゃんだって頑張ってるのにね」

 何故かまな板から顔を上げた華憧まで右近を責める。

「ま、まぁ、いいよ。君の答えから君が警戒対象じゃないのはよく分かった! すまないね。おこちゃまの君には早い話題を選んだ私の過失だ」

「誰がお子様だ! お前だって俺と同学年だろうが」

 とりあえず言い返したものの、右近自身先ほどの「どこまで行ったか?」という質問の意図を読み違えたうしろめたさがあるため、キレが悪い。

「……っていうかよ、お前はいいのかよ」

「ん? 何がだい?」

 このままじゃ旗色が悪い。

 そう判断した右近は矛先を香菜に転じる。

「お前は俺と玖明が仲良くしてるのが面白くないんだろ。じゃあ俺に話しかけたくないんじゃないか?」

「まあ……君のことを好きか嫌いかと訊かれたら嫌いだけどね」

 香菜は少し考えた後、屈託のない笑みで答えた。

「でも、勝負に勝つには敵のことを知る必要があるだろ? 君とクミンは明らかにうまく行ってないが、君がどこに逆転の切り札を隠し持っているかも分からない」

「まあ、右近くんは恋愛に奥手だからね~。ちょっと時間かかっちゃうんだよね~」

 いつの間にか素材のカットと豆腐の水切り準備を終えたらしい華憧がふんわりと口を挟む。彼女はそこで鍋に水を張り、それにわずかに塩を投入したものを加熱。麻婆豆腐を調理するのにそんな過程あったか? そう思ったのは香菜も同じだったようで首を傾げたが、その後彼女は何か得心が行った様子で「なるほど」と頷いた。

「けど結局、お前にはチャンスないと思うけどな」

 右近は自分一人が華憧の調理についていけてない気がして、露骨に話題を戻した。

「だって、俺はあいつと幼馴染だけど、お前は接点ないだろ」

「そうだね。だから私は君と仲良くおしゃべりしている訳だ」

「俺が嫌いなのにか?」

「目的のためには仕方ないさ。それにさっきは『好きか嫌いか訊かれたら嫌い』と言ったが、それは二元論の話だ。『好きか嫌いか普通か』と言われたら迷うことなく『普通』と答えるよ」

「お、右近くんの株が上がったね! 部員同士の仲が温まるのは大歓迎だよ!」

「それは上がったといえるのか?」

「最初の一歩が肝心だよ。右近くんに友達が増えるとお姉ちゃん安心するなぁ」

 調理に集中しているようで、華憧も会話の参加には抜かりがない。

彼女は先ほど水を張った鍋とは別にフライパンを用意して、油で刻んだニンニクと生姜と鷹の爪を炒め始めたところだった。

「実際、君経由でクミンと仲良くなるしか今の私には選択肢がないんだよ。それに、あまり自分の技術を買いかぶるのは好きではないが、君と私は共闘することで利害の一致を目指すこともできるんじゃないかと思っている」

「俺とお前が利害の一致? どういうことだよ?」

「まあ、簡単に言うと君はカレー屋になりたいんだろ? そのためにここで一緒に研鑽して、その代わりに君はクミンを私に会わせる機会を増やしてもらう、とかかな?」

「それっぽいことを言ってるけど、それお前がいなくてもできるのでは……?」

「見解の相違だね。でも、君はカレー屋になりたいのは事実だろ?」

「ああ、当たり前だ」

「なら、少しでも吸収できるものは吸収すべきだと思うが。……まあ、いいよ。気が変わったら言ってくれ」

 あっさりと引き下がった香菜に少し気味悪く感じたものの、香菜はそのまま自然な動作で調理を続ける華憧へと近づいていく。

「部長、そろそろパスタを茹でないと間に合いませんよ」

「ふぇっ!? ……あはは、さすが香菜ちゃんだなぁ。バレてたか」

「いえ、私も部長がお湯を張った時点でただの麻婆豆腐ではないことは察しましたが、確信を持ったのはつい先ほど、この匂いがニンニクの香りに混じって部屋に充満し始めた時でした。これはオリーブオイルの香り。となると、今回部長が作ろうとしている料理の主役はパスタじゃないかってね」

「へえ、オリーブオイルの匂いで分かっちゃったか~。結構二人が話してるところ離れてたし、料理を出してから二人を驚かせようと思ってたんだけどな~」

 サプライズしっぱーい、と笑みを浮かべつつ残念がる華憧だが、右近は改めて香菜の嗅覚の鋭さに驚いていた。

そういや右近が初めて香菜と出会った日。あの日も香菜は、右近の指先に残ったカスリメティの香りを嗅ぎ取り、特定してみせた。

こいつは確かに自分でいう通り、カレー屋を目指す上で貴重な情報源になりうるのかもしれない。そんなことを考えていると、華憧がパン、と手を叩いて宣言した。

「はい、というわけで! 先にバレちゃっけど、今日のあたしの皿は麻婆豆腐ペペロンチーノ。今茹で始めたパスタをフライパンで中華味の調味料とオイスターソースと豆板醤で和えながら炒める料理だよ。基本はペペロンチーノのレシピと同じだけど、中華風味の調味料と仕上げのごま油、あとは中国のミックススパイスの五香粉をかける予定だよ!」

「ハナねぇにしては攻めた料理だな」

「うん、あたしもそれなりに勉強してるから、ね。ここでの活動を通して、右近くんと新しい気付きを見つけたいなって」

 どうしてか少し照れくさそうな華憧だが、彼女はすぐにコンロへと向き直った。

「というわけで、仕上げ仕上げ!」

「……君は、本当にカレー屋になりたいのかい?」

 そんな華憧の後ろ姿を眺めていると、香菜が先ほどと同じ問いを重ねてきた。答えるまでもない。そう思って黙っていると、香菜はさらに言葉を続けた。

「なら、君は少し違うものを見た方がいい」

「……料理の話か? それなら……」

 誠司にも言われた。

 その話をしようとした右近を、香菜は遮るように言った。

「違う。もっと根本的な話だ」

 香菜はニヤリと邪悪な笑みを浮かべて言った。

「将来の伴侶選びのことさ」

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