第6話 チキンな純情少年とドライな百合少女(前編)

 結局土日は眠っている内に終わったような感覚だった。

 その間に同じ夢を何度も見た。出てくるのは決まって、初めて右近が玖明に料理……カレーを振舞ったあの日の出来事。

 まだ幼かった玖明が「こんなに美味しいカレー、初めてだったから」と満面の笑みを浮かべてくれたあの日。

そのシーンが何度も何度も、まるで呪いのように眠りにつくたびに蘇る。

「もう、分かったから、やめてくれ……」

 その温かな思い出は今の右近にとってまさしく「夢」。

 もはや手の届かなくなってしまった所にある「イフの世界」の出来事だ。

 右近が今でもチキンカレーを中心に作り続けているのは、あの日出したカレーの肉がたまたま鶏肉だったから。

 まだカレーについてそこまで詳しくなかったあの頃の右近は、ちょっとでも自分の力で玖明に喜んでもらいたかった。

だから、普段はあまり見ない珍しそうなカレールウを買った。

その箱に書いてあった材料が鶏肉だったので豚でも牛でもなく鶏を使った訳だが、果たして出来上がったカレーを食べて、玖明は輝くような笑みで言ったのだ。

「鶏肉とさらさらのカレーって相性いいのね!」

 言葉も笑顔も忘れるはずがない。

 きっかけはほんの偶然でも、その笑顔に惹かれるのは必然だった。

 そしてその笑顔に魅入られた右近は、カレー作りに没頭するようになり今に至る。

 あの時の玖明の笑顔がもう一度見たい。

 もう一度あの興奮を今度は俺だけの皿で引き出したい、

 そう思って近所のカレーを食べ歩いたし、何冊もカレーやスパイスの料理本を読んだし、読書で得た知識はすぐさま実践して身に着けていった。

「腕は上がってるはずなのになあ……」

 思わず、想いが独り言として出てしまう。

「それなのにどうして、満足できねーんだろ……」

「――それは向上心が高くなりすぎたんじゃないか」

「うわっ!」

 急に予想外の角度から言葉を拾われ、右近は思わず反対側を振り向いた。

「お悩み中にすまないが、もう掃除の時間も終わったぞ」

「あ、あぁ、誠司か……。すまねぇ、ちょっと考えごとしててな」

「一つのことに気を囚われると、視野が途端に狭くなる。浅黄は道を歩きながら考え事をしてはいかんタイプだな……」

 いつの間にか右近の机のそばには腕組みをしたまま苦笑する誠司が立っており、さらにその後ろには何やら鼻血を垂らしては拭いている桂妃の姿も見える。

見たところ教室にいるのは右近とその二人だけであり、誠司の言葉通り終礼から大分時間が過ぎてしまっているらしかった。

「それはそうと浅黄。さっきの話だが。浅黄は少しストイックになりすぎているのではないか?」

「だから、いいカレーを作っても満足感がないってか?」

「そんなところじゃないか。いくら技術的に優れた皿を完成させたところで、作り手自身がそれを上回る皿を知っていると、なかなか満足が伴わないからな」

「ふーむ、そんなもんかねぇ。……ま、今日も部活だしそろそろ行くよ。確かに考えすぎてもいけねーや」

「ああ、何事も考えすぎは良くないからな。理想が高いのは結構だが、時には足元を見なければ首が疲れてしまうだろう?」

 右近の理想。

 それは単に玖明を笑顔にできるカレー、というだけのもので具体的な味は決まっていない。

でも、ひょっとしたらその「決まっていない」のが良くないのかもしれないな……。

そんなことを考えながら、右近は誠司と別れて教室を出た。

 ……でも恐らく、今日玖明はやってこない。

 何せ、玖明は名義を貸してくれているだけで、料理部の幽霊部員なのだ。

そもそも玖明再び右近のカレーを食べてくれる日は来るのだろうか……?

もし玖明が右近のカレーを食べる気が元々ないのなら、右近が納得するカレーを作れるようになったところで勝ち目がない。

本当に、俺はただこのまま美味しいカレーを目指し続けるだけでいいのか……?

先ほど誠司に警告を受けたばかりなのに、右近の足取りは自然と重くなってくる。

今日も華憧と唐子と右近の代わり映えしないメンバーでの活動。新入部員などいないし、これではカレー作りそのものが停滞してしまいそうだな……。

そんなことを考えながら部室にぼんやりと入った右近は、扉を開け放った瞬間固まってしまった。


「え、ちょ、裸……?」


 右近が口走った言葉通り、料理部の部室には裸の少女がいた。

 いや、正確には半裸だった。

 わずかな風に揺れる白いラインが、本来その剥き出しとなった彼女の大きな乳房を覆うサラシだと理解できたのは現実逃避の高速思考故か。

横顔からも分かるエキゾチックな濃い顔立ちの少女は、以前見かけた際に受けた中性的な印象に似合わずとても女性的なお胸をしておられる。

ただその横顔はとても様になっており、右近は邪な気持ちを抱くよりも、彼女に見惚れてしまっていた。

「おや? 君はいつぞやの……。なるほど、そういや君もここの部員だったか」

 声を掛けられ右近はようやく我に返る。

 目の前にはサラシで胸を締め付けるようにして、押さえつけようとしている半裸の少女。

 これは言い逃れができない。さっさと扉の前から離れなかったことを瞬時に後悔した右近が、言葉を探して口をパクパクしていると、少女は怪訝な顔をした。

「あれ、もしかして私のことを覚えていない? それは若干凹むなあ。まあ、君のことはどうでもいいんだが、私もそれなりに第一印象は強烈な自覚をしていたんだけどな。特に君と出会った時はね」

 下は学校指定のスカートを履いているものの、上はほぼ裸の状態で少女は近づいてくる。

少女は胸の先端付近はサラシで隠しているとはいえ、その豊かな谷間や形の良い細長いヘソ、女性らしい丸みを帯びながらも官能的な曲線を描くくびれなどは暴力的に右近の目に入ってくるのだ。

健全な男子高校生である右近は耐え切れず、やや前かがみになりながら後ろを向いた。

「た、頼むからまず服を着てくれ!」

「ん? ああ、そうか。君はシャイなんだね。いや、先日のことを考えると単なるむっつりスケベか」

 少女は納得したように足を止めた。

「あはは、今日はちゃんと律儀に後ろを向くんだね。やはり君はただの臆病なむっつりスケベって訳だ。スカートの中は覗けても、その先は刺激が強すぎるんだね」

気分を害したどころか愉快そうな口調と共に衣擦れの音が聞こえてくる。

実際右近はかなり馬鹿にされている気もしたが、背を向けている状態の右近は余計に変な気分になってくるため言い返すどころではなかった。

「すまなかったね。もう振り向いていいよ。少し今日は昼からの体育で汗をかいてしまったんだ」

右近が恐る恐る振り返ると、制服姿の少女が何事もなかったかのような表情で立っていた。

「大丈夫だよ。実はまだ裸でしたなんて頭の悪いイタズラはしないさ」

「……さっきはすまなかった」

未だに顔を赤らめる右近とは対照的に、少女はやはり動じた様子など見せない。

「私は男子に興味がなくてね。こういうことには無頓着なんだ」

「……興味がなくても普通恥ずかしがるもんだろ」

「君は野良犬にペニスを見られて羞恥を感じるのかい?」

 野良犬に性器を見られる状況がそもそも恥ずかしいのでは……と思う右近だったが、少女は右近に興味を失ったように彼に背を向け、部室の窓際に位置する調理台の引き出しを物色し始めた。

「おい、お前、勝手に散らかすなよ」

「うるさいなあ。ここは料理部なんだろ。なら私も料理したっていいじゃないか」

右近が慌てて調理台へ駆け寄るが、少女は振り向きもしない。

「まな板はそこに立てかけているが包丁は……あったあった」

「いや、だからちょっと待てって。それは料理部の部品でお前が勝手に使っていいものでは……」

「織部香菜」

「は?」

 唐突に出てきた固有名詞に右近が戸惑っていると、少女は手にした包丁を慣れた手つきでクルクル回しながら右近を振り返った。

「私の名前だ。さっきからお前お前ってさすがに気分が悪い。無礼な犬に吠えられるのは仕方ないことだが、そもそも私は無礼な犬が嫌いでね」

「……さっきから人のことイヌ呼ばわりするお前の方が失礼じゃねーか? 織部香菜さん?」

「なに、もののたとえだよ。少なくとも私にとって君はしつけのされていない野良犬と変わらないということだ。許したまえ」

 ここまで言われると右近も怒りより呆れが先行してくる。

 学外から持ち込んだらしいスーパーの袋を漁る香菜を眺めながら、右近はため息を吐くしかなかった。

「……それで? おま……織部は何しにウチに来たんだ?」

「決まってるじゃないか。カレーを作りに来たのさ。もちろん、入部することを前提にね」

「……何?」

 あれだけ探していた入部希望者に、右近が思わず驚いた顔を浮かべる。

「ほら、私は貴重な新入部員候補だぞ? もっと丁重に扱いたくなってきただろ?」

 対して香菜は右近の気持ちなどお見通しとばかりににやにやとし始める。右近としても環境を変えるためにも新入部員は確かに欲しい。

 ただ……。

 香菜の性格とそりが合う合わないは別としても、先日別れ際に突き付けられた言葉だけはどうしても引っかかる。

彼女を華憧と共に活動するこの料理部へ引き入れてもいいものだろうか。そうしたら、俺と玖明の関係はどうなるのだろうか。

そんなことを考えていたところで、再び背後の入り口のドアが開いた。

「ごめんね、掃除の後一度学外に買い物行ってたら遅くなっちゃって!」

「今日は青山姉が料理するっていうから来てやった……ん?」

 部室に華憧と顧問の唐子が入ってくる。

「ああ、えっと、そこの女子は……どっかで会ったかな、うん、何の用だ?」

 若干気まずそうな表情で唐子の視線が香菜へと移る。

 香菜は待ってましたとばかりに自信ありげな笑みを浮かべた。

「初めまして、顧問の唐子先生。私は高等部一年一組の織部香菜。趣味程度ですが料理を作るのが好きです。突然ですが、私を料理部に入れてもらえませんか?」

 唐子に対しては当然ながら右近に対するのと打って変わって丁寧な態度になる香菜だが、その口調にはすでに結果は揺るがないとばかりの余裕があった。

「……一応確認だが、ウチは部員が集まって好き勝手に料理するだけのゆるい部だぞ?」

 と言いつつも唐子の顔はすでににやけている。

大方合法的に女子高生の手料理を食べる機会が増えるなどと、気持ち悪い理由で喜んでいるのだろう。

「ええ、ですが環境には恵まれた部活だと思いますよ」

 香菜は右近の方を一切見ることなく、華憧と唐子を見比べて断言する。

一方右近は自分だけが蚊帳の外という気がして面白くない。いったい何のつもりだこいつは。

だけど、入部希望の一年生と聞いて嬉しそうな顔をしている華憧を前に、右近は何も言えなかった。

「へぇ! ウチに入部希望ってことは織部さん……あ、香菜ちゃんって呼んでもいい? 香菜ちゃんも料理が好きなんだよね?」

「ええ、作るのも食べるのも好きですよ、えっと……」

「ああ、あたしの名前は青山華憧! 一応この料理部で部長をさせてもらってるよ」

「まあ、今の三年が一人だけだからそうなったってだけだがね」

「そうそう、唐子先生の言う通り人数の少ない部活だからさ。だから、香菜ちゃんさえよければ大歓迎なんだけどなあ。ちなみに香菜ちゃんは何の料理が得意とかある? あたしは中華料理が得意! あとそこにいる右近くんは、」

「カレーです、私の得意料理はね」

 まるで言葉を横取りするかのようなタイミングで香菜が不敵に微笑む。

わずかに唐子が目を細める。右近は今度こそいら立ちを感じたが、彼が口を開くより先に、香菜はさらなる言葉を続けた。

「ところで唐子先生、この部にはもう一人部員がいると思うのですが」

「ああ……青山妹のことか。彼女はなあ……なかなか来ないというか」

 唐子と華憧が目線を交わし、お互い困ったような笑みを浮かべる。

「まあでも、香菜ちゃんが入ってくれれば玖明ちゃん……あたしの妹なんだけど、あの子も同じ一年の女子だし顔出してくれるかもよ」

「おい、ハナねぇ、適当なことを言っちゃ……」

 よほど入部希望の香菜を逃がしたくないらしい華憧が食い下がり、右近はたまらず華憧を遮ろうとする。

 そんな二人のやり取りを見て、香菜は「そうですね!」と頷いた。

「私は彼女にも私のカレーを食べてもらいたいんです。だから私が入部したら、まずはクミンさんに顔を出してもらえるよう計らいましょう!」

「あのなぁ……」

 さすがに事情も知らない香菜にそこまで言われて黙っていられる右近ではなかった。

「玖明は最近カレーが好きじゃないんだ。ここに来ないのだってあいつなりに思うところがある訳で、お前があいつを呼べるくらいならとっくに俺とハナねぇがそうしてるさ」

「ああ、そうだね。少なくとも君にはそれができなかったってのは分かるよ。だけどね」

 ああ、ダメだ。そんなに熱くなっては……。

 何とか冷静を保とうとする右近の理性とは裏腹に、はらわたが煮えくり返る想いが止まらない。

 そんな右近にダメ押しをするかのように、香菜が挑発的な笑みを浮かべた。

「私は、彼女を笑顔にするカレーを提供することができる。君と違ってね」

 君と違ってね。

 その言葉が脳内でエコーする頃にはとっくに、右近の堪忍袋の緒は切れていた。

「……ざけんな」

「お? 少しはマシな顔になってきた。だけどそんな小さな声じゃ君の想いは届かないよ。さあ、なんだい? 言いたいことがあるなら思いっきり叫んでくれよ」

「ふ、ざ、け、ん、な! って言ったんだよ! お前がどんな皿を出すのかは知らねぇがな! 何も俺たちの事情を知らないくせに偉そうなこと言ってんじゃねぇ!」

「う、右近くん、落ち着いて! 香菜ちゃんもいきなりどうしたの!」

 華憧が慌てた様子で間に入ってくるけどもう止まらない。

「そんなに言うならお前のカレーを食わしてみろ! しょうもない皿を出すようならこっから追い出してやる!」

「おい、浅黄。青山姉ならともかくお前にその権限は……」

「入部試験ということだね? 面白いじゃないか」

 右近を嗜めようとした唐子を遮り、香菜は笑みを浮かべた。その表情は余裕しゃくしゃくという様子で、それがさらに右近をいら立たせる。

「だけど、君の判断だけに私の入部を委ねるというのは、さすがに私にとって不利すぎる。できれば唐子先生や青山部長にも判断を仰ぎたいのですが、いかが?」

「なら、俺が厳正に審査しよう」

 珍しく真顔になった唐子だが、香菜は「それも助かりますが」と苦笑する。

「できれば、三人で投票してほしいですかね。カレーに限らず料理は個人の好みによるところが多いですから」

「三人……? だけど玖明ちゃんは今日、ここには来ないよ?」

 香菜の言葉に華憧が首を傾げる。「あたしと唐子先生とじゃ票が割れたらどうにもならないし……」

「いますよ。そこにね」

 香菜が不敵な笑みを浮かべたまま、右近を指さす。

「彼を入れれば三人。どうやっても二対一で結果は出るじゃないですか」

「俺に票を委ねるのは怖いんじゃなかったのかよ」

「君は単純な数比べもできないのかい? たとえ君一人が反対しようが、唐子先生と青山部長が賛成してくれれば私の勝ちだ。それくらいの勝算はあるさ」

「よほど自信があるみたいだねぇ」

 唐子がヒュウ、と口笛を吹く。

 話は決まったとばかりに、香菜はそそくさと調理台へ向かうと、持参したビニール袋から玉ねぎを取り出し、皮をむき始めた。

「おい、だから勝手に使うんじゃねぇと……」

「浅黄、構わん。もう試験は始まっている」

 意外にも、なおも食って掛かろうとする右近を止めたのは唐子だった。

「先生、でも、こいつ……!」

「ここは料理部。料理を作る部活なんだ、浅黄。少なくとも織部の料理をしたい気持ちを俺たちが個人的な感情で否定することはできないよ」

 理論武装をしているように聞こえるが、唐子は「気持ち」という言葉にやたらと力を込めてそう言った気がする。

「安心しろ。最初に言った通り俺は公正な審査を下す。織部の皿に気持ちがこもっていないなら、俺はお前と同じようにするだろうさ」

「ごめんね、織部さん。本来ならこんなことしなくていいはずなんだけど」

「構いませんよ、青山部長。私としてはここにいる全員に納得してもらう形で、ここに入部したいのでね」

 テンポよく玉ねぎを刻みながら香菜は余裕を含んだ声で答える。

 一方、右近は調理を始めた香菜の後ろ姿を眺めながら、少し彼女の認識を改め始めていた。

 こいつ、ただのカレー好きではないな……。

 玉ねぎをみじん切りにする後ろ姿からは、一切の迷いを感じない。

 これは日常的に同じ作業を続けている証だ。

 玉ねぎのみじん切りは多くのカレーレシピに共通してまず求められる手順なので、必然的に香菜がカレーを作り慣れているであろうことは、右近にも容易に想像できた。

「へえ、手際いいんだね。よくカレー作ってるの?」

「ええ、カレー好きですからね。自分が想像する味を食べたいなって思うことがあれば、すぐ作ってますよ」

 華憧に話しかけられても作業の手を止めることなく、なめらかに答える香菜。明らかに身のこなしがただの料理好きの女子高生のそれを超えている。

「……何のカレーを作るつもりだ?」

 このままムスッとしておくだけでも良かったが、カバンから瓶詰されたホールスパイスを取り出す香菜を見て、右近はついに好奇心を抑えきれなくなった。

この女が自分と合うか合わないかは別として、通学カバンに密封容器に入ったホールスパイスを詰めて歩く生徒が全国規模でどれだけいることだろうか。そして、そんな少女が自分の目の前に現れたとなれば……。カレー馬鹿の血がうずき始めるのも無理のないことだった。

「シナモンにフェネグリークにカルダモン、となると欧風に近いカレーを想像するが」

「赤唐辛子にマスタードなんかも入れているな。スターターのホールスパイスだけでざっと七種類くらいか」

 右近の言葉に唐子が頷く。

唐子はこう見えて、意外にスパイスや調味料などの知識は豊富だ。前職はスーパーにでも務めていたのだろうか。そう思って右近は先日唐子に前職を尋ねてみたが、あいまいにはぐらかされただけだった。

「このホールスパイスの量を御しきれるのか……?」

 首を傾げる右近の言葉通り、ホールスパイスとは香辛料の種子や葉がそのまま固形となっている状態だ。

その多くは油に香りを移したり水で煮込んだりすることで真価を発揮するのだが、パウダー状のスパイスとは違い水分に溶けたりしないので、入れすぎると当然暴力的な香りが口の中で爆発することになる。

それを好む猛者もカレー好きの中にはいるのも事実だが、少なくとも万人向けの調理法ではないし、スパイス自体には香りだけで塩や砂糖のような分かりやすい味が含まれていないため、軸となる味を邪魔してしまう恐れすらある。

「ふふっ、さすがは君もそれなりの知識はあるようだね」

 初めて香菜が右近を振り返る。

その表情は勝負事の最中とは思えないほどの、楽しさに満ちていた。ふと、自分がカレーを作る時はどんな顔をしているのだろう。そんな疑問が右近の頭の中を過ぎった。

「わあ、いい香り!」

 やがてたっぷりの油でホールスパイスを加熱し始めた香菜に、華憧が近づいていく。

「すごいね、右近くんもカレー作るときカレーのいい匂いなんだけど、香菜ちゃんは右近くんとはまた違う外国、って感じの匂い!」

「きっと、クミン……妹さんではなくスパイスのクミンシードの方ですね。それを軸にするかどうかの違いだと思いますよ」

 何でもないことのように香菜は言う。

クミンシードは華憧の言う通り「カレーの匂い」という香りを発するため、油で熱するとちょうどカレーのいい匂いが充満する。右近のチキンカレーは、クミンの香りを軸に、ニンニクやショウガ、それにトマトなどをベースに組み立てられたある意味オーソドックスなカレーであった。

 シナモンの高貴な香りにフェネグリークの甘く、しかし刺激的な香り。

 マスタードのパチパチ弾ける音が室内を木霊する。

 そんなフライパンの中を一心不乱に眺めていた香菜が、唐突に丁寧にみじん切りされた玉ねぎを「ここだね」と呟き投入した。

「……完璧なタイミングだ」

 唐子がぼそりと呟くのが聞こえた。

 スパイスの中には熱しすぎると焦げてしまって香りが損なわれるものも多い。

たとえば香菜が先ほど投入したフェネグリークなどはその典型なのだが、彼女はいとも簡単に、スパイスが最高の香りを放つタイミングで玉ねぎを投入し、手早く油とスパイスを玉ねぎに絡め始めたのである。

 こいつは……やはり只者じゃない。

 右近は香菜の動きに対して、危機感を抱いた。

はっきり言うと、右近にはスパイスを熱する時の最高のタイミングはつかみ切れていない。さすがに香り立つ前にニンニクなどの香味野菜や玉ねぎを入れる愚は犯さないが、今だって香菜が玉ねぎを入れたタイミングが正しいのかどうかなんて分からなかったのだから。

「まあ、しかしいくらスパイスが使えても、食材の知識がなければ高いレベルのカレーは作れん。全ての料理はカレーに通ずるのだからな」

 唐子はそう言うが、右近は遺憾ながらすでに彼女の勝利を確信し始めていた。

自分が彼女の入部に反対票を入れるとしても、基本的に華憧と唐子は料理に対して実直なタイプだし、何より右近と違って香菜を拒む理由がない。

これは明日からのことを考えなきゃいけないな……。

内心で苦悩する右近に構うことなく、香菜はやはり学外で購入してきたらしい食材を次々と取り出した。

「あさりの缶詰と明太子に……鶏むねミンチ? 海鮮とチキン、どっちだ……?」

 右近は首を傾げるが、その次に香菜が取り出した食材を見て、合点がいった。バターだ。

バターにシナモンやフェヌグリークなど欧風チックなスパイスに海鮮。認めるのは癪だが、発想はかなり面白い。鶏ひき肉は恐らく食べ応えを増すための補強であろう。だとしたら、彼女が作ろうとしているのは海鮮バターキーマ、といったところか。

「まずは一段階目の仕掛けだね」

 そう言ってやはり右近に向かって挑戦的な笑みを浮かべ、香菜は大きくカットしたバターを惜しげもなくフライパンに投入した。

ジュワリとジューシーな湯気が立ち、バター特有のまろやかな香りが室内を包む。溶けたバターに大量の玉ねぎを絡めるようにフライパンをゆする香菜の後ろ姿は、やはり堂に入っていた。

「その間にこっちも準備しなくてはね」

 弱火で玉ねぎを熱したまま、香菜はあさりの水煮缶の水分と身を分離し、それをみじん切りにしていく。玉ねぎのみじん切りを中学一年の頃から三年以上続けてきた右近から見ても、目を見張るほどの早業。それを事もなげに披露した香菜は、それと明太子を同時にフライパンへ投入して、軽く混ぜた後調合していた塩と砂糖入りのパウダースパイスをふわりと混ぜ込んだ。

「あー、やっぱりこの瞬間のカレーの匂い、これがあたしは好きだなぁ」

 華憧がうっとりと呟くのを聞いて、当然いい気はしない。だけど、それ以上にこの食材とスパイスの掛け算により、どんな一皿が出来上がるのか、その好奇心の方が勝っていた。本音を言うなら、香菜が作るカレーをしっかり味わってみたい。そんな気持ちが徐々に強くなってくるのを抑えきれないのだ。

 彼女はそこからさらにトマトケチャップ、ウスターソース、そして先ほど分離したあさりの水煮缶の水分を混ぜ、火を強める。海鮮の潮の香り、バターの高貴な香り、スパイスの情熱的な異国の香り、全てが溶け合って右近たちの空腹を刺激してくる。

「さて、こんなものかな」

 やがて香菜は水分がほとんど蒸発したフライパンを眺め、満足気に頷き火を切った。これで完成だろう。誰もがそう思った。

しかし。

香菜はそのまま流れるような動作で、バターの残りを再び大きくカットし……それを再びフライパンに投入したのである。

「なっ……?」

これには右近だけでなく唐子も絶句した。

投入したトマトケチャップやソース、野菜の量に対してこれではあまりにもバターが多すぎる。それはこの場にいる三人の誰から見ても明らかなくらいだ。

だけど、香菜は余熱で溶けるバターを混ぜ合わせながら、鍋の淵や底をこすり続けている。これが彼女のレシピ通りなら、明らかにレシピ段階でのミスだ。

「……なんだ。そういうことか」

 最初に微妙な雰囲気を破ったのは右近だった。

 その言葉に香菜が驚いた様子で「どういうことだい?」と逆に首を傾げる。

 右近は、その様子に憐れみすら感じながら、どこか安どした様子で言った。

「お前、スパイス以外のことは知らないんだな」

「当たり前だろう? 私は一介の女子高生。あいにくそんな膨大な知識量はないよ。もっとも、君だって同じようなもんだと思うがね」

「ああ、そう思ってたよ。ついさっきまではな。でも、そのバターの量はさすがに無理だ。くどくて食えたもんじゃない。こんなカレー、食べなくても結果は分かるぜ。ギトギトした自己満足だけのカレーだってな」

「それは困ったなあ。君が食べてくれないと、テストが成立しないじゃないか」

 右近の言葉にも、香菜は微笑みを崩さない。

 その余裕の表情に、哀れみすら感じながら右近は冷たく言い放った。

「大丈夫だ。ハナねぇも、唐子のおっさんもそんなもんにオッケーは出さねえよ。出直してきな」

「……それは無理だよ。少なくとも今この瞬間はね」

 すっかり興味を失った様子の右近に構うことなく、香菜は買い物袋を再び漁り始める。

華憧が何かに気付いたように「あっ」と声を上げる。

それにつられて右近がそちらを見ると、最後の食材を両手に、香菜がさらに強気な笑みを浮かべていた。

「だって、私の料理はまだ折り返し地点なのだから」

 両手にレモンとキウイを挟んだ少女が、二つ目のフライパンに点火する。

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