第39話「ちょっと近づいた心」



 完全に場の空気に取り残された真理亜。白団の団員多くが敵である七瀬の勇姿を称える中、彼女だけはハンカチを噛みながらキーキーとわめいていた。特に星におんぶされていることが腹立たしい。


「んもうっ、七瀬のやつ! 勝ったのは私なのに! ほんとにムカつく!」


 七瀬のミスとはいえ、真理亜は彼女を追い抜いて白団を勝利に導いた。しかし、会場の空気は完全に七瀬の勇姿への称賛で溢れかえっている。そのことが気に食わず、地団駄を踏む。


「見ておきなさい! 星君は必ず私が奪い返してやるんだから!」

「やめときなって」


 荒ぶる真理亜の肩に、昇は手を乗せてなだめる。




「ほんと、何から何まで敵わないなぁ……星君には」


 昇は星と七瀬の背中を眺めながら呟く。昇は団対抗リレーで、自分が先にゴールしたら七瀬に告白するという賭けを持ちかけ、星と勝負をしていた。

 しかし、星に七瀬を思いやる気持ちで打ち負かされ、呆気なく阻止された。七瀬への告白は何としても許さない。そう言いくるめるように、星は昇に背中を見せつけた。ゴールの瞬間も、そして今も。


「……」


 昇は彼を称賛する気持ちと、七瀬への愛情に負けた悔しさを心で煮詰めながら、走者の列へ戻っていった。


 彼の背中を眺めながら、真理亜も深く考え込む。確かに、自分の星への思いは本気だ。

 しかし、自分の恋にはまだ不純な面があるのではないか。潔く敗北を認める昇とは違い、いつまでも醜い嫉妬心に溺れる自分が、今になって心底恥ずかしい。


「……もう!」


 真理亜はやるせない怒りを漏らしつつ、昇の後を追った。

 団対抗リレーは白団の勝利で終わったが、会場にいる多くの団員が勝ち負けを気にすることなく、精一杯戦った達成感で心が満たされていった。




   * * * * * * *




 私は星君の背中に乗り、保健室に運ばれた。養護教諭はおらず、星君は戸棚で消毒液やガーゼを探す。

 私はベッドに座り、水道水で洗った傷口を眺める。足首は捻ってはいなかったけど、頬と太ももに数ヵ所の擦り傷ができていた。


「あった」


 ピンセットと消毒液のボトル、そしてガーゼを並べ、治療の準備をする。星君は消毒液をガーゼに染み込ませ、ピンセットで挟んでゆっくり傷口に運ぶ。


「うっ……」


 消毒液が血と混ざり、僅かな痛みを与える。星君は消毒液を塗り終え、坦々と血を拭き取る。驚くほどに手慣れている。


「……」


 私は傷口を心配そうに見つめる星を眺め、かつての幼い頃の景色を思い出す。転倒して足を擦りむき、涙ぐんでいた星君。私が手を引き、保健室に連れていった。今と同じように治療をしてあげたっけ。


 あんなに弱々しかった泣き虫の星君が今、私の傷の治療をしてくれている。


「星君、ありがとね」

「こんなの当然だよ。だって、七ちゃんに何かあったら嫌だし」


 一人前の口を叩く星君。偉そうに……小学生の頃に、小さな擦り傷一つで痛い痛いって泣きわめいてたのは誰よ。


 治療が終わり、星君はポケットからある物を取り出す。そう、絆創膏だ。


「あ、それ……」

「これ? 覚えててくれたんだ。七ちゃんが教えてくれたおまじないだよ」


 星は絆創膏を七瀬の傷口に貼り、手を当てておまじないを唱える。


「痛いの痛いの飛んでけ~!」


 それから傷口に一枚ずつ貼り、わざわざ全ての箇所で律儀におまじないを唱える。


「あなたねぇ……」

「え、だ、だって、こうすれば傷は治るって、あの時七ちゃん言ってたでしょ?」

「ま、まぁそうなんだけどさぁ……」


 そうだった。今まで恥ずかしいからやめてほしいと思っていたことだけど、思い返せば小学生の頃の私が教えたんだっけ。うわぁ、私ったら何やってんだか。

 でも高校生にもなってまで小学生の頃の幼稚な知識を信じる彼の子供らしさに、何とも言えないちぐはぐさを感じる。イケメンの容姿でやられるからこそ、なお調子が狂うのだ。


「……ふふっ」

「どうしたの? 七ちゃん」


 たとえ子供っぽくても、星君は私との思い出を何一つ忘れることなく記憶している。呆れつつも、どことなく嬉しい。いや、嬉しさの割合の方が圧倒的に大きい。


「何でもない。ありがとう、星君……」

「どういたしまして……」




 保健室の床がオレンジ色に染まっていく。太陽が淡い空気と共に、町を夕方へと誘う。今頃運動場では体育大会の閉会式を行っている頃だ。参加せずとも、優勝は白団だと分かっている。


 星君と私は切り離され、保健室で二人きり。特別な空気が辺りを包み込む。


「……」

「……」


 その特別さを飾るには寂しいほどの沈黙が、私達の喉を強ばらせる。何を話せばよいのだろうか。うまく言葉が浮かばない。




「ねぇ、七ちゃっ……」

「あっ……///」

「え……///」


 思い浮かばすとも何とか言葉を紡ごうと、うつ向いた顔を無理やり上げる。しかし、お互いの顔が真正面に来てぶつかりそうになった。

 いや、ぶつかりそうと言うよりも、唇と唇が合わさってしまいそうなほど近づいてしまった。ヤバいヤバいヤバい。ただでさえ星君はイケメンなんだから、私の心臓はバクバクと激しい音を立てる。


「ご、ごめん! 七ちゃん……///」

「ううん、私こそごめん……///」


 心の中で思いが混雑する。お互い相手を異性だと意識しているのだ。こんなもどかしい心境にはなりたくない。何とかごまかさなくては。

 しかし、今赤く染まっている頬は夕日のせいにできても、段々鼓動を早めていく心音は他の何のせいにもできなかった。




「……七ちゃん」


 星君はピンセットを机に起き、ゆっくりと歩み寄る。そして私の隣に座り、まっすぐ私の瞳を見つめてくる。私も星の瞳を見つめ返す。


「あ、あのね……」

「うん」


 私は星君を見上げる。彼の背は高く、手足は大きかった。声は低く、体格もがっちりとしていた。もう小学生の頃とは違う。たくましく育った星君の姿が、そこにある。


 今目の前にいる星君は、私よりも何もかも大きくなった立派な男性だ。


「ぼ、僕……実は……」

「うん……」


 ゆっくりと口を開く星。彼の口から放たれる言葉は、私の頭でも安易に想像できた。ついに彼が思いを告げる。男らしく自分の思いを打ち明けられるようになったのだ。




 どうしよう。待ち望んでいたはずなのに、恥ずかしい気持ちが止まらない。私も覚悟を決めて、受け止める準備をしないと。




 ふぅ……よし、できた。


 星君、勇気を出して告白してくれてありがとう。私も精一杯の愛で、彼の愛を受け止めよう。あなたとなら、私はいつまでも生きていける。


「な、七ちゃんのこと……ずっと前から……///」

「う、うん……///」

「す、すっ……す……」










 ガラッ


「土屋さんごめん!」


 すると、突然保健室の扉が開き、養護教諭が慌てて顔を出した。


「わっ! え、あっ、先生……」

「ごめんなさい! えっと……土屋さんの容態は……」

「だ、大丈夫です! 僕が治療しといたんで!」


 星君は立ち上がり、腕を上げて先生に伝える。自身の潔白さを証明するように。


「ありがとう。ごめんね。テントの方で他の怪我した子の治療をしてて、土屋さんのことすっかり忘れてたわ。ほんとにごめんなさいね」

「いえいえ!」


 星君は苦笑いを浮かべた。そっか、そりゃ養護教諭もいないわけだ。怪我人用に設置された養護テントの存在をすっかり忘れていた。なぜそちらに行かず、まっすぐ保健室に向かってしまったんだろう……。


「じゃあ僕はみんなのところに戻りますね! 七ちゃ……土屋さんをよろしくお願いします!!!」


 星君は慌てながら、保健室を勢いよく飛び出した。情けない後ろ姿は、まるで空き巣に入ったところを見つかった不審者のようだ。




「……馬鹿///」


 前言撤回。やはり彼はまだまだいくじなしのようだ。彼の言葉を最後まで聞けず、私の不満だけが保健室に残されていった。


 しかし、これではっきりわかった。星君は私のことを一人の女性として愛してくれていることが。離れていたと思っていた私達の心は、ようやくちょっとだけ近づいた。


「……」


 そして私もまた、星のことを……








「うぅぅ……///」


 うわぁぁぁぁぁぁぁぁ! やってしまった……僕はまたやらかしてしまった。せっかく七ちゃんに告白するチャンスだったのに、昇君との勝負に勝って得たチャンスだったのに、またまた棒に振ってしまった。


「何やってるんだ僕はぁぁぁぁぁ!!!」


 本当に恥ずかしい。七ちゃんが僕のことを好きだと分かっているなら、安心して堂々と思いを伝えられるはずだろ! 断られる可能性は低いんだから!


 それなのに……あまりの七ちゃんの可愛さにドキドキしてしまい、告白は失敗に終わった

 ていうか、あの可愛さは反則すぎるでしょ! 夕日でなんかいい感じの雰囲気だったし、七ちゃんがいつもより魅力的に見えてしまったよ。まぁ、普段から魅力的なんだけどね!


 でも、さっきのはもう……可愛いなんてちんけな言葉で言い表せるレベルじゃなかった。


「いやいや、保健室の先生が来たからね! タイミング的に無理だよね! あの時はまだ告白するべきではなかったよね!」


 自然と言い訳を口にしてしまった。何をやってるんだ僕は。失敗したのは僕が意気地がないからじゃないか。きっと七ちゃんはがっかりしただろう。んもう……僕の馬鹿!


「……///」


 別に七ちゃんへの愛が貧弱なわけじゃない。それどころか、告白を先伸ばしにする度に思いが強くなる。これはどんどん思いを伝えるのが難しくなるぞ。


「七ちゃん……好き……七ちゃん……大好き……」


 本人がいなければこんなに簡単に口にできるのに、なんで彼女が目の前にいるだけで難しくなるんだろう。恋って難しい。本当に僕は思いを伝えることができるのかな……。




「……いや、やるんだ!」


 それでもやるしかない。不安だけど、やるしかないんだ。前に教えてもらっただろう。何度失敗してもいい。いつか自分の声で伝えられたら、それでいいんだと。




「お~い、星~」


 廊下の奥に和仁君達が見えた。もう閉会式は終わったんだ。


「星、顔赤くなってんぞ。さては七瀬ちゃんとよほど楽しい一時を過ごしたな?」

「和仁君! みんな! 僕! 頑張るから!!!」

「お、おう……頑張れ?」


 僕は顔が赤くなったまま叫ぶ。待っててね、七ちゃん。僕、頑張るよ。ものすごく遅くなるかもしれないけど、絶対に思いを伝えてみせるから。


 そしたら今度こそ男らしくなって、君を守ってみせるからね。


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