青い鳥はいつ青くなったのか?:永井均「子どものための哲学対話」感想

【青い鳥はいつ青くなったのか?】


青い鳥はいつ青くなったのか?という問いに対して文中提示された答えはこうだ。


『「あとから青く変わった」でもなければ、「もともと青かった」でもなくて、「〈もともと青かった〉ってことにあとから変わった」』


それって例えて言うと、こういうことなのだろうか。

悩みを抱えて苦しんでいるAさんに、Bさんが「青い鳥」の話をする。

AさんはBさんの話から気づきを得る。

そして、自分の悩みを解決する糸口は身近にあり、それだけでなく実は悩みはすでに解決して幸福な状態にいたが、気づかなかっただけだったのだとAさんは思い至る。


Aさんが不幸だと思い込んでいたために感じなかった幸福も、あとから気づいたとして、ほんとうに幸福だと呼べるのだろうか?

幸不幸は、ある時点での自分を客観的に見つめ直すことで(言い換えれば個人の価値観や視点が変わることによって)、感じ方や評価が変化するような客観的な事象という側面も持つのだろうか。


感情論だが、いまここで、本人が幸福を実感していなければ、ほんとうに幸福であるとは言えないのではないか?と思ってしまう。



【人生体験マシン】


ペネトレの『人生体験マシンで幸福な人生を体験している人は、ほんとうに幸福なんだね?』という問いかけに、ぼくは難色を示す。


さて話は変わって、文学作品で人生体験マシンというと、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア「接続された女」が有名だ。

また、現実と異世界どちらを優先させるかというテーマを考えたとき、一歩踏み込んで重いテーマを扱ったステファン・ドナルドソン「信ぜざる者コブナント」シリーズが思い浮かんだ。

主人公が現実と夢の世界どちらを選ぶのか?という問いに対して、両作品の主人公が選び取る結末は両極端に分かれる。


一方、哲学的な考え方を提示するペネトレは、夢の世界の人生ドラマとは「(現実とは)別の主人公が生きる別の人生が展開するだけ」と言い、現実のぼくと人生体験マシンに接続されたぼくが同一人物であることを否定する。


この考え方を「接続された女」に当てはめると、主人公の現実と夢での同一性が徐々に曖昧になっていく様に読み取れる。

「信ぜざる者コブナント」の主人公は異世界を頑として受け入れないことで、現実と同一人物であることを証明しているように読める。(しかし哲学的に言うと、異世界を否定する別の主人公の別の人生が展開していると言うんだろう)



【「気づいたときに〈もともと幸福だった〉ことになった」】


翻って、最初の例えの別パターンを考えてみる。

Bさんの話を聞く以前に、Aさんは自分が幸福であることに、無意識に薄々感づいていたということはないだろうか?

現実には、幸不幸グレーな状態だったというのはあり得ると思う。


さらに全く別の話だが、Bさんが青い鳥の話をしなければ、Aさんは不幸なまま一生を終えるのだろうか?

実感はしていなくても気づきさえあれば幸福を感じられる状態であったのなら、気づきは無くとも時間が解決してくれそうな気がする。その時、鳥は何色なんだろう?

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青い鳥(の随筆)を探す日記 江藤すいか @setokato

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