第38話「頑張れ」



 後方から真理亜が迫ってくる。覇気が感触として七瀬の背中に伝わってくる。真理亜にとって、七瀬は散々星君との恋を邪魔してきた悪しき存在だ。


 しかし、星は七瀬の影響を最も受けている。七瀬は彼にとってかけがえのない存在だ。二人は切っても切れない強い絆で結ばれている。

 真理亜はそれを羨ましく思っていた。幼なじみという関係だけでもずるいのに、心の底から信頼し合っているのが心底妬ましい。なので、いつもの癖で思わず七瀬に悪態をついてしまう。


 勝ちたい。勝って再び星に振り向いてほしい。幼なじみなんて負けヒロインに頭を垂れる未来なんて見たくない。星が自分から離れてしまったことで、ようやく自分の愛が本物であることに気付いた。


「七瀬ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」


 真理亜は唸り声とも呼べる恐ろしい声色で、七瀬の背中を追いかける。真理亜の気迫は目を合わせなくとも感じる。とてつもない圧迫感だ。あっという間に距離を詰められた。


 しかし、七瀬だって勝ちは譲れない。ここで敗北を認めてしまえば、星への恋心がその程度であることの証明になってしまう。そんなことは許されない。


「うぁぁぁぁぁぁぁ!!!」


 七瀬も負けじと叫んだ。二人は並び、ゴールが近付いてくる。体育体育実行委員会の委員が、両端でゴールテープを構えて待っている。


「行けぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」

「走れぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」


 会場は最高の盛り上がりを見せる。先にゴールするのは七瀬か、それとも真理亜か。運命の瞬間を目撃しようと、誰もが席から立ち上がり、目を見開いた。




「私は……負けない!!!」


 七瀬は力強く足を踏み出した。絶対に勝利を……星を譲るわけにはいかないと、彼を思う気持ちを力に変え、踏み出した足で勢いよく地面を蹴った。




“星君、私も……あなたのこと……”











 しかし、七瀬の視界の奥にあの流れ星が見えた。


 ガッ


「あっ……」


 ドサッ ザザザッ

 その瞬間、踏み出した足で運んだ上半身は、突如バランスを崩して前に倒れ込む。衝撃でメガネも吹っ飛び、レーンの端へと転がっていく。七瀬はそのまま地面に顔を突き、派手に転倒する。


「痛っ……」






 パンッ

 ゴールテープが引っ張られ、ピストルの音がけたましく鳴り響く。一同は七瀬が転倒したと気付く前に、真理亜のゴールが目に入る。


「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」

「よっしゃぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 白団の団員達が歓喜の声を上げる。応援の際の声より更に強く、やかましく、盛大に。七瀬がゴール直前で転倒し、その隙に追い抜いた真理亜がそのままゴールイン。まさかの幸運に驚きと喜びが隠せないでいた。


「やった……やった……やったぁぁぁ!!」


 一番喜んでいるのは真理亜だ。団員達は彼女の元へ駆け寄り、一斉に真理亜を抱き上げ、彼女の死闘を祝福した。

 真理亜のおかげで白団の優勝が確定的となったのだ。彼女はこの世の全てを手に入れた女王様のように笑い転げ、高らかに担ぎ上げられた。




 対して赤団の団員は、敗北のショックで僅かながら怪我人の存在に気付くのが遅れた。視線の先にあるのは、地面に横たわった砂だらけの七瀬だ。彼女は倒れたまま息を荒げて動けないでいた。


「うっ……うぅ……」


 七瀬は赤ん坊のように涙ぐんでいる。それは転倒した痛みに苦しんでいるのではない。アンカーという重要な大役を任されたにも関わらず、肝心の場面でとてつもなく壮大な失態を犯してしまったことによる、罪悪感が流した涙だ。


 怪我をした七瀬を哀れんでいるのか、それとも非難しているのか。団員達の鋭い視線が、七瀬の体に刻まれた傷を更に痛め付ける。

 自分はなんてとんでもないことをしてしまったのだろう。自分のミスのせいで、赤団は大敗北だ。最大の逆転のチャンスだったのに、自分が転倒したせいで棒に振ってしまった。


「うぅぅ……」


 罪悪感が涙を止めることを許さない。自分はなんて最低最悪な人間なのだろう。こんな失態を犯す人間でありながら、よく仲間の前で堂々と胸を張って走れたものだ。心底恥ずかしい。反吐が出る。


“ごめん……みんな……ごめん……星君……”








「七ちゃん!」


 一人の男子の叫び声が、会場のざわめきを一掃した。星は誰よりも早く彼女の元へと駆けていった。


「大丈夫? 七ちゃん」


 心の中で差し出す手を払った。やめてほしい。これ以上自分に優しくしないでほしい。決して許されることのない失態を犯した自分に、誰かの優しさに支えられる資格はない。


「星……君……」

「立てる?」


 それでも、星は七瀬の心情はお構い無しに、彼女の体調を確認する。七瀬は起き上がり、泥を払ってゆっくりと立ち上がる。会場は静寂に包まれている。


 星は実行委員に目線で合図を送る。七瀬はそのことに気付き、健康委員を呼んでくれているのかと思い込む。しかし、実行委員達が再びゴールテープを持ち、ゴールに張る。




「七ちゃん、走れる?」


 星は心配そうに尋ねる。会場にいる全員が、七瀬に対して視線を送る。


「……うん」


 七瀬は覚悟を決めた。そうだ、星が再びチャンスをくれたのだ。仲間として再び一緒に戦うチャンスを。

 七瀬は所々痛む腕や足を引きずるように、ゆっくりと、確実に歩みを進めた。実行委員の持つゴールテープに向かって。


「お、おい……」

「いいのか……これ……」

「保健室連れてってあげた方が……」


 再び団員達が騒ぎ始める。七瀬の苦しそうな様子を眺め、今更ながら罪悪感を覚える。無理やり走らせることは苦痛ではないかと、不安の呟きを漏らす。




「七瀬ちゃん頑張って!」


 その時、観客席から声が上がった。クラスメイトの美妃だ。苦しみながらも歩みを進める七瀬に対し、出来る限りのエールを贈っている。


「そうよ七瀬! 根性見せてやりなさい!」


 続いて恵美が叫ぶ。普段から彼女の相談に乗り、彼女の悩みを親友としての立場から見てきた恵美も、彼女の頑張る姿に背中を押された。


「七瀬ちゃんならできるぞー!」


 和仁も男らしく声を張り上げた。小声で周りの友人にも応援するよう促す。それに感化された団長の龍生も、走った疲れをものともせず叫ぶ。


「我ら赤団の闘士達よ! 最後まで勇敢に戦う彼女に、最高のエールを贈ってやれ!」

「七瀬~! ここまで来たら最後まで食らい付いてやれ~!」

「七瀬ならできるわ! 頑張って~!」


 そして、観客用テントで見ていたスターや成海も、七瀬にエールを贈る。


「走れ七瀬ちゃん!」

「いけるぞ土屋!」

「無理しないでゆっくりね!」

「頑張れぇぇぇぇぇ!」


 一人の応援がまた別の仲間の応援を誘い、声援は生き物のように広がっていく。




 赤団の団員は、ゴールに向かう七瀬を全員で応援した。勝負は既に決着が付いている。そんなことは、今の彼らには関係がなかった。ただ最後まで走り抜く一人の少女の頑張りを、心から支えようと声を上げる。


「みんな……」


 七瀬は後ろを振り向いた。


「七ちゃん! 最後まで頑張れぇぇぇぇぇ!!!」


 星は口元に手を当て、周りの声援に負けじと叫んでいる。一番声を張り上げているのは彼だ。


 そして七瀬は再び足を進める。自分はなんて愚かな人間なのだろう。それは自分が期待を裏切るような失態を犯したからではない。そんなことは誰もとがめるはずがない。

 仲間は最後まで自分を信じ、支えようとしてくれる。そのことを理解していなかった自分が愚かなのだ。無駄な罪悪感に浸っていた自分が恥ずかしい。


「ありがとう……星君……ありがとう……みんな……」


 振り向かなくてもわかる。星は素敵な笑みを向けてくれている。七瀬のことを信じてくれている。信じなくてごめん、諦めてごめん。


 この埋め合わせは、最後まで走り抜くことで返そう。




「七ちゃん!!!」


 星が叫ぶ。


「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」


 そして、七瀬も叫ぶ。声を張り上げると同時に、強く前に踏み出す。ゴールテープが彼女の大きな胸に押し出される。


 パンッ

 ピストルが鳴り、団対抗リレーは幕を閉じた。七瀬は自分の力を振り絞り、最後まで走り抜いてゴールに戻ってきた。その勇姿を称えようと、赤団の団員は彼女目掛けて一目散に駆けていった。


「土屋さん! よくやったね!」

「七瀬、やっぱりあんたはすごいわ」

「七瀬ちゃんマジカッケェ!」

「すごいよ七瀬ちゃん!」


 団員達は汗や泥にまみれていることも忘れ、最後まで勇敢に戦った一人の少女を担ぎ上げる。七瀬も満更でもない笑みを浮かべる。


「痛っ!」

「あ、悪ぃ……」


 流石におふざけの度が過ぎたことに気付き、団員達は七瀬を傷付けまいとゆっくり彼女の体を地面に下ろす。

 自力で走り切ったとはいえ、体を地面に勢いよく打ち付けて転んでしまったのだ。脚もどこか捻っているかもしれない。


「七ちゃん、大丈夫!?」


 団員達の群れをかき分け、星が再び彼女に駆け寄る。保護者よりも保護者じみた態度で、彼女を心配そうに見つめる。


「大丈夫よ。ほんとに星君は大袈裟ね」

「だ、だって、あんなに派手に転んで、しかも無理やり走らされたんだから。うわぁ、何やってんだ僕! 七ちゃんにこんなことして! 馬鹿馬鹿馬鹿!」


 星は自分の頭をぽかすかと殴る。自分でやらせたこととはいえ、七瀬に痛みを抱えさせながら最後まで走らせたことを今更申し訳なく思ってるらしい。


「ごめん! ほんとにごめん!」

「もう、だから大丈夫だってば……」

「とりあえず保健室行こ! 僕が連れてくから! あ、立てる? どこか痛まない? ほんとに大丈夫?」

「しつこいわよ!」


 バシッ

 どこまでも心配性な星の頬に、七瀬は腹いせにデコピンを食らわしてやった。過保護にも限度というものがあるだろう。


 しかし、本気で心配してくれている星の優しさに預かり、七瀬は彼に身を寄せる。


「星君……」

「ん?」

「ほんとに、ありがとう……///」

「え、あ、えっと……うん……///」


 シナリオとして決まっていたかのように、二人の頬が赤く染まる。特に星はメガネをかけていない七瀬の笑顔に、今までにないほどときめいてしまう。

 案の定団員達はいい感じの雰囲気を察知し、ヒューヒューと歓声を上げる。


「よっ、星ったら色男♪」

「可愛いとこあんじゃん、赤団の英雄ちゃんよぉ~」

「リアルで結婚棒読みじゃん」

「保健室で爆発しといで~」


 星は七瀬をおんぶしながら、ゆっくりと保健室の方へ歩いていく。途中で七瀬が落としたメガネもしっかり拾い、彼女の照れ顔を隠すようにかけてやる。背中にのし掛かる愛しの彼女の感触が、とても暖かい。

 団員達は恥ずかしがる様子を気にも留めず、保健室へ向かう二人の背中に向かって、見えなくなるまでからかう。




 こうして団対抗リレーは、白団の勝利で幕を閉じた。しかし、ほとんどの生徒がそのことを忘れ、一人の少女の勇姿を微笑ましい気持ちで称えるのだった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る