第2話 賭け
床の上をくるくると回転するペットボトル。けたたましいエレクトロが鳴り響く中、動きを止めたキャップが指す方向に立っていた男は、黒く光るヘルメットで頭をすっぽりと覆っている。
「ラストムーヴ、トオルゥ!」
MCの叫びに応じて、男は軽快なステップを踏みながら前に出る。適度に滑りやすい床、耳になじんだ定番曲、そして友人の声援と、お膳立てはすべて揃っている。床の上で足を開いて回転するウィンドミルや、相手を下品に威嚇するような動きも挟み、男は場が十分に盛り上がるのを待った。
三秒後、ここぞとばかりに頭頂部を床に着け、その場で駒のように回転する……はずだった。気合いを入れすぎたのか、勢いよく持ち上げた下半身は保つべき重心を越え、反対側にびたんと倒れる。オーディエンスの崩れるようなため息。その後、男は取り繕うように簡単な技をいくつかこなしてから、そそくさと元の位置に戻った。
曲が終わると、三人のプロによる判定が行われる。
結果は火を見るより明らかだというのに、ドラムロールによる演出はやたらと長い。審判たちが一斉に相手の方に手を挙げるまでの数秒間、男はヘルメットの下できつく唇を噛んでいた。
「おつかれー」「飲みいこうぜ」「次のバトル、いつだっけ」
気の抜けた言葉が三々五々。さっきまでの熱気は失せ、クラブ内に残る人影は瞬く間に三分の一ほどに減る。壁際のDJが落ち着いたビートを垂れ流す中、男はその近くで黙々と自主練に励んでいた。
「トオル、夕飯いこうぜ」
知り合いの一人に声をかけられ、男は即座に「パス」と答えた。彼が練習に集中したい雰囲気を察し、男は扉に向かうが、出ていく前に再び問いかける。
「先週、やっと十五になったんだろ。所属イメージは決まったのか?」
「サンディア。お前と一緒だよ」
またしても即答。
「……つまんねーの」
そう言い残し、部屋を出ていく彼のジャージには、極端に簡略化された稲妻のマークが描かれている。いまや世界中の住民票の四割に同じマークが刻まれていると思えば、そんな薄い反応になるのも当然だった。
さらに十分ほど、トオルは一人でヘッドスピンの練習に没頭した。先ほどのような醜態を晒すことはなくなったが、なぜか練習すればするほど下手になっていく気がする。その原因がフロアの隅に設けられた観客席にあると気づいたのは、さらにしばらく経ってからのことだった。逆さまになった視界に写り込んだその女性は、最前列ですらりと長い脚を組み、物思いにふけるようにトオルの方を眺めている。
「あの、すいません」
途切れることのない視線に耐えかね、トオルは彼女に近づいた。女性が頬杖から顎を浮かすと、黄金を溶かしたような長い髪が揺れ、胸元からは風車を模したペンダントが露わになる。
「なに?」
つっけんどんな返答に、若干ノイズがまじる。蒼い目と、右手甲に貼ったシールに標準搭載されている同時通訳機能がオンになったことから、トオルは彼女の出身地が自分とは違うことを知った。
「気が散るんで、あんまり見ないでもらえますか」
「ひどいこと言うのね。こっちは手伝ってあげてるのに」
「……なんですって?」
「人目には慣れておいた方がいいでしょ。さっきみたいに失敗しないためにも、ね」
この人苦手だ——心のさほど深くない場所で、咄嗟にトオルはそう思った。滑らかな髪のうち、なぜか縮れ上がっている先端部分を指で弄りながら、女性は冷ややかに笑う。
「私はずっとここにいたわ。それにヘッドスピンの練習なんて、こんな客席に近い場所でやる方が危ないでしょう?」
「他に場所がないんですよ。ダンスバトルは終わったけど、見ての通り、まだそれなりに人はいるし……」
「ふーん。まあ、どいてあげてもいいけど」
脚を組み替え、身を乗り出すと、胸元に乗った銀のペンダントが揺れる。
「私は高慢な人間なの。人に何かを指示されるのは嫌い。だから、賭けにしましょう」
「賭け?」
「そう。君が大の苦手なヘッドスピンを『二回転』成功させたら、この場は大人しく立ち去ってあげる。ご祝儀がてら、何か飲み物を買ってあげてもいいわ」
「はぁ。こっちが負けたら?」
「考えてない。とりあえず、私とお付き合い願いましょうか」
「変な意味じゃないですよね?」
「ご想像に」
そんな曖昧な賭け事があってたまるかと思いながらも、トオルは反論しなかった。自分を動揺させようとする彼女の言動が、あまりにもお粗末だったからだ。
さらにその視線を意識してから失敗続きとはいえ、この場で練習を始めてから、ヘッドスピン自体の成功率は決して悪くない。どうせならギャフンと言わせてやる——そんな気持ちを燃やしながら、トオルは回転した際に足が当たらないよう、フロア側への移動を女性に促した。
「いいよ、気にしないで」
どうせ成功しないから、とでも言いたげだ。さらに技に集中しようとしたトオルに対し、彼女は容赦なく質問を投げかけてくる。
「ねえ、さっきのバトル中も思ってたけど、そのヘルメット、別にフルフェイスじゃなくてもよくない?」
トオルは無言を貫いた。導入となるステップに全神経を傾け、勢いをもたせて頭を床に着けた瞬間、その下半身は絶妙なバランスで宙に舞う。これまでに感じたことのない安定感に、トオルは勝利を確信した。どうだ、と声高に叫びたい衝動をこらえながら、腰を一気にひねろうとした。その時だった。
ブツッ。
鼓膜を刺すようなノイズが走り、フロアを満たしていた曲が途切れる。若い男女の顔を赤や青に照らしていたライトも消え、辺りは一転、暗闇と困惑の声に包まれた。音と光という、クラブを支配する二つの要素を誰もが同時に失う中、トオルは一人、それらよりずっと大事なものを失った。
……バランスだ。気づけば「あの時」よりも無様に、トオルは仰向けで大の字になっていた。数秒後には復活した照明を遮る形で、女性がこちらを覗き込む。
「あなたも運がないね。でも、勝負は勝負だよ」
そう言って、彼女は満足そうに手を差し伸べてくる。ヘッドスピンという難易度の高い技に対し、トオル自身がもう少し愛着や執念を持ってさえいれば、ここで泣きの一回を申し込むこともあっただろう。
しかし導き出された答えは「なんかもう、めんどくさい」だった。停電への怒りも、自らへの無力感もなく、トオルは彼女の手を取る。意外だったのは引き起こされる瞬間、悪あがきとして全身の力を抜いたにも関わらず、彼女の腕力がモデル顔負けのボディラインからは考えられないほど強かったことだ。
「あなたの名前、トオルで合ってる?」
「えっ、何で知ってるんですか」
「バトルでMCが叫んでたからね。そんなヘルメットだから顔も見えないし、むしろ勝った人より印象的だったのよ」
あまり、嬉しくない。
「あなたは?」
「エベレアって呼んで」
「エベレア……さん。俺、まだ十五歳なんですよ。正直金も持ってないから、カツアゲなら他をあたった方が」
「失敬ね。先に声をかけてきたのはそっちでしょ?」
「こんな勝負を吹っかけられるとは思わなかったもんで」
「いいわ、とにかく約束は守ってもらうから。とりあえず外に出ましょう」
ずっと握られたままの手を引かれ、トオルは連行される。こんな状況を知り合いに見られなくてよかったと安堵するトオルに対し、エベレアは軽く微笑んだ。
「そんなに構えることないわ。古今東西、クラブは新たな出会いの場と決まってるのよ」
重い防音扉が片手で押し開かれる。彼女の笑みに不吉さは感じなかったが、今後の展開によっては、脱兎のごとく逃げた方が得策かもしれない。タイミングとしては外に出た直後だろうか——と、そんなことを考えながら地下廊を進んでいると、突然、背後で大きな音がした。
「おい、待て!」
トオルもエベレアも怒号の方を振り返る。防音扉を乱暴に開けて立っていたのは、スキンヘッドのDJだった。バトル中から落ち着いた様子でターンテーブルを操っていた彼が、今は鬼気迫る表情でこちらを睨んでいる。
「え? 私?」
「てめえ、なめてんのか」
足早に近づいてくる姿に迫力を感じないのは、隣にいるエベレアの身長のせいだろうか。それでもDJはトオルを押しのけ、彼女をコンクリ壁へと押しつけた。
「話が見えないわ。いったい何の用かしら」
「これがナンパに見えるか? DJブースから客席側に伸びてた電源コード、お前が引っこ抜くのを見たって奴がいるんだ。何の目的か知らないが、さっきの停電はお前の仕業だろう?」
えっ、とトオルは素っ頓狂な声をあげる。さらに驚いたのは、待てど暮らせどエベレアの口から否定の声が聞こえてこないことだ。ミスを誘われた怒りより、そこまでして勝たなければならない賭けだったのかと、トオルは彼女に恐怖を覚えた。旧友に送る手紙の文面でも考えるように、しばらく虚空を見つめた後、エベレアは不敵に微笑んだ。
「ねえ、いくらで許してもらえる?」
「金なんかいらね。見ない顔だから知らないのも無理はないが、俺はこのクラブの経営者でもあるんでね。その辺の一般人よりは『若干』懐もぬくいわけよ」
彼女のなまめかしい笑みに篭絡されることもなく、DJの男は黄色い歯を見せる。
「それに、現金なんてものがあった時代ならいざ知らず、俺が口座番号を教えて、あんたがそれをシールに入力して送金する……こんなの謝罪として味気ないだろ? どうせ貰うなら、『形』も『価値』もあるものがいい」
ぱきぱきと指をならし、彼はエベレアの胸元に視線を落とした。トオルが「まさか」と思う間もなく、触手のような腕が伸び、お目当てのそれをむんずと掴んだ。エベレアの表情が初めて歪む。
「ちょっと……」
ぶちっ、という音。風車のペンダントはエベレアの胸を離れ、そのまま男のポケットへと収められた。
「おい!」
反射的に喉が動いた。大きな音には慣れているのか、DJはのけ反ることもなくトオルを睨む。初めて目が合った瞬間だった。
「なんだよ、お前」
「さすがに、それはだめだろ」
トオルは手首をつかみ、DJをその場に引きとどめる。彼の行為が想像より「下劣」なものでなければ、その機を活かし、立ち去っていたのはトオルの方だったかもしれない。
「ヘルメット君は引っ込んでな。俺はこの女から迷惑料を徴収しただけだ」
「気持ちは分かりますよ。俺のぶんも回収してほしいくらいだ」
それは間違いなく本音だった。
「ただ……いい年こいた大人に言うことじゃないけど、他人の『印』は取っちゃだめだろ。俺がそのリストバンドを奪ったら、あんただって俺をボコボコにするでしょ」
全身をモノトーン・コーデで貫いているだけに、パーカーの袖から覗くブルーのそれは、かなり目立っていた。むしろそれに人目を集めるためのコーデだといっても過言ではない。
彼は舌打ちし、ポケットに入れた手を再登場させる。その動きをペンダントを返すそぶりと受け取り、一瞬、掴んでいた手を離したのがトオルの間違いだった。隙をついたDJは地を蹴り、あっという間に防音扉のところまで走っていく。
無理に追う必要はない——どうせダンスルーム内は袋のねずみだ。少し冷静になれば気がつくことだったが、エベレアの顔がもはや別人のように青ざめているを見て、トオルはほぼ無意識にヘルメットを脱ぎ払っていた。DJの背中めがけてオーバースローで投げつけたそれは、高めに浮いて彼の後頭部を直撃する。
「あっ」
ゼロワンゲームの終盤、ブルを射抜いてバーストしてしまった時のような声が出る。
DJは防音扉に手をかけたまま、ずるずると気を失い、冷たいコンクリートの床に頬をつけた。その横で回転しているヘルメットを拾ってから、トオルは彼が握りしめていたペンダントを回収し、エベレアの前にそれを突き出す。しかし——
「ひっ」
待っていたのは感謝の言葉ではなく、短い悲鳴だった。口に手を当てたまま後ずさりしたエベレアの視線は、自身のペンダントではなく、トオルの顔面に注がれている。その不気味さが一層増して見えるよう、トオルはとびきりの笑顔を浮かべた。
「ほら。要らないなら俺がもらっちゃいますよ?」
煽るように揺らしてようやく、エベレアはおそるおそるペンダントを受け取った。この場を立ち去る絶好の機会に、トオルは内心、狂喜しながら彼女の横を通りすぎた。練習場所はまた探そう——そう胸に決め、ヘルメットで再び顔を隠す。
「ちょっと待って」
そうはさせまいとばかりに呼び止められ、トオルは絶望感に打ちひしがれながら足を止める。振り返ると、エベレアはじっと自分を見つめていた。
「まだ、払ってないでしょ」
途方もない執念を感じさせる台詞に、トオルは膝から崩れ落ちそうになった。
「勘弁してくださいよ。だいたい、そっちは不正をしてた訳だし……」
「……貴方が払うんじゃないわ」
ばつが悪そうにこめかみを掻くエベレア。
「迷惑料、ほしいって言ったわよね?」
彼女はそう言い放ち、ぽかんとしているトオルの腕を取る。連行される構図に変わりはないが、その手に込められた力はだいぶ優しくなっていた。
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