第7話 チキンな純情少年とドライな百合少女(後編)

「さて、お待たせしました」

 香菜が二つ目のフライパンに点火してから十分余り。

 テーブルに並んで座る右近たち三人の前に、香菜が皿を運んでくる。

 これは……本当に「カレーライス」なのか?

 目の前に運ばれてきた皿を一目見た瞬間、右近の視線はその皿へ釘付けになった。

 彼女がパックご飯を調理前に温めていたのは、それの上にカレーをかけるものだとばかり思っていた。

 白米の上にカレーのルウ。

 それが、日本で生まれ育ったほとんどの子供たちが最初に知る「カレーライス」だ。

 だが、出てきた料理はそんな単純なものではない。

むしろ、これは「カレーライス」と呼んでいい料理なのかどうかも自信がない……。

「ふふっ、私は一言も『カレーライスを提供する』なんて言ってないよ」

 右近の視線に気付いたのか、香菜が不敵な笑みを右近に向ける。

 まず目に映るのは、ほぼ水分のないキーマカレー。

上にトッピングされているのは鮮やかな緑の大葉……なのだが、問題はキーマカレーの下の部分。黄色く染まった米と、その隙間から顔を出す果肉たち。

右近が皿の底に隠れた米の正体を探り終えない内に、唐子が口を開いた。

「下は……カレーピラフなんだな」

 皿をのぞき込んでいた唐子に、香菜はすぐさま頷いた。

「はい、カレーピラフの上に先ほどの無水海鮮バターキーマを載せました。名付けるならそうですね……『海鮮バタードライドライキーマカレー』といったところでしょうか」

「またいきなりデカいパンチを繰り出してきたなぁ……」

どこか懐かしげに呟いた唐子が、首を傾げている華憧に説明をする。

「ドライドライカレーってのは、最近カレー界で時々作られるようになった料理だな。実際、最近大阪を中心に提供を始めたカレー屋がいくつかあるらしい。なんでも始まりは『ドライカレー』の定義をカレーピラフにするか、最近増えてきた無水系カレーにするか、という討論だったとか聞くが。そうか、あれを……」

 唐子がしきりに感心したように頷いているが、右近としては未だに目の前の皿を疑問視している。

「でもよ、そんなことしても味がくどくなるだけだろ? ただでさえバターでキーマカレーが重いのによ」

 大葉をトッピングしたとはいえ、焼石に水感が強い。

 それでも、香菜は意味ありげに微笑んだまま右近をまっすぐに見つめた。

「君も料理人の端くれなら、まずは目の前の皿を味わってくれよ」

「言ってくれるじゃねぇか」

「そうそう、食べる時は必ず、下のドライカレーと上のキーマカレーを一緒に食べてくれよ?」

「注文が多いことだな!」

 そう言って、右近はスプーンを乱暴に下のドライカレー部分にスプーンを突き立てる。

 偉そうな講釈を垂れようが所詮は流行の真似事をした自己満足の皿。

 そう思っていた右近だがスプーンを料理に突き立てた瞬間、そこから漏れ出たスパイスとバターの溶け合った上質な香りに、涎を垂らしそうになった。

……いやいや、バターの入ったカレーなんだからこれくらい当然の香りだ。

それでも自分に言い聞かせるように右近は上のキーマカレーもすくい、勢いよく口に運び……固まった。

「うそ、美味しい……」

 まず聞こえてきたのは華憧のうっとりとした声だった。

だが、隣に座るはずの華憧のその呟きですら遠くから聞こえてきたような錯覚に陥る。

身体中のあらゆる感覚が、ある一つの情報以外をシャットダウンしていて、逆にその情報だけが右近の脳内を凌辱するかのように、何度も主張を発しているのだ。

 この料理はとんでもなく美味しい。

「公式の食べ方を守っていただきありがとう。そう、このカレーは上のバター海鮮キーマ単体でも、下のドライカレーだけでも成立し得ない。味の引き算で美味の最適解に到達するカレーなんだ」

 確かに右近の指摘通り、あのバターの投入量は実際食べてみると重くなる予感しかなかった。

 だが、食べてみるとどうだろう。

 右近が危惧していたバターの重さは全く感じることがなく、むしろバターが海鮮具材と溶け合い、まろやかなコクとして機能しているのだ。

「いや、けどこれは食べ続ければきつくなる皿だろ……?」

 それでも右近は認めない、とばかりに言葉を漏らし、カレーを食べ続ける。

わざわざそんな言葉を呟いたのは、香菜の出したカレーを食べ続ける理由が必要だったからだ。

右近は一口食べたら香菜の入部に反対票を入れて終わるつもりだった。

だけど、このカレーを残すことはできない。食べない訳にはいかない。

「どうして……どうしてなんだよ……! 何故、このこってりした味を食べ続けられるんだよ……!?」

 悔しい。

 悔しいのに顔がほころんでしまう。

くどいと思っていたバターの香りは幸せの香り。それが食べれば食べるほど口内にスパイスと共に広がり、自分の顔がどんどんだらしなくなっていくのが分かる。どうして食べても食べてもくどくならない? うまい。そろそろ、うまい。顔が、どんどんほころんでいく。決意が揺らぐ。でも……こんな美味しいカレーを食べて、顔がほころばない訳がない。

 ああ、決意が崩れていく。

……なのに、なんで俺は喜んでいるんだ。

 そう思ってもスプーンを動かす手だけが止まらない。そして……。

 カンッ……!

「あ、あれ……?」

 気付けば右近の目の前の皿は空になっていた。

 いつの間にかたっぷり盛られていたご飯もなく、スプーンがむなしく皿にぶつかる音だけが室内に小さく響いた。

驚いて左右を見る。唐子も華憧も一心不乱にスプーンを動かしている。……だが、カレーを食べおえたのは、右近一人だけだった。

「おや、すまない、量が少なかったかな? あいにくお代わりまでは余裕がなくてね」

 ふと顔を上げると、テーブルの向かいに立つ香菜がニヤニヤと意地の悪そうな笑みを浮かべて右近を見下ろしていた。

「……投票の頃合いか」

 やがてスプーンを最後に置いた唐子が短く呟いた。審査係の三人の中でもっとも冷静に見える唐子だが、その声も珍しく上擦っている。

「もったいぶっても仕方ねぇから俺から順番に感想と票を伝えていこう。本当は票だけ入れる予定だったが、このカレーに対してそれだけでは失礼な気がする。……それくらいに美味かった」

「ありがとうございます」

 華憧が隣で息を呑んだのも無理はない。

唐子は右近や華憧の料理に対してポジティブな感想もネガティブな感想も教えてくれるが、唐子の口から「美味かった」という感想を聞いたのは、少なくとも右近にとってこれが初めてな気がする。

……それくらい、唐子は「美味しかった」を口にしない男だったのだ。

「まず、上に乗った海鮮バターキーマは細かく刻んだあさりと明太子の香りがバターと溶け合って、食感・香り・味と三拍子揃ったセミドライタイプのスパイスカレーだった。スパイスは……やはりフェヌグリークやカルダモン、カスリメティ辺りがうまく使われているな。トッピングに大葉を持ってきたのもいいアイディアだ」

「今回のカレーはたらこスパゲティにヒントを得ました。あれをカレーでやると面白いかな、と」

 香菜の言葉に唐子は満足気に頷く。

「カレーを作る人間は、カレーばかり作っていてもレパートリーは増えない。正しい食材の知識、他ジャンルの料理の応用。それらは全てカレーにつながるのだからな。……そしてその姿勢が一番現れているのが、このドライカレーの仕掛けだ」

「……やはり先生は違いますね。的確にこのカレーを理解してくれています」

 どこか、言葉とは裏腹に香菜は寂しそうだった。

だけど、そんなこと今は些事にしか感じられない。今語るべきはたった数分前まで目の前の皿に存在していたカレーのことだけ。それは何よりも、右近自身が理解していた。

「……ま、あいにくカレーにうるさい知人が多いのでな。それより、この下のドライカレーだが、これはこの上のバター海鮮キーマと合わせるためだけに考えたレシピなんじゃないか?」

「ええ、おっしゃる通りです。バターキーマは食前にそこの彼が言った通り、一口目は美味しくても食べ続けるには重くなりがちです。それを緩和するために、下のドライカレーはレモンとキウイを混ぜた酸味とキリっとした赤唐辛子を効かせた『引き立て役』に徹しました。それで、唐子先生」

 不意に、香菜が今まで見せたことがないような不安そうな表情を浮かべた。こいつもこんな表情ができるんだ。一瞬、そんなことを考えた右近だったが、

「言うまでもない。俺は織部香菜の入部に賛成だ」

 短い言葉と共にその不安も晴れたのだろう。

 香菜は先ほどまでの不敵な笑みとは違う、無邪気な笑みを顔いっぱいに浮かべて「ありがとうございます!」と言った。

「本当は俺的に即決入部にしたいんだが、一応ルールだからな。他の二人の意見も聞いておくか。……まずは部長の青山の姉ちゃんから聞かせてもらおう」

「……はい」

 唐子に指名され、華憧は一瞬右近を申し訳なさそうに見つめて「ごめんね」と言った後、「あたしも賛成だよ」と言った。

「ありがとうございます、青山部長」

「じゃ、この時点で織部の入部は確定的だな。ちなみに青山姉は何かコメントあるか?」

「えっと……あたしは普段から作るのも食べるのも中華ばっかで、先生みたいに的確なコメントできないけど、このカレーがとても美味しいのは分かったし……。正直、料理人の腕前として、あたし……は香菜ちゃんに敵わないと思う。……それくらい、力強いカレーだったよ、このカレーは」

「あたし」と「香菜ちゃんには敵わない」の間に挟まった華憧の沈黙。

 そこは、本来「あたしたち」と華憧が言いかけたのだろう。行間を読むまでもない。何せ、右近も全く同じ感想を抱いたのだから。

「じゃ、最後は浅黄だな」

 勝負が決まった時点で審査が終わるという右近の淡い期待は、唐子の無慈悲な指名によりあっさりと砕かれた。答えたくない。それが、右近の偽らざる本音であった。

「まあ、元々お前が吹っ掛けた試験だからな。お前に納得してもらうかどうかってのも重要な要素だ。答えにくいかもしれねえが、ちゃんと正直に答えてみろ。……織部の皿は美味かったか?」

「…………った」

 それでも突っ張って「不味かった」と答える選択だってあった。

「ん~? 聞こえないなぁ?」

 わざとらしく香菜が耳に手を当てたジェスチャーを見せる。

右近だって分かっている。こんな小さな呟き、誰にも届かない。

自分の世界に閉じこもるだけではこの先に進めないことくらい、右近にも分かっていた。右近だってストイックにカレーと向き合ってきた。

 だから、

「ああ、美味かったよ!」

 力の限り叫んでやった。

「なんだよ、このむちゃくちゃな劇薬みたいなカレーは! どうやったらこんなカレーを思いつくんだってくらいに美味いし、それをどうやったらここまで的確に実践できるのかも想像がつかないくらいにすげぇよ!」

 さっきまでニヤニヤしていた香菜も虚を突かれたようにぽかんとしている。驚いているのは華憧も同じだ。それなら言ってやる。俺の本音を最後まで!

「確かにお前はすげぇよ! ハナねぇも、もちろん俺も、追いつけねぇレベルの料理人だって認めてやるよ、『今』はな! でも……」

 こんなところで「敗北」したまま終わる訳には右近もいかない。

 何故なら、右近には目標があるのだから。

「『趣味程度ですがカレーを作る』なんて抜かしてるやつなんていつかすぐに抜かしてやる! お前のカレーは美味いが執念や熱量は俺のカレーだって劣っていない! だから……っ!」

 すぅ、と息を吸って右近は宣戦布告した。


「ウチに入部して、俺のカレーに負かされやがれ!」





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