第2章 初恋の香り・夢の味・定まらないカレのカレー
第8話 初恋はイカ臭い香りの淡い夢
「んんっ……おっきくて、口に、入らないわ……」
精一杯口を開いた玖明が、涙目になりながら右近に訴えかける。
口の中に残るわずかな塩辛い味わいを飲み込みながら、右近はそんな玖明を眺めていることしかできない。
「すごいわ。イカ臭いのが本当に、濃厚で……」
「一度カレーから離れてみてはどうだ?」
最近、というか織部香菜が料理部に顔を出すようになってから、どうにもカレー作りが捗らない。
そんな愚痴をうっかり教室で誠司と桂妃の前で漏らしたところ、誠司は少し考え込んだ後、そんな提案をしてきた。
「お、誠司君が珍しく積極的。それに対し弱った浅黄君。これは成立フラグ……。きゅふ」
「黙れ変態。……前にも言ったが浅黄は一本気すぎるところがあるからな。たまには息抜きとは言わんが、別のアプローチを試す価値はあると思うがな」
すぐさま呼吸が荒くなる桂妃を冷たく切り捨てた誠司が、何事もなかったかのように話を続ける。
奇しくも、香菜がドライドライカレーを作った時も、唐子が同じようなことを言っていた。
別の料理からのアプローチ。回り道をしている時間は多くないと思う右近だが、現状停滞しているのは右近自身も何となく分かっている。
「……そうだな。でも、今まで俺はカレーのことしか考えてなかったから、あまりうまい店とか知らないしなぁ。誠司はどこかいい店知らないか?」
「きゅふ。これはますます二人でおデート成立の流れ……」
「だから黙れ変態。……すまんな、浅黄。俺だって鉄板焼きとお好み焼きくらいしか分からなくてな。でも、知らないなら知らないなりに気になる店を二人で開拓していくのもいいんじゃないか?」
「二人って、誠司と……?」
「陥落来たぁぁぁぁっ!!」
「うるさい声を上げるな変態。……俺じゃなくて、いるじゃないか。ちょうどいい相手が。カレー以外ならチャンスなんじゃないか。ま、本音は話せんかもしれんがな」
そう言って苦笑する誠司の視線の先を右近は追う。
……バッチリ一瞬視線が合った彼女はすぐに下を向き、またすぐに顔を上げた。
「どうかしたのかしら?」
わざとらしく首を傾げる玖明に、右近は不器用な笑みを浮かべて言った。
「今週の日曜にでも、二人でなんか美味しいもん食いに行こうぜ。カレー以外で」
「それにしても、玖明はこういう料理が好きだったのか」
そんな訳で玖明をランチに誘った訳だが、まさか玖明がこういうジャンキーな店を選んでくるとは思ってもいなかった。
オシャレなイタリアンとか、しっとりとした和蕎麦の店とか、勝手にそういうお店を想像していたのだ。
「ふふっ、高校生のデートっぽくていいんじゃない? こういうお店、きっと大人になると入りづらくなると思うから」
駅前の繁華街にあるバーガーショップ「ジェイ・ピー・ジェイ」という海鮮具材をメインに扱ったハンバーガーショップを出た二人は、そのまま繁華街をのんびり歩いていた。「ランチ」という大義名分をクリアした二人だが、当然のようにそのまま電車に乗って帰る雰囲気でもない。
学校の教室での冷たい様子とは別人のように、玖明は店の中にいる時から何度も笑みを浮かべている。
「……なんだか昔に戻ったみたいだな」
そんな玖明を眺めていた右近は、気付いたらそんな言葉を漏らしていた。
言った後で右近は自分の言葉に驚いた様子で「あ、違うんだ」と慌てて手を振る。
「そういうの、困るよな。俺たち、もう高校生でガキじゃねぇのに」
「そうね。私たちはお互いに成長したんだもの」
「そ、そうだよな。変なこと言ってすまん!」
「……でも、成長したからこそ、そろそろあの頃とは違った形になることも考えていいと思うの」
小さな声だったが、その声はしっかりと右近の耳に届く、はっきりとした口調だった。
アーケード街の下は土日の活気に満ち溢れており、多くの家族連れやカップルたちとすれ違う。
俺たち二人も、その休日の景観の中に溶け込んでいるのだろうか。そんなことを考えながら、右近は玖明の言葉の続きを待つ。
「……単純に、嬉しいの」
やがて、玖明は意を決したように足を止め、右近を見上げて言った。必然的に右近も足を止め、振り返る。
「あなたが、まだ私をカレー以外の目的で誘ってくれた事実が。まだ右近の中で、私とカレーを天秤にかけた時、チャンスがあるんだって分かって。だから、昨日の夜から私、ドキドキして眠れなかったわ」
繁華街の雑踏は、休日の昼間ということで多くのグループ客で賑わっている。
ある者たちは忙しそうな様子で、ある者たちは和やかな様子で、それでも一様に流れていく人混みの中、二人はしばらく無言で見つめ合っていた。
「玖明は……」
もしかして、俺がカレーを作るのが嫌だったのではなく、俺がカレー作りに没頭して寂しい想いをしていただけだったのか……?
そう口にすることは右近にはできなかった。
そんなことを口にするほど右近は自惚れた男ではなかったし、最近香菜のカレーを食べたばかりであることも手伝って、自分がそこまでカレーにストイックになっているとも思えなかった。
「すまねぇな。俺、玖明の気持ちをしっかり考えてなかった」
でも、玖明の気持ちに右近は気付けば頭を下げていた。
「お前とカレー屋になるって夢ばかり見て、肝心のお前のこと全然見えてなかった」
あの時の玖明の笑顔に惑わされて、彼女自身の望みを顧みずに最近は一人で突っ走っていた気がする。
カレー屋になって玖明に美味しいカレーを毎日電食べさせてやりたい。
そんな押しつけがましい「夢」に囚われるあまり、ずっと大切なことを見失っていた。
そんな気すらしてきた。
「だけど、な。俺はまだ夢を諦めない」
それでも。
顔を上げた右近は、はっきりとした口調で断言した。
その目線はまっすぐに玖明を捉えている。
確かに、玖明はそんなことを望んでないのかもしれない。
だけど、右近が思い描いた「玖明との幸せ」は、相手から与えられてそんな簡単に得られる形ではなかった。
「俺は、カレー屋になることをまだ諦める訳にはいかないんだ」
「……やっぱり、私よりカレーの方が大事?」
「違う。俺が諦めたくないのは、カレー屋になること自体じゃない」
右近は深呼吸をして、言葉を続けた。
「俺は、玖明と二人でカレー屋を出したいんだ」
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