第9話 接近③
ヴィクターの微笑みを初めて真正面から受けたユーフェミアは、その輝きに目が潰れそうになっていた。
しかも表情どころか声質まで柔らかくなっており、鼓膜を通して脳まで蕩けそうだ。
ドクンと飛び跳ねた心臓は痛いほど強く鼓動し始め、激しく巡る血流のせいで体温があがる。
(くっ、やっぱり顔が良い! でも正体は見破られてはいないみたいね。落ち着いて返せば大丈夫なはず)
動揺していることが知られぬよう、きょとんと首を傾けた。
「先輩はいつも難しい本を読んでいるご様子。俺がおすすめできる本が果たしてあるか」
「いや、普段読まない本が読みたいんだ。いつもユーリ君は小説を読んでいるから、少なくとも僕より小説に詳しいはず。そんな君のおすすめを知りたい」
ヴィクターのヘーゼルの瞳には熱が込められていた。
「そ、そうですね……」
教えないと引き下がってくれない圧を感じたユーリは手元の本を確認する。
さっさと教えて話を区切りたいところだが、今日に限って選んだ本はあらすじを確認していない小説だ。
冒頭を読んだ感じでは、仲の悪い貴族の青年同士が距離を縮め、絆を深めるような流れを感じた。
(男の熱き友情物語ってところかしらね。文体は軽いけれど、テンポがいいからサラリと読めるわ。大衆娯楽系の小説の入門には良いかも)
ユーフェミアは本をパタンと閉じてヴィクターに差し出した。
「これなんかどうでしょうか? 憧れの青春が詰まってる物語です」
「君は読まないのか?」
「宿題を忘れていたので、その関連本を探すことにします。図書館にある限り、いつでも借りられますしね」
「そうか。ユーリ君、教えてくれてありがとう」
「どういたしまして」
ヴィクターが受け取り、ユーフェミアの手から本がなくなると、彼女は席を立ち本を探すふりを始めた。そして棚の影に入ると、胸を押さえた。
(わー良かった! バレてない! 私って変装も演技も才能があるのかもしれないわ。けれどやっぱりヴィクター様ったら酷くない!?)
ほっと一息つく間もなく、ぷんすかと口を尖らせた。
(私には何年も笑顔を見せてこなかったのに、ユーリには初めての会話から笑顔ってなんなのよ。ってあれ? どうしてヴィクター様はユーリの名を……)
不思議に思うが、名乗っていなかったレクトルも知っていたくらいだ。偶然耳に入ったのだろうし、もう話しかけることもないだろうと深く考えることをやめた。
けれどもユーフェミアの予想に反して、翌日もヴィクターはまた声をかけてきた。
しかもいつもはヴィクターが先に図書館に来ておりユーフェミアが距離を保って席につくのだが、今日は遅れてきた彼があえて彼女の真正面に座ったのだ。
「昨日の読んでみた……君はこういうのが好きなのだろうか」
彼の手元には昨日譲った本があった。
ヴィクターの婚約者に選ばれてからは「淑女であれ」と求められ、熱い友情とは無縁になってしまった。手に入らないものに憧れたユーフェミアは頷いた。
「そうですね。そのような境遇になるのは難しい立場だからこそ、俺も一度は経験したいという思いはあります」
「経験……」
ヴィクターの呟きとともに、わずかに図書館の空気がざわついた。
テキトーに本を薦めてしまい、貴重な時間を潰させてしまった罪悪感を感じたユーフェミアは空気の変化に気づかず、少し肩を落した。
「ヴィクター様には合いませんでしたか? すみません」
「いや……少々内容に驚きはしたが、受け入れようと思う。そ、その……相手は僕でも有りだろうか?」
ざわついていた周囲が静まり返る。
(急にどうしたのかしら? 何でもなさそうだけれど……)
首を傾げながら彼女は周囲からヴィクターへと視線を戻した。
彼は口を一文字に結び、眉間に皺を寄せていた。そして耳の先だけが赤いことに気付いた。
(ヴィクター様こそ熱い友情に無縁のクールなタイプよね。こうやって友情を自分から求めてみたものの、恥ずかしくなったのかしら?)
単なる見本のような笑顔ではない、不器用な照れ隠し。
ユーフェミアは初めて彼の感情に触れたような感覚に心が浮き立った。けれども心の中で頭を横に振る。
(喜んでどうするの。これを機会に友人になれば、ヴィクター様のことをもっと知れるかもしれないわ。浮気にしろ、手紙が急に甘くなった理由や女性向けの本を読んだ経緯とか……大胆に攻めるべし)
たっぷりの間を置いて、静寂の空間を邪魔しないように口元に手を添えて囁くように告げる。
「じゃあ友達から」
すぐに親友にはなれない。そのつもりで言ったその瞬間、周囲から小さな女性たちの悲鳴と、いくつもの本が落ちる音が静かな空間に響いた。
(な、なに!? ビックリした)
ユーフェミアは驚き周りを見るが、みんな慌てるように姿を消した。
「えっと、先輩、それで良いですか?」
「ありがとう。では僕のことはヴィクターと名前で呼んで欲しいのだが」
「ヴィクター様、それともヴィクター先輩ですか?」
「……欲を言えば呼び捨てで」
「――!?」
距離の詰め方に驚くものの、殿方の友人同士は呼び捨てが多い気がする。
「分かりました、ヴィクター」
「ありがとう、ユーリ」
「あ、はい」
納得して呼んでみるが、実際に口にするととんでもなく恥ずかしい。そして偽名でも呼ばれるのはもっと恥ずかしい。
しかもヴィクターは整った
(90点! あぁ、顔に熱が集まってしまいますわ。今は男のユーリなのに、女々しい反応をしてはいけないわ)
ユーフェミアは男らしさを意識して、人差し指で赤くなった頬をかいた。
「くっ、可愛い」
「え?」
「何でもない。ユーリ、この本をもう少し読み込みたい。まだ僕が借りていてもいいだろうか?」
「それはもちろん。図書館の本ですし、貸出期間内なら自由ですから、どうぞ」
「ありがとう。頑張ってみるよ」
ヴィクターは決意したような神妙な顔つきで席を立つと、「また明日」と言って、珍しく夕食の時間の前に図書館を去ってしまった。
「そんなに面白かったのかな?」
本が返却されたらすぐにも読もうと決めた。
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