第30話「特訓」



 星と七瀬、和仁は凛奈の家の庭で腕立て伏せを繰り返していた。夏休みが間近に迫り、七海町もいよいよ沖縄に負けないほどに暑さを増していく。


「残り30回を切ったよ。頑張れ。基礎体力の向上は走力の底上げに繋がるからね」


 汗を流して体を動かす生徒達を、縁側に座って眺める黒髪の男性。彼が凛奈が紹介した特訓の助っ人だという。


「はい終了。お疲れ様。一旦休憩しようか」

「ハァ……ハァ……きちぃ……部活でもこんなに筋トレしたことねぇよ……」


 和仁が仰向けに倒れ、息を切らす。恵美は男性の隣に座りながら、呑気に休憩する和仁達を眺めている。


「頑張って。次は背筋よ」

「ていうか、恵美もやれよ!」

「私は走らないもん」


 言い合う和仁達の元へ、麦茶を持った凛奈が歩み寄る。和仁達は砂糖に群がる蟻のように、コップを掴んで喉に注ぎ込む。


陽真はるま君ありがとね。せっかくの休日なのに、うちの生徒の特訓に付き合ってもらって」

「気にすんな。お前の頼みだからな。俺もOBとして子供達の役に立ちてぇし」


 麦茶を受け取って悠々と飲む男性。彼の名前は浅野陽真あさの はるま。凛奈の夫だ。普段は七海警察署に勤める若手の警察官だが、今日は久しぶりの休日を取り、凛奈の生徒達の特訓の指導員として働いている。


「流石元陸上部のエースですね。説得力が凄いです」

「葉野高校の生徒だった頃は結構活躍してたからね。凛奈もマネージャーとして支えてくれたよな」


 視線を向けられた凛奈が赤面する。昨年、七海達は陽真と凛奈の結婚式に招待してもらった。そこで確認したプロフィールを思い出し、凛奈に頼んで陽真から指導をもらおうと思ったのが経緯だ。


「……」


 仲睦まじく笑い合う陽真と凛奈を眺め、七瀬は今度は視線を星に向ける。結婚という事象を前にして、心が揺さぶられる。そしてあらぬ想像をしてしまう。自分が星と結婚したらどうなるのだろうかと。


「じゃ、そろそろ続きをやろうか。筋トレ終わったら実際に走る練習にするよ」

『はーい』


 和仁達の返事で我に返り、特訓へ意識を戻す。今は勝負に集中しなければいけない。七瀬はコップを凛奈に返し、頬を叩いて気を高めた。






 特訓が終了し、浅野家を後にする七瀬達。七瀬と星が向かう方向は同じ。家が近隣に建っているからこその宿命だ。


「お~い! 七瀬~!」


 向こう側からスターが駆け寄ってくる。いてもたってもいられず、迎えに来たらしい。


「スター、お母さんに家で待っててって言われてたじゃない」

「それより、今日はKANAEでなんか願ったか?」

「ううん、何にも」

「何だよもう……残り3つなんだから、ちゃっちゃと願っちまえよ~。人間ってそんなに無欲なのか?」


 七瀬は家に帰る度に、スターからKANAEの能力で叶えた願い事を確認してくる。残り3つの貴重な願い事であるため、慎重に使い時を選ぶ七瀬が首を縦に振ることはない。一向に調査を終えることができないスターは不満タラタラだ。


「まぁ、今は体育大会のことで精一杯だし、仕方ないよ」

「正直この能力面倒なんだけど。消すことってできないの?」


 体育大会に集中したい七瀬にとって、もはや願いの能力は邪魔でもあった。「~したい(したくない)」や「~して(するな)」などの台詞を口走れば、たちまち能力が発動してしまう。

 残りの貴重な願い事をうっかり無駄にしてしまいたくないが、喋り方が制限される生活は非常に窮屈だ。


「消すことはできねぇけど、誰かに移すことならできるぜ」

「できるの!?」


 七瀬がスターに食らい付く。能力の存在で自分に自信を持つことができたという恩恵があるが、今は別に手放してもいい。できることなら他人に押し付けてしまいたいと思っていたところだ。


「あぁ、キスすりゃいいんだよ。移したい奴にな」




「……は?」


 少なくとも10秒は間があったかもしれない。キス、つまり接吻。唇と唇を重ね合わせる行為だ。キスをすることで相手に残りの願いの能力が継承されるとスターは言う。どういう原理だろうか。


「キスって……マウストゥーマウスで?」

「あぁ、試しに星とやってみろよ」

「はぁぁぁぁぁ!?///」

「え……///」


 七瀬の頭から夜間のように湯気が沸き立つ。星もいつになく顔を赤らめ、七瀬を見つめる。恋愛映画やドラマで散々見たことがある行為だが、自分が行うとなると話は別だ。羞恥心で死にたくなる。相手が星なら尚更だ。


「何赤くなってんだよ。そんなに恥ずかしいか? 人間って本当によく分かんねぇな」 

「なってないわよ! 全くもう……///」


 スターはキスを躊躇う七瀬を不審に思っているそうだ。七瀬は沸騰した頭を抱える。何でもかんでも天界の価値観で物事を語らないでほしい。


「……///」


 七瀬は気付かなかったが、星はいつまでも七瀬の艶のある唇を眺めていたのだった。






「ふ~ん……願いの能力ねぇ~♪」


 そして、そんな七瀬達の一連のやり取りを、離れた場所でこっそり聞いていた小悪魔がいた。この瞬間、彼女の計画は実行段階に移された。




   * * * * * * *




 終業式もあっという間に終わり、いよいよ生徒達が待ちに待った夏休みが始まった。だけど、私達は当然放課後に残って体育大会の練習だ。


「ふぅ……僕達、だいぶ早く走れるようになったね」

「でも2組の連中のタイムと比べるとまだまだね」


 恵美が冷静に分析する。今日も今日とて団対抗リレーの特訓を行う。順調に競争の腕は上がってると思うのよね。いや、腕じゃなくて……足?


「陽真さんが言ってたよな。走りは足の裏で地面を強く蹴ることが大事だって」

「なかなか走ってる最中に意識できないよね。どうすればいいんだろう……」


 陽真からのアドバイスを思い出すも、私達は上手く活かすことができない。どうしたものか……。




「……熱々フライパン走法」


 すると、私の頭の中にある一つの考えが思い浮かんだ。


「え? 熱々フラ……何?」

「熱々フライパン走法。熱いフライパンの上にいると思いながら走ればいいのよ」


 自分でも幼稚臭い安易な考えだとは承知している。でも、今思い浮かぶことなんてこれくらいしかない。夏休みを間に挟むから、体育大会まで時間はまだたっぷりある。この時間を利用して少しでも白団と差を付けたい。


「グラウンドを熱いフライパンだと思い込む。熱々のフライパンだから、当然足の裏も熱くなって離したくなる。そしたらすごい力で地面を蹴ることができるはずよ」


 説明するのも恥ずかしいほど安直な内容だ。案の定和仁と恵美はポカンとして立ち尽くしている。


「まぁ、役に立たないってわけではなさそうだけど……」

「七瀬ちゃんも案外そういう子供っぽい発想するんだな」

「仕方ないでしょ! こういうのしか思い浮かばなかったんだから!」


 正直自分だってこんな小学生に教えるようなアドバイスをしたくない。あぁ……本気で説明したら恥ずかしくなってきた。うん、こんなこと忘れよう。真面目に対策を考えよう。




「熱っ! 熱い~!」


 すると、星君が叫びながら走り始めた。私のアドバイスを早速実践してくれている。


「えへへ……やるだけやってみようと思って。でも案外地面を強く蹴れるようになったかも」


 星君が無邪気に笑う。嘘でしょ……私のアドバイス、本気で信じてくれたの? 数秒で思い付いたような何の捻りもないアドバイスを?


「だって、今まで七ちゃんが教えてくれたことが役に立たなかったことなんてないもん。七ちゃんが色々教えてくれたおかげで、僕は早く走れるようになったし、重いものを持てるようになった。強くなれたんだよ」


 私と星君の間に8年間の汗と涙と苦痛の日々が過る。星君の運動音痴を克服させるために、特訓に特訓を重ねてしごき倒した。今の私達とどこか酷似している。


「七ちゃんのアドバイスなんだから、僕は信じるよ。一緒に頑張ろう」

「星君……」




 あなたは私の言うことを心の底から肯定してくれるのね。自分を強くしてくれた先生だからと。今まで彼が私より強くなってしまったことを嘆いていたけど、私が彼を強くしたということをすっかり忘れていた。


 本当に星君はすごい。そこまで私のことを信頼し、受け入れてくれることが本当にすごい。彼の魅力である優しさ故の心意気だろう。


「ありがとう……」

「どういたしまして!」


 彼の笑顔と共に、私は走り出した。能力のこともあってだいぶ自分に自信を持つことができたけど、結局は彼の存在が一番私を勇気付けてくれていた。彼がそばにいるから、私は前を向いていられるんだ。本当にありがとう、星君……。




 この時の私は思っていなかった。今目の前に広がる彼との幸せな日々が、耐え難い地獄の日々に変えられてしまうことに。


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