第4話 チキンな純情少年、同好の百合少女(ライバル)に出逢う

 そもそも、中学に上がる頃まで、右近の知る玖明はよく笑って将来の希望を口にする、前向きで明るい少女だった。

「ねえ、右近っていつも目の前のことばかり見てるわね」

 あれは、小学生の頃だったか。

 学校からの帰り道、玖明は右近にそんなことを言ってきた。

「私は今より将来のことを考えてた方が楽しいわ。だって今って退屈なんだもの。それより、将来大きなことをして、いろんな人に認められて、チヤホヤされながら生きていきたいわ」

「でも、将来を迎えるには今を生き抜かないとダメだろ」

 ほくほく顔で「夢」を語る少女に、当時の右近は呆れながらも言ったのを覚えている。

「おれは目の前のことを頑張ってたら、勝手に結果は良くなると思うよ」

「ふーん……」

 調子に乗って説教臭くなった右近に、玖明の表情が一瞬曇る。

 まずい、機嫌を損ねたか。

 一瞬そんなことを考えた右近だったが、玖明はすぐにニパっと笑って何度も頷いた。

「そうね! 将来のことばかり考える私と、今のことだけでいっぱいいっぱいの右近。私たちっていいコンビかもね!」

 その時の笑顔が右近にとっては今も忘れられなくて……。

 カレーを食べてもらった時の笑顔は、自分の気持ちに気付くきっかけに過ぎなかった。

 右近にとって青山玖明という少女が特別な存在になったのは、きっとこの瞬間。

 だから、いっそカレーは彼女を笑顔にする手段というだけで、それを彼女が必要としないのならば、もはや俺は……。



「おい浅黄、さすがに起きろ。掃除当番が困っているぞ」

 突然聞こえてきた友人の声に、右近は驚いて身を起こす。

 時刻は十五時三十二分。とっくに終礼は終わっていたらしい。

「きゅふ、誠司君が浅黄君に愛のモーニングコール……」

「大丈夫か? 最近カレーの研究ばかりで休めてないんじゃないか?」

 どこからか湧いてきた桂妃を華麗にスルーして、誠司が心配そうに右近を見下ろしている。

 誠司の心配は半分当たっていて、確かに昨晩はほとんど眠れていなかった。

 だけど、その原因はカレーの研究などではなく、昨日の玖明との会話だ。

 玖明も右近もまだ高校一年生。

 それなのに、玖明はもう自分との「結婚」という将来まで考えてくれている。

 その気持ちは嬉しい反面、いくらなんでも急すぎるように感じるのだ。

 しかも、中学に上がる頃くらいまでの距離感が続いていたならまだしも、最近は玖明とかなり疎遠になっていた気がする。

 あの状態からいきなり「結婚」を玖明が口にし始めたのは、何か他に原因があるのではないか……。

 そう考えると、右近は正体の分からない不安で胸がいっぱいになって、眠るどころではなくなってしまったのだ。

「む、本当に調子が悪そうだな。今日はさっさと帰って休んだらどうだ?」

「あ、すまねぇ、少しカレーのレシピ閃いたんだ。まるで頭の中で電球が浮かんだみたいだったぜ!」

 咄嗟に誤魔化しの言葉が出る。

「……なんだ。それなら良かった。しかし案の定のカレー馬鹿っぷりだな」

 それを聞いて、安心したように誠司が苦笑を浮かべた。

「バカじゃねえと向き合えねえ料理だよ、カレーは」

 一緒に研鑽し合う仲の誠司に、いらぬ心配をかけたくない。努めて軽い口調で答えた右近だったが、その後再び顔をしかめた。

「む? 言ったそばから大丈夫じゃなさそうな顔だな……」

「いや、良くないことを思い出したんだ。今日料理部がミーティングの日じゃん……」

「そういや料理部は月末にミーティングをするという話だったな。大分時間が経っているが大丈夫なのか?」

「ああ、初めてのミーティングでいきなり遅刻だなんてハナねぇに何を言われるか分かんねぇ! 誠司、悪ぃが今日は失礼するぜ!」

「うむ、しかし体調には気をつけろよ」「あ……浅黄君、早漏……」

 桂妃からよく分からないコメントが飛んできたが、右近は意味が分からない。

 右近はそのまま通学カバンを肩にかけて廊下に出て、急ぎ足で部室棟へと向かった。幸い、料理部の部室は四階だから一年生の教室とフロアは同じ。渡り廊下を使って部室棟へ行けばすぐだ。

 救いは、顧問の唐子教諭は先日の「女子高生の手料理以外食べたくない」発言といい、だらしない性格なので、終礼後すぐは来ないだろうという見込みだった。急げば余裕余裕。

 ……そんなことを考えていたのが良くなかった。

「うわっ!?」

 隣の一年一組の入り口前を通り過ぎようとした瞬間に、一組の教室から出てきた少女が驚いて声を上げる。

 普段なら難なく避けられたタイミングだったが、右近が急いでいたのと少女の方も勢いよく教室から曲がってきたのも手伝って、彼は思わず急ブレーキを試みた。その結果、少女との正面衝突こそ避けたものの、右近はそのまま身体をねじった勢いそのままに、廊下の床へと派手にダイブしてしまった。

「いてててて……」

「だ、大丈夫かい? 派手に転んだみたいだが……」

 凛とした低い声と共に、右近を助け起こそうと手を差し伸ばしてくる少女に、右近は思わず目を奪われた。

 短めのポニーテールに中性的な印象を受ける整った顔立ち。

 心配そうに右近を見下ろす顔からはしかし、どこか自信のようなものがにじみ出ている。身長は一六〇にも満たないくらいの小柄な体型なのに、右近が見上げたその姿は何故か余裕に満ちた強者のように映った。

 その間わずか数秒。

「おや、君はもしかして……」

 少女がわずかに目を細めながら、沈黙を破る。

 止まっていた時が動き出したように感じられた右近は、少女の言動に困惑しながらも、慌てて立ち上がった。初対面の女子の顔をまじまじと凝視する度胸など、そもそも右近にはないのだから当然である。

「悪ぃ悪ぃ、ちょっとびっくりしたが平気だ。見苦しいところを見せちまったな」

「いやいや、私もちょっと気が逸っていたというか焦っていたのでね。悪いことをしたと焦ったが、ケガがなさそうで何よりだ」

 少女はそう言って、やはり余裕のある笑みを浮かべた。

 急いでいたのはやはり右近だけではなかったらしい。何が彼女を駆り立てたのか、わずかに気になった右近だが……。

 お互いの目的を優先して彼は大人しく「じゃあな、すまなかった!」と言って手を挙げて立ち去ろうとした。

「……やっぱり、君、カレーが好きだろう」

 カレー。

 その単語を耳にした瞬間、条件反射のように右近は足を止め、振り返った。

「驚いた顔をしているね。なに、簡単な推理さ。さっき君に近づいた時からわずかに私の知っている香りがしてね。これはカスリメティかな。君の指先からその匂いがしたんだが、あいにく普通の高校生はカスリメティなんてハーブ、名前すら知らない。昼に学食でカレーでも食べたとなると話は別だが、今日の昼間はそもそも学食でカレーが出ていなかったからね。だから、君は本格的にスパイスを使ってカレーを作るほどのカレー好きだと思ったんだが、違ったかい?」

「……いや、その通りだよ」

 右近は取り繕うこともせず、少女の顔を見ていた。それくらいに驚いた。

 確かに、右近は二日前の夕方、部室でカスリメティに触れ、指に匂いがついたのを覚えている。だけどこの自分と同じ高校一年生の少女に、その二日前のスパイスの残り香を嗅ぎ取られたどころか、カスリメティと決してメジャーではないスパイスの種類まで特定されるとは想像すらしていなかった。

「そうか、ならば君も同好の士という訳だ」

 右近の視線を浴びてなお、少女は意に介した様子もなく微笑んでいる。

 もっと、この少女のことを知りたい。彼女と情報交換をして自身の腕を磨きたい。

 そんな欲求がむくむくと湧いてきたが……。

 その時、少女の背後によく見知った別の少女、玖明の姿が映った。

「あら、う……浅黄君。こんなところでどうしたのかしら? 今日はミーティングの日でしょう?」

 玖明の声はひどく遠くから聞こえてきた感覚だったが、右近の視線の先にあったポニーテールの少女が振り返ったため、会話は一旦途切れてしまった。

 案の定、玖明は無表情で、その表情からは何を考えているのか分からない。まるで昨日の帰りの会話などなかったと言わんばかりだ。

 だけど。

「君、名前は? ミーティングとはどこの部活だい? あ、私の名前は織部(おりべ)香(か)菜(な)! 一年一組で部活は無所属だ!」

 右近が玖明に対する言葉を探す暇もなかった。

 ポニーテールの少女、香菜が振り返った勢いそのままに、玖明のもとへ猛然とダッシュしたからである。

「きゃっ!?」

「おい、お前!」

 驚いて短い悲鳴を上げる玖明の前で香菜は姿勢を低くする。その様子に反射的に右近が駆け出そうとした時、

「驚かせてすまない。だけど、君のような美しい少女を前に、立っているのは不敬だからね!」

 香菜は美しい所作で、玖明の目前で跪いて見せたのである。

「え……?」

 これには恐る恐る目を開けた玖明も困惑の表情を浮かべるしかない。ちなみに右近はまたも急ブレーキをかけたため、すっ転んでいた。

「お、おい、玖明……。そろそろハナねぇが……」

 何とも締まらない体勢のまま玖明に呼びかけようとした右近だが、言葉の途中で固まってしまう。

 角度的に、玖明のスカートの「中身」が見えてしまうのだ。玖明はそれに気付いていないが、さすがはチキンな右近。露骨に目を泳がせながら、言葉を続ける。「……早く行かねぇと」

「その不自然な間はなんだったんだい?」

 香菜に呆れた表情で指摘され、右近はさらに視線を泳がせる。どうやら香菜は右近の視線に気付いている。そんな右近の動揺を見かねたのか、玖明は諦めたように言った。

「ええ、そうね。あまり待たせるのも悪いし、行きましょう」

「ふーん、そうかい……」

 右近が立ち上がってその先を玖明が歩き出した頃になって、香菜が意地悪そうな笑みを浮かべて言った。

「君にも訊いておこう。君たちはどこの部活なんだい?」

 言わなければさっきの視線の先をバラす。

 香菜の表情は雄弁にその意志を語っている。別段、伝えたところで何の問題もあるまい。そう考えた右近は、あまり考えることもなく言った。

「料理部だよ。俺たちは料理部に所属してて、今日は月一のミーティングの日なんだ。じゃ、俺も急ぐから……」

 何となく織部香菜という少女に苦手意識を持ち始めた右近は逃げるように踵を返し、部室棟の方へと歩みだす。

「……彼女にあんな顔をさせている君に、彼女の隣にいる資格はないね」

 先ほどまでの友好的な雰囲気など微塵も感じさせない声音だった。

 むしろゾッとするほど冷たい声に、右近は思わず足を止めざるを得ない。捨て台詞にしては趣味が悪すぎる。そう思って再び振り返った右近だったが、逆に香菜は彼に興味を失ったように反対方向へと歩きだしていた。

「おい、待て。それはどういうことだ」

「そのうち分かるさ。そのうちね」

 ヒラヒラと手を振りながら、香菜は優雅さすら感じるピシッとした姿勢のまま歩いていく。

 右近はその様子に苦虫を噛み潰した表情を浮かべながら、香菜の姿が下校中の生徒の群れに隠れて見えなくなるまで、ただただその背中を見送っていた。

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