第3話 チキンな純情少年は二兎を追い続け、一匹の兎は初恋の中で待ち続ける。

 多くの生徒とは違い、右近にとって学校の授業はそこまで退屈な時間ではない。

 何せカレーのレシピを考えたり、昨日のカレーの感想をノートにまとめたりしているといつの間にか授業が終わっているのだ。

 時折挟まれる「小テスト」だけはそういう訳にもいかないため退屈極まりないが、基本的に右近は毎日の授業を短く感じていた。

「浅黄は今日も料理部か?」

「いや、今日は休みだからこのまま帰るよ。誠司は今日も店の手伝いか?」

「ああ、今日は大口の予約が入ってるんでな。忙しくなるかもしれん」

 教室の掃除を終え、掃除用具を片付けた誠司が話しかけてくる。

 二人は教室をでてゆっくりと廊下を歩きながら、いつものようにお互いが得意とする料理談義をしていた。

 廊下が騒がしかったのも終礼直後の一瞬だけだ。人のまばらな廊下を歩きながら話す今日の二人の話題は、誠司の両親が経営するお好み焼き屋の近況についてだった。もう十年近くも続く誠司の両親が二人で経営するその店は、決して有名ではないものの、近隣の住民たちに支えられて常連で賑わい続けているそうだ。

 最近は積極的に新商品や期間限定品も発案し、これがなかなか好評だと少し前にSNSでも話題になっていた。

「それでな。今月新商品に『さくらえびバターコーン玉』というものを出したんだが、これが本当に美味くてな。今度浅黄も……おや?」

 話題が店の最新商品に移ったところで、誠司が不意に共に足を止めた。

「ん、どうしたんだ?」

「……すまない、浅黄。少し忘れ物をしたから教室へ戻ることにする。お前は先に帰ってくれ」

「ん、それなら俺も付き合うぜ」

「い、いや、それは悪いというかだな……」

「いいって。そんな水臭いこというなって」

 明らかに視線が廊下の先の昇降口へと向いている誠司だったが、鈍感な右近はそれに気付かない。

「ええい、腹の調子も悪いから先に帰ってろと言っている!」

「お、おう、それは悪かった……」

 結局強引に事実を捻じ曲げてその場を離脱する誠司。それが方便だと気付かない右近が依然として首を傾げつつも、昇降口へと歩き始めた時だった。

「……あら、偶然ね」

 あたかも偶然出会ったかのような言葉と共にロッカーの陰から玖明が姿を現した。

 実際彼女はずっとロッカーの陰で右近を待ち伏せしていたし、誠司はそれに気付いたため気を利かせて外してくれたのだが、そんな誠司の想いなど知る由もない右近は呑気に「おう、偶然だな」などと言って片手をあげる。

「……今から帰りかしら?」

「ああ、今日はさっさと帰って試したいアチャールをいくつか消化しないとな!」

「そう」

 ちなみに「アチャール」とはインドの漬物的なもので、右近はカレーの副菜として最近はスパイスを駆使してアチャールを自作しているものの、玖明は興味を全く示さずそっけない。

「……じゃ、じゃあな」

 鼻息の荒かった右近は冷めた玖明の反応を見て、途端に居心地が悪くなる。

 強張った笑みと共に逃げるようにその場でへにゃっと手を挙げるのが精一杯だった。

 ……右近だってさすがに今の玖明はカレーに興味を失っていることくらい、分かっている。

 だけど、右近にとってカレーは今の自分そのものであり、カレーの話くらいしか玖明にしてやれる話はない。

 それをいつももどかしく思うことが多くて、いつしか会話する機会自体が減ってしまっていた。

 だから。

「待って、右近。今日は一緒に帰らない?」

「え……?」

 思いがけない玖明の提案に、彼は一瞬虚を突かれたような表情になった。

「どうしたのかしら、間抜けな顔をして……」

「い、いや、だって、く……青山、今、俺の名前……」

「だって右近は右近だもの。名前くらい呼ばないと会話にならないわ」

「でも、今朝、気安く名前呼ぶなって……」

「別に二人の時はいいわよ。だから今は右近も『玖明』って呼んで。……昔みたいに」

「玖明……」

「ええ……」

 おずおずと幼馴染の名前を呼ぶ右近と、わずかに頬を赤らめて頷く玖明。

 さっきまでの冷たい空気とは一転、急に訪れたむずがゆいムードに、チキンな右近は過呼吸気味になって必死に言葉を探していた。

 だけど、普段カレーとスパイスのことしか考えていない右近は、こうなってしまうと何を話すべきなのか全く分からない。

 右近の頭から出てくるのは変な汗ばかり。

 沈黙だけが二人の間を包み、視線と視線だけが絡んでは解け、離れてはぶつかる。

「……とりあえず帰るか。家も同じ方向な訳だしな」

「そ、そうね!」

「な、なんだかこうして二人で歩くの久しぶりだなー……」

 結局微妙な雰囲気の中言葉による解決を諦めた右近が歩き出すと、玖明も顔を赤らめたまま渡りに船とばかりについてくる。

 チキンカレーが得意な右近、付き合いにおいても勝負手は「チキン」であった。

「実は今日、右近に話したいことがあって、待ってたの……」

「話したい事って?」

 駅へ向かう道とは反対側の道を歩いていくと、右近や玖明の家にたどり着くため、駅へ向かう道から分かれると、他の学生の姿もまばらになってくる。校門をくぐって以来無言で歩き続けていた二人だったが、再び口を開いたのは玖明の方だった。

「伝えたいことが一つと、お願いが一つ」

 振り返った右近を見つめる玖明は思い詰めた顔をしていた。

 さすがの右近も玖明の表情からただならぬ覚悟を感じ、歩く速度を緩めた。

 遠くで踏切の遮断機が下りたのか、カンカンカン、という音が聞こえてくる。

 たっぷり、一分はそれでも黙ってゆっくり歩いていただろうか。

 やがて、踏切の音も聞こえなくなった頃、玖明は大きく深呼吸をして、ようやく切り出した。

「ねえ、右近。やっぱり私、あなたのことが好きなの。幼馴染として、以上に男性として具体的には結婚したいって思うくらいに」

「あっ! あっ……お、おっ」

「でも、今のままではあなたと私は結婚できない」

 予想外の直球に気が動転してまともな応対の出来なかった右近だが、彼の失態を特に気に留めた様子もなく、玖明は淡々と言葉を続ける。

「もう気付いてると思うけど、私は今の右近みたいに夢を追う人間とは仲良くなりたくない。色んな趣味を持つことは私も大切だと思うわ。でも、それを目的にするのは本末転倒なの」

 右近に対する愛の告白をした直後とは思えないほどに、玖明は冷静に、まるで用意された台本を読むかのように話し続ける。

 そのあまりの熱のなさによって、最初の一言でパニックに陥った右近の気持ちが徐々に落ち着き始めた。

「だから右近にはカレー屋になるのを諦めてもらって、その代わりに私と付き合って、それで右近の気持ちが固まれば高校卒業後でも大学を出てからでもいいから、私と結婚してほしいの。もちろん、右近には夢を諦めてもらうんだから、私も女として、右近の奥さんとして、とびきりの努力をするわ。お金だって頑張ってたくさん稼ぐし、絶対右近にばっかりしんどい想いはさせないつもり! 家で右近や私たちの子供に食べてもらう食事くらいなら、姉さんに負けないくらいに腕を磨くつもり。そのためならこれからは料理部でもちゃんと活動をする! だからお願い……。ずっと、私は右近のことが何年も好きだったの! お願いよ、私のために『普通の男の人』として幸せになって!」

 玖明の言葉や表情からはまっすぐな右近に対する気持ちが伝わってくる。

 右近にとっても玖明は大切な少女だし、その玖明からこんな愛の告白をしてもらえたなら、それはきっと幸せなことなのだ。

 だというのに……。

 玖明の熱のこもった瞳とは対照的に、右近は自分の気持ちが急激に冷めていくのを感じていた。

「……それでも、右近はカレー屋になりたいの?」

 すべてを出し切ったようにハアハアと肩で息をする玖明が、不安げに右近を見つめる。

 だけどそんな玖明に対して右近は、何も言うことができない。

 カレー屋への夢も、玖明への気持ちも、諦められない。

 それに何より、ここであっさりとカレーへの情熱を手放してしまったら、右近には何も残らない。

 玖明はこんな自分のために、全てを捧げる覚悟を見せてくれているのに……。

「……分かったわ」

 右近の沈黙は、玖明にとって否定と同じ意味だった。

 それでも、玖明は右近の反応も想定していたとばかりにあっさりとした様子で頷くのだった。

「確かにすぐにここで決めろとは私も言えないし。右近にとっても大切な決断だもの。今回は私が悪かったわ」

 すぐに教室でよく見る冷めた口調の玖明に戻ってしまうのを見て、右近はやはり何とも言えない寂しい気持ちになった。

「でも、私はずっと待ってる。右近が自分自身の決断で、夢を捨てて私を選んでくれるのを。カレー屋目指すより、私を選んでもらった方が右近は幸せになれる。それだけは、約束してあげるわ。夢を追うことは、決して幸せに繋がることではないのだから……」

 そう言い残して早足で去っていく玖明の細い背中が遠ざかっていくのを見て。

 右近は己の無力さをかみしめるように、茫然とその場に立ち尽くしていた。

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