第3話 風の女


 今日も空は高い。蒼天を二分するブルーリングは白く輝き、その下を流れる人工雲は「広告募集」という四文字を形づくっている。だが今の時代、インクで塗りつぶしたような安い青空を見上げてくれる人間が、この街に何人いるのだろう。


 八年前、天候を制御するリングの導入にともない、地球上から四つの天災が「削除」された。雷、豪雨、大雪、暴風。

 古来より人々の活動を妨げ、時に多くの犠牲を生んできたそれらの災害は、もはや完全に過去のものとなった。しかし、その名前は忘れ去られることなく、国や人種、宗教に代わる次世代コミュニティ「イメージ」の象徴として再利用されている。


 力、成長、勝利、最先端などを象徴する「雷」のイメージ、サンディア。

 正義、博愛、倫理、公正などを象徴する「雨」のイメージ、レイント。

 美学、伝統、高貴、真理などを象徴する「雪」のイメージ、スノーク。

 自由、多様性、謎、自然などを象徴する「風」のイメージ、ウィンディ。


 それらしいサイトや本を開けば、各イメージにふさわしい言葉はごまんと出てくる。それらは耳障りのいいものばかりではなく、サンディアは野蛮、レイントは貧相、スノークは排他的、ウィンディは不安定、といったネガティブな印象とも一体だ。

 今日、十五歳の誕生日を迎えると同時に、人々は自分の中にある理念や価値観を見つめ、その先にある四つのイメージの中から最もふさわしいものを選び、所属する。ちょっとかた苦しいが、実際、そこまで襟を正す必要はない。数年前まで人々を縛りつけていた「国籍」とは違い、イメージは衣服のように、いつ、何度でも変えることができるからだ。好きなアーティストと同じイメージに所属する、というのはまだ真っ当な域で、中には今日のラッキーカラーに合わせて、毎日イメージを乗り換えるような猛者もいる。


「もうすぐ十五歳になるのですが、自分のイメージが決められません。どうすればいいですか?」


 某有名番組で視聴者から投げかけられた質問に対し、コメンテーターは以下のように答えたそうだ。


 チェーン店が好きなら、サンディアへ。

 学校や図書館が好きなら、レイントへ。

 高級レストランが好きなら、スノークへ。

 雑貨屋が好きなら、ウィンディへ。


      ※


『CAFE SOYOKAZE』


 楽器ショップと不動産屋に挟まれたその店の看板には、そう彫り込まれていた。二枚の扉のうち、片方の前には椅子が置かれ、その上には田園風景に立つ風車を描いた油絵が、額に入れて飾ってある。

 しかしトオルが何より気になったのは、ドアノブに引っかかっている「CLOSED」というプレートだった。


「あの、この店……」


 いいのよ、とトオルの忠告を軽く受け流し、エベレアは大胆にノブを回す。


「ただいま」


 その一言が答えだった。入店を知らせる鈴が鳴り、扉が床に半円の傷を描きながら開く。店内の丸椅子はすべてテーブルの上に片付けられており、磨かれたマグやグラスも水切りラックの中にひっくり返されていたが、こまめに滴る水滴が、つい先ほどまでカウンター内に人がいたことを示している。

 正方形の棚が並ぶ壁には、ボトルシップ、ブリキ缶、ダーツボード、本、地球儀などが陳列され、店の奥から「はいよ〜」という低い声が応じるまで、聞こえていたのは天井近くに掛けられた振り子時計と、その下に鎮座する超年代物のアーケードゲームの音だけだった。


 数秒後、貝殻を縦につないだカーテンをくぐり、男が現れる。彼は丸眼鏡の下に茶色い髭をたっぷりと蓄えていた。


「おかえり、エベレア。その子はどうしたんだい?」


 彼女の父親だろうか。

 シールの同時通訳機能が常にオンになっていることから、彼が話している言葉も日本語ではないとわかる。どことなく風貌も似ていたが、自分の娘がフルフェイス姿の人間を隣に連れているとなれば、その不安げな表情にもうなずける。


「さっき知り合ったの。トオル君、コーヒーでいい?」

「あ、はい……」


 呆けているうちに椅子が用意され、父親が操るサイフォンからは湯気が立ち始める。まもなくして目の前に出されたコーヒーには、自分のヘルメットが映り、本来の色より苦そうに見えた。

 隣ではエベレアが立ったまま、カウンターに肘をついてトオルの方を見つめている。


「特製のアメリカーノよ。うちの店で一番おいしいやつだから、ゆっくり味わってね」

「ありがとうございます」


 マグの取っ手を右手側に回し、持ち上げる。ところがヘルメットを押し上げて口を出し、一口目を飲もうとした時、エベレアがぼそりと呟く。


「……『人類最後の被雷者』」


 懐かしい響きに、トオルは手を止める。

 どうやら「ゆっくり味わって」というセリフは嘘だったようだ。


「久しぶりにそう呼ばれましたよ。でも、せめて飲み終わるまで待ってほしかった」

「ごめんなさい。何かを飲む時くらい、そのヘルメットは外してくれると思ってたから」

「そりゃあ、隠しますよ。焼けただれた他人の顔を見たい人なんていないでしょ」


 マグを置いたトオルの横で、エベレアは眉を吊る。


「……触れちゃいけなかったかしら。天気の話でもする?」

「今、してるじゃないですか」


 シールド越しに彼女と目が合う。変色した毛先を指に巻くのは、癖らしい。


「針見トオル君——聞き覚えがあると思ったわ。あなたの名前が世界中のトップニュースに載った時、私はまだ十八だった」

「二十五歳なんですか?」

「計算早いわね、ほっといてよ」


 空中をノックしたエベレアの手の甲から、空中に半透明のディスプレイが浮かび上がる。ブラウザを開き、バックナンバーから検索された当時のウェブニュースには、トオルの名前と、さっき彼女が呟いた通りの見出しが載っていた。


「昔は落雷事故も珍しくなかったと聞くけど、よりによってブルーリングの起動直前とは、不運としか言いようがないわ……お母さんのことは残念だったわね」

「地震や津波と一緒です。当時はそれも自然現象だったんですよ」

「そうね……そしてあなたは『人類最後』になった。少なくとも私たちの業界で、あなたの名前を知らない人はいないわ」

「へえ。まさかカフェ業界に顔が売れてるとは思いませんでした」


 直後、エベレアはぱちくりと目を瞬かせる。


「……ちょっと待って。もしかして君、まだ私のこと分かってない?」


 コーヒーに口を付けていなくて良かった、とトオルは心底思う。間違いなく噴き出していたところだ。


「当たり前じゃないですか。お父上の前でこんなこと言いたくないし、僕自身もよく言われるけど……あなた、なかなかヤバい人ですよ」


 サイフォンを洗っていた父親が大声で笑う。


「顔が売れてないのはお前の方だったな、エベレア。やっぱり引退にはまだ早いんじゃないか?」

「パパ、話に入ってこないで。引退なんて最初から考えてないわ」

「トオル君だったかな。君に言われなくても、私の愛する娘は十二分に『ヤバい』さ。こうして未来ある若者をうちに連れてきたのも、かれこれ三人……」

「パパ!」


 よもや、自分は食べられてしまうのだろうか——話の展開についていけず、父親の発言に戦慄するトオルのそばで、エベレアは露骨にうなだれていた。


「まったく、全然台本通りにいかないじゃない……もういいわ」


 吹っ切れたように身を起こし、彼女はトオルに向けて不器用な笑顔を作った。この女性、第一印象ほど悪い人ではないが、なかなか替えの利かないネジをお使いのようだ。


「針見トオル君」


 ずいと詰め寄り、彼女はトオルの両肩をつかんだ。


「私と、組んでほしいんだけど」

「はい?」


 サイフォンをラックに引っかけた父親が、手をふきんで拭きながら客席の方を向く。


「エベレア。お前はたいそう美人だが、いつも順番を間違えるのが玉に瑕だ。その子はきっと、まだお前の名前しか知らないだろうに。私が『つかみ』が大事だと言ったのはな、自分の要求を最初に言え、という意味じゃないんだぞ?」


 そろそろ逆上するかと思いきや、エベレアはごく自然に「えっ」と叫んだ。どうやら父親の方が、はるかにトオルの現状を理解してくれているようだ。


「そ、そう。それじゃ、改めて自己紹介するわね。私はエベレア=ゲッテーランス。現役のサンダーストラック選手よ」


 それを聞いた瞬間、トオルは湯気が落ち着いたコーヒーを一気に流し込み、「ごちそうさまでした」と言って席を立った。


「ちょっと。せめて話くらい……」

「すみませんけど、他をあたってください」

「何よ。やっぱり、トラウマ?」

「……いいえ。僕も現代人として、世界一市場規模が大きい競技の『名前』くらいは知ってますよ。でもルールは全く知らないし、観戦はおろか、ろくに試合中継すら見たことがない。何もお役に立てないとわかってるのに、これ以上ここにいても仕方ないでしょ」


 バスケ部員が、背の高い新入生に必死にアプローチする理由ならわかる。だが現役のプロ選手が、クラブ通いの帰宅部員に声をかける道理はないはずだ。


「パパ……」

「まあ、落ち着きなさい。何のためにこの店を貸し切りにしてあげたんだ?」


 クラブで賭けを吹っかけてきた時の威勢はどこへやら、狼狽するエベレアに対し、父親は振り子時計の方を指さした。それを見てはっとしたのか、彼女は小走りで壁の方へと向かい、時計の下に置いてあるアーケードゲームに触れた。高さ一・五メートルほどで、古めかしくも手入れされたグリーンの筐体には、ロリポップのようなレバーと二つのボタンがついている。


「待って」


 でたらめのようにレバーとボタンを操作してから、エベレアは鋭く言った。筐体の後ろの壁がぼこっと奥に倒れ、そこに別の空間が現れるという衝撃的なワンシーンがなければ、トオルはとっくに店の外に出ていただろう。天井や床を含め、全方位を「高精細」なディスプレイで覆われたその部屋は、中心を走る壁によってさらに二つの個室に隔てられている。


「STAND BY」

 左右のどちらの部屋も、正面の壁にはその言葉が表示されていた。


「嫌だと思ったら、すぐにやめてもらって構わないわ」

「えっ、なんですか、これ」

「……本当にクラブ以外行かないのね。あなたの言う『世界一市場規模が大きい競技』に、シミュレーションゲームの一つや二つ、ない訳がないでしょう? もっとも、普通は遊興施設にしかないものだけど」

「娘の要望でね。閉店後と定休日にしか使わないという約束で、私が一肌脱いだのさ。日曜大工というにはタフな工事だったが」


 胸を張る父親と、真剣なまなざしを向けてくるエベレアの間で、トオルはいよいよ次に取るべき行動を見失っていた。


「……エベレアさんが相当稼いでることは分かりました。で、そのゲームを一緒にやれということですか?」

「そうよ。この機会にルールくらい勉強しても、あなたに損はないでしょう?」


 確かに、いまや世界の一大関心事となっているメジャー競技について、現役選手から直接手ほどきを受けられるとなれば、人生の糧としては十分だろう。「私と組んでほしい」というフライング気味の要求さえなければ、トオルも二つ返事でOKしていたはずだ。


 どうして、この人はここまで自分にこだわるんだろう——ずっと喉の奥に引っかかっていたその問いを、トオルはとうとう飲み込んだ。もはや「誤飲」といってもいい。


「まあ、ただのゲームとしてなら……」

「よしきた! パパ、あれをちょうだい」


 待ってましたと言わんばかりに頷き、父親はカウンターの上にある小さな冷蔵庫から、二本のジュースを取り出した。青地に白の縦線が二本走っているデザインで、正面には「AUTOBAHN(アウトバーン)」と商品名が書かれている。トオルの世界史の知識が正しければ、それはかつて、欧州のどこかを走っていた高速道路と同じ名前だ。


「トオル君、甘いものは好き?」

「まあ、好きですよ」

「じゃあ——これを飲んで。集中力が高まるわ」


エベレアは父親からそれらを受け取ると、左右の手でプルタブを同時に開け、一本をトオルに渡した。


「大丈夫ですよ。コーヒーも飲みましたし」

「ふふっ……カフェ屋の娘がこんなこと言うのもあれだけど、全然足りないわ。今からやるのはあくまでゲームだけど、それでも並みのスポーツよりずっと脳を使うから。カフェインと糖分は生命線よ」


 おおげさな——と思いながら一口飲んだ瞬間、トオルは生まれて初めて、舌にも鳥肌が立つことを知った。水あめに人工甘味料を加えて煮詰めたような甘さが、わずかに残っていたコーヒーの苦みを押し流し、口の中をとんだ「楽園」に仕立て上げる。防衛反応なのか、どっとあふれ出した唾液に溺れそうになりながら缶をひっくり返すと、そこに表示されているカロリー量は、案の定、世の女子を卒倒させるような値を示していた。


「どう? エスプレッソなんか目じゃないくらい『飛べる』でしょ。私、それを週に十本は飲んでるからね」


 筋肉が浮き上がった腹をちらりと見せてから、エベレアは先にゲームルームに入っていった。最高の説得力を与えられた彼女の「へそ」と、最大の拒絶反応を示している自分の舌。


 両者の意見を聞き入れた末、トオルはプロ御用達のそれをもう一口だけ、飲んだ。

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