Thunderstruck!!

赤羅木公国

第1話 爆笑



 画用紙を破った。右半分はなくなってしまったが、もう半分を黒い空にかざす。ギザギザとした破れ目に沿って、青くまばゆい光が瞬時に駆け下りていく。


 それだけの美しい記憶だった。周囲の喧騒はほとんど覚えていない。耳をつんざく悲鳴も、黒焦げになった芝生も、遠くに倒れている同い年の子どもの姿さえ、後でニュースや動画サイトから得たイメージにすぎない。


 事故から八年。あの日、人類が地球に与えた土星のような「リング」は、今も機能しつづけている。当たり前だ。でなければ人類最後の落雷事故として、あの出来事が今日まで語り継がれる理由はない。


 ふと思う。あれは人類に首輪をつけられることを嫌がった地球による、最後の抵抗だったんじゃないか。地上で暮らす人々に対し、ひどく従順な青さを示すようになった空を見上げ、私はグラスの水を飲み干した。


      ※


 その日、人々は草原に集まっていた。しとしとと雨が降り続いているというのに、傘を開いている人間は数えるほどしかいない。濡れた芝生に直接、腰を下ろしている者さえいる。


「ブルーリング起動まで、あと五分です!」


 「報道」と書かれた腕章を付けた男性が叫ぶ。同じ腕章を付けた人たちがにわかに慌ただしくなる中、それ以外の観客は皆、ゆったりと虹を描くように手を動かし始める。彼らの目の前に青いディスプレイとして浮かび上がったのは、同じ「天気予報」のアプリだ。


 もちろん、現在地の天気は雨。ところが画面を何度スワイプしても、今日の午後、ひいては明日以降の天気が表示されない。まるで、五分後の世界など存在しないかのように。


「おーすげえ。ヒカル、スクショ撮ったか?」

「撮ってないよ。それより、早くお母さんのところに戻ろう? また怒られちゃうよ」


 モニターを操作しながら、人混みをするすると掻き分けていく二人に、大勢がその小さな姿を二度見する。同一人物、瓜二つ、コピー&ペースト……顔も背丈も似かよった彼らには、そんな言葉がぴったりだ。


「あんな後ろにいるより、高い場所から見る方がいいだろ。だいたい俺らの居場所くらい、『これ』で丸分かりだよ」


 先を歩く少年は右手をふり、手の甲に貼った小型シールを見せつける。この草原、いや、この世界でそれを貼っていない人間を探す方が、現代では難しい。


「……もういい。全部トオルのせいにする」


 待ってましたとばかりに、兄はますます足を速める。丘の上にはさらに多くの人が集まっていたが、二人は小さな体を活かし、難なく最高のビューポイントへたどり着いた。


「よし、かんぺきだ」


 ばりっ。

隣から耳障りな音が聞こえてくる。二人そろって視線をそちらに向けると、テントのように巨大なビニール傘と、その下で一人、ぽつんと正座をしている女の子の姿があった。足元にシートを敷き、うつむいたまま溜息をつく傍らには、二つに引き裂かれた画用紙が無造作に放られている。

変わった子がいる______そう結論づける直前、ふと、トオルの脳裏に光るものがあった。


「矢道、さん?」


名前を呼ばれた後、視線を一度よそにやってから顔を合わせるその仕草に、その疑いは確信に変わる。


「やっぱりそうだ。俺、同じB組のトオルだよ。針見トオル」

「……あっ」


 実際、その声が出てくるまでの時間が、トオルとの関係性を物語っていると言っても過言ではない。お互い、学校で何度か話したことがあるという程度。それでもトオルが彼女のことを覚えていたのは、さっきの仕草と、どこか同学年とは思えない雰囲気が印象的だったからだ。年相応なのはショートの黒髪くらいで、Gジャンを羽織り、さらに風車を象ったピアスを耳元にぶら下げた姿は、そろってTシャツに短パンという出で立ちの兄弟を少し不安にさせる。


「針見くん、双子だったんだね。二人いると思ってびっくりしちゃった」


 顔を交互に見られ、トオルは恥ずかしそうに唇の上をこする。


「A組だから知らなくても無理ないよ。名前はヒカルっていうんだ。ヒカル、この子は同じクラスの矢道……矢道……」

「アユムだよ。よろしくね」


 素早く助け舟を出し、彼女はヒカルに視線を移す。トオルの背に半身を隠しながら伏し目がちに会釈するのを見て、少なくとも彼と「まったく」同じ人間ではないと察したようだ。


「それで、矢道さんはどうしてここに……って、目的は一緒か」

「うん、見に来ちゃった。もう身近で雨を見られないと思うとね」


 雲はより黒く、雨足もさらに強まる中、アユムはじっと空を見る。傘からはみ出した画用紙は雨粒にさらされ、黒いインクが激しくにじんでいる。


「……絵、描いてたの?」


 トオルは彼女の隣にしゃがみ、半分になった画用紙の右半分を拾いあげる。しかしその手はびしょ濡れで、前髪からも水滴が滴っていたため、反対の腕で雨よけをつくる。


「そう。あまりに下手だから破っちゃった」

「下手? これが?」


 トオルはあんぐりと口を開ける。おそらく水性のボールペン一本で描かれているにも関わらず、その緻密でなめらかな線の集合は、彼女の位置から見える風景を正確に写し出していた。


「雲とかめっちゃリアルだし……矢道さんが休み時間に一人で何か描いてるのは見たことあるけど、こんなに上手いとは思わなかったよ。というか、どこがダメなの?」

「んー、じゃあ『思ったように描けなかった』ってことで」


 実際の光景と見比べながら感嘆するトオルに、アユムは説明を諦めたように答える。


 その時、どこからともなく「じゅう!」と叫ぶ声が草原に響き渡った。次の「きゅう!」には四、五人が続き、その先のカウントダウンにはさらに多くの声が共鳴する。


「ぜろ!」


 トオルも、ヒカルも、そしてアユムも声を上げる。人々のディスプレイに表示された時計が十二時を示した途端、空に変化が現れた。


「おい、ここ晴れてるぞ!」


 期待通りの一報に、誰もがそちらを振り返る。オレンジ色の光が雲間を貫き、一本の筋となって芝生の一部を照らしている。そんな天然のスポットライトに心震えたのか、ちょうどそこに立っていた女性は、両手を合わせて友人と飛び跳ねていた。

 その様子を遠目に見ながら、トオルは少し口をとがらせる。


「ああいうの『天使のはしご』って言うんだってさ。綺麗だけど、もっとバーッと雲が消えるもんだと思ってた」

「そんな、魔法じゃないんだから」ヒカルが冷静に答える。「でも、『はしご』ならあそこにもできてるよ」


 彼は少し先にある丘を指した。周りに誰もいない斜面のてっぺんを太陽が照らし、水滴のついた芝生を煌めかせている。

それを見て、トオルの目も負けじと輝く。


「よーし、ちょっと行ってみようぜ。矢道さんはどうする?」

「私はいいかな」

「わかった。それじゃ、また学校で!」


 手を振り、さっさと目的地の方へ走っていくトオルに置いていかれまいと、ヒカルもさっと一礼し、その場を後にする。あっ、と何かを言い残したようなアユムの声は、好奇心に支配された彼らの耳には届かなかった。


「……持ってかれちゃった」


 濡れた斜面も軽快に踏みこえ、二人は太陽の下へおどり出る。報道陣すら見下ろせる位置にたどり着いたことで、トオルはかなり満足げだった。


「ここが一番高いじゃん! テンションあがる~」

「……でも、やっぱり不思議だよ。こんな当たり前の雨が、今後は山奥のダムとか、川の上流にでも行かないと見られないなんて」

「すぐに慣れるさ。傘メーカーは商売あがったりだろうけど」


 そんなやり取りの間にも、空模様は変わっていく。すでに遠くは晴れ、幕が上がったように「ブルーリング」も姿を現す。蒼天を横切り、その名前とは裏腹に白く輝くリングの反対側は、南半球に行かないかぎり見ることはできない。もっともリングの建造開始から二十年以上も経っており、たかだか八年前に産まれたトオル達にとって、それは何も特別な光景ではない。


「トオル! ヒカル!」


 そのとき、誰かが大声で名前を呼ぶ。丘の下をふり返ると、神秘的な光の柱には目もくれず、こちらを見上げている女性がいた。


「あ、母さんだ」


 悪びれる様子もなく、トオルは飄々と母に手をふった。


「もう、離れないでって言ったでしょ! 居場所がわかっても、そんなにスイスイ走り回られたら追いつけないわよ!」

「トオルが行こうって言った~」

「おい、やめろ」


 息を荒らげていた母はすこし微笑み、膝に手をついた。何はともあれ、我が子を視界に捉えたことに安堵したようだ。


「お母さんここにいるから! 満足したら早くおりてきてよ」


 母の要求に、はーい、と元気よく返事をするトオル。

 しかし次の瞬間、一度ほぐれたはずの母の表情が、一転して鬼の形相へと変化する。


「……二人とも、そこをいますぐ離れなさい!」

「え、母さん?」

「なあ、ヒカル、なあ」


 母の変貌ぶりに驚くヒカルの肩をたたきながら、トオルは必死に腹を押さえていた。その視線は彼の、鶏冠のように逆立った髪へと注がれている。


「何、その髪。めっちゃおもしろい」

「なんだよ、トオルもだろ!」


 ヒカルも言い返すが、同じくサボテンと化した兄の頭を見て、その声はひどく引きつっていた。双子のまったく同じ笑い声が、まだ空に残る黒雲の下で響く。


「やめて!」


 見えない誰かに懇願するような母の叫び。追いつけないと言ったわりに、滑る芝生を踏みしめ、二人のいる丘に駆けつけた彼女のスピードは、息子達をはるかに上回っていた。


 ばりっ。

 画用紙が裂ける音とは似ても似つかない、もっと重厚な何かにひびが入る音だ。

 青空に囲まれ、居場所を失って逃げてきたかのように、その光はトオルの頭上へとほとばしる。


「あぶない!」


 母が両手を広げ、二人を丘の向こうへ突き飛ばした直後、大砲を撃ったような音が草原一帯にとどろく。視界が白い閃光に包まれ、顔の右側に激しい熱を感じながら、トオルは地面に倒れ込んだ。


 遠くで、誰かが叫んでいる。ただでさえ雨に濡れた服が、水を吸ってさらに重く感じる中、鮮やかな緑色だったはずの芝生は焦げ上がり、ツンとした異臭を放っている。

 いったい何が——そう考えるまでもなく、母とヒカルが横たわる視界に、その答えはひらひらと舞い降りた。中に描かれている空ごと、ジグザグに引き裂かれた画用紙。


「あぁ……」


 少しだけ納得して、トオルは意識を失った。


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