第6話 恋慕※ヒーロー視点

 

 ヴィクターは急かすように足を動かして誰もいない最奥へとたどり着くと、書架を背もたれにして天を仰いだ。



(駄目だ……恋しすぎて、ついに男子生徒までユーフェミアに見える幻覚が。幻覚だけじゃない。声も似ているように聞こえたし、なんだか香りも……あぁ、ユーフェミア。会いたい、顔が見たい、声が聞きたい、手を握りたい、あわよくば抱きしめたい)



 ヴィクター・ロックウェル、公爵家長男、まもなく二十歳。彼は自他ともに認める婚約者に夢中な男だった。

 知らぬはユーフェミアのみ。

 それが最大の問題であり、彼の留学理由でもある。



 実はこの婚約、ヴィクターの強い希望で叶ったものだ。

 十歳を過ぎた頃から彼は、現宰相である父親の国内視察に同行していた。各領地では領主である貴族の屋敷に泊まることが慣例。


 同じ年頃の子供がいれば、未来の宰相と顔を繋いで親睦を深めたいのが貴族の親というもの。彼らはこぞって子どもを紹介したが、ほとんどの子が無表情のヴィクターを前に怯えるか、整った容姿に圧力を感じて萎縮してしまった。


 未来の宰相教育の一環として、感情を表に出さないように育てられたせいだ。

 会話を試みる勇敢な子もいたが、神童と呼ばれるヴィクターの話は大人顔負けの内容で、普通の子では相手をするにはハードルが高かった。



 そんな中ベネット家の領地で出会ったユーフェミアだけは違った。彼がどれだけ無表情で、難しい話を振ってもずっと彼女だけは嬉しそうに彼を見ていた。



「親に言われて無理してない? 僕といてもつまらないのなら、遊びに行っていいよ」



 そう言うと、たいていの子は「ようやく解放された」と言わんばかりに去っていった。

 けれどユーフェミアは晴れやかな笑顔でこう返したのだ。



「あなたとても綺麗で、格好いいわ。何言っているか難しくて分からないけれど、声も素敵よ。そばで見ていられるだけで私は幸せなの。一緒にいていい?」



 曇り無きまなこで、媚を売るにしても恥ずかしすぎる言葉を清々しいほどまでに、堂々と言い放った。

 言い終わったあとになって恥ずかしがり、頬を薄紅色に染める彼女がとんでもなく可愛らしくて――ヴィクターは一瞬にして恋に落ちた。

 幸運にも政略結婚の相手として既にユーフェミアは候補に入っていたこともあり、婚約はすぐに成立した。



 それからヴィクターはユーフェミアに尽くしてきたつもりだった。

 子爵家だからと侮られないよう最高の家庭教師を派遣し、淑女教育が受けられる環境を用意した。贈り物は常に流行の先端をいく高品質なものを贈った。

 可愛らしい彼女を不埒な目で見る令息や、妬みで敵意を見せる令嬢には睨みを常に効かせ守ってきた。

 大人になるにつれて増していく己の欲情を理性で抑え込み、極力ユーフェミアに触れないよう徹底した。



「君にはずっと笑顔でいてほしいと思っている」



 そんな言葉を贈り、愛しい彼女の微笑みが絶えることのないよう、綿花で宝石を包み込むように大切に扱ってきた。

 願い通りユーフェミアはいつもヴィクターに微笑みを向けていたこともあって、相思相愛だと信じて疑わなかった。



「互いに愛のない政略結婚ではございますが、婚約者の義務を果たしてくれるヴィクター様のために、私もきちんと努めを果たしたいと思っておりますわ」



 という彼女のその言葉を聞くまでは。

 ヴィクターの母親とユーフェミアが屋敷で茶会をしていると聞き、彼女の顔を一目見るために父親の手伝いから抜けてきたときに耳にしてしまったのだ。



「互いに愛がないなんて……わたくしにはそうは見えなくてよ? 息子も大切にしてるように見えるし、あなたもいつもにこやかにしているじゃないの」



 ヴィクターの本心を知る母親は焦るように確認するが――



「実はヴィクター様は婚約してからの六年、一度も私の前で微笑まれたことが無いのです。微笑みどころかいつもつまらなそうに無表情で……愛されているとは到底思えません」



 ユーフェミアは憂いを帯びた微笑みを浮かべ、言葉を重ねた。



「特別親しくしていただいている夫人ですから打ち明けますが、私の微笑みもヴィクター様がお求めになったからなのです。きっと政略結婚とはいえ冷めた関係だと思われては都合が悪いからと、命じられたのですわ。でも私はヴィクター様のお顔が好きなので、いくらでも心から微笑めますのでご安心ください」



 母親である公爵夫人と、影で聞いていたヴィクターは言葉を失った。

 その夜、ロックウェル公爵家の家族会議が開催された。



「ヴィクター、笑いなさい!」

「もっと頬の筋肉を柔らかくして、口角を上げるのですよ」

「兄上、ユーフェミア義姉様の事を思い浮かべて! 素直な気持ちを顔に!」



 公爵夫妻と年の離れた弟に励まされながら鏡の前で一時間、ついぞヴィクターの表情は動かなかった。



「嘘だろ?」



 そうやって心の底から絶句したのに、鏡に映る己の顔は驚きの感情すら浮かぶことなく無を保っていた。

 表情筋は退化し、完全に死んでいた。



「あれだけユーフェミアの前では幸せな気持ちでいっぱいで、顔にも出ていたと思っていたのに……言葉に出さなくても愛しさが伝わっていたと思ってきたのに……」



 ヴィクターは膝をついてその場に崩れた。



「これは感情を一切悟られるなと厳しい宰相教育をした父親である私の失態だ。二人きりでも無表情なんて知らなかった。まさかこんな弊害がでてるなんて長年気付けず、すまない」

「いえ、父上は宰相としてきちんと責任を果たしただけです。僕がきちんと言葉にしてユーフェミアに愛を伝え直します。そうすれば――」

「おやめなさい。無表情で感情の伝わらない顔で云われたら、それこそ義務で、世間体で言っていると思われかねないわ」

「母上、どうしたら。僕はユーフェミアの心からの笑顔が見たいし、愛されたい」



 そして父親から提案されたのは、ノワール共和国への留学だった。

 感情表現豊かな国民性で、愛の国と呼ばれるほど政略結婚よりも恋愛結婚が当たり前の国。

 ノワール共和国の王とロックウェル公爵は外交を超えた親友。そこで師匠にしなさいと、父親から紹介されたのが同い年のノワール共和国の王太子レクトルだった。


 ユーフェミアに会えない辛さで出てきそうな涙を飲んでレプトン王国を離れ、ヴィクターはレクトルの指南を受けて表情筋のリハビリをしていた。

 数か月もすれば、意識すれば微笑みを浮かべられるようになった。


 控えめでは愛は伝わらないと学んだ彼は、本心を甘い言葉で表現した手紙を綴り、贈り物も流行りは無視してユーフェミアだけを思ったものに変えた。

 一度彼女に会えばロブス学園に戻れなくなるからと、長期休みも帰国しなかった。

 そのため愛しい婚約者とは一年以上顔を合わせることなく、手紙のみのやり取りが続いていた。


 寂しさは慣れることなく、増すばかり。

 入学式の立食パーティーで眼鏡をした新入生の女子生徒がユーフェミアに見えたのが始まりで、今日は男子生徒にまで幻覚を見てしまった。



「これは重症だ……まいったな。夢だけでなく、起きているときにもその姿を追い求めてしまうとは」



 胸ポケットからハンカチを取り出し、刺繍を優しく撫でた。ユーフェミアが贈ってくれたもので、肌身離さず持ち歩いている宝物だ。

 大切すぎて手拭きには絶対に使わない。お守りのように扱っている。



「ユーフェミア、愛してる。卒業までもう少し待ってて」



 ヴィクターは瞼の裏に婚約者の笑顔を思い描き、刺繍に口づけを落とした。

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