第13話「微かな変化」
結局午後5時になっても、星がコンピュータ室から戻ってくることはなかった。『まだ離れられそうにない』『先に帰ってて』というLINEのメッセージが虚しく送られてきた。
慰めているのか馬鹿にしているのか、カラスの鳴き声だけが帰り道に響き渡る。
「恵美、気付いてる?」
「当然よ」
「え? 何のこと?」
七瀬と恵美が何の話をしているのか、和仁には理解できないようだ。
「……」
「……」
ジト目で和仁を見つめる二人。
「男には分かんないかぁ」
「クズ仁、さよなら」
「え、何!? さっきから何なの!?」
最後まで話を理解できず、和仁は自分の家の方角への分かれ道に突き当たった。捨てられる子供のように、曲がり角に置いてかれてしまった。
二人は気を取り直し、話に意識を戻す。
「男には分かんないわよ。ああいう女の怖さ」
「えぇ……」
真理亜の名前を言わずとも、七瀬と恵美は互いに理解していた。真理亜の性格の醜悪さを。星のカッコよさに惚れたのかは定かではないが、彼と一緒にいたいからと無理やり自分達の班別行動に付き合わせた。
そのことに、腹立たしさで腹がよじれてしまいそうになる二人。
「真理亜ちゃんって普段からあんな感じなの?」
「らしいわね。男の前では徹底してあざとく振る舞ってるけど、女の前では本当に最悪な性格してるそうよ」
二人はあまり関わったことがないため噂程度でしか知らないが、彼女の男子人気は本物だ。だがそれとは逆に、女子からは悪印象が多いらしい。
男子生徒の前ではひたすら愛くるしく、何でもしてあげたくなるようかか弱い清楚な女子を演じている。しかし、女子生徒の前ではあからさまに相手を見下し、下衆な生き物を見るような乱暴で卑劣な態度を見せるようだ。
「嫌な性格してるわね」
「小悪魔系ってやつね。彼女の場合は度が過ぎてるけど」
女の武器を生かして男を魅了し、何でも自分の思い通りに動かし、格好の手駒とする。彼女の粗暴にほとんどの女子生徒は迷惑しているそうだ。しかし、彼女の人気度は凄まじく、批判しようにもできない。
恵美の家の近くの曲がり角まで来た。彼女の下校する日は毎回この曲がり角で分かれるのだ。
「んじゃ、また来週」
「えぇ、またね」
恵美は手を振って去っていった。一人というわけでも寂しいわけでもないが、妙な孤独感が胸の奥に張り付いている。久しぶりに星と下校を共にしなかったからだ。
いつ以来だろう。彼が怪我や病気で早退したり、用事があって先に帰ってしまった時は少なからずある。しかし、それでも彼は極力帰り道を一緒に歩いてくれるのだ。
「……」
真理亜はあからさまに星を誘惑していた。星も僅かではあるが彼女を異性として意識していた。七瀬の目にはそう見えた。
「星君……」
星が自分以外の女子と距離が近い様を見ると、どうしてだか心がモヤモヤとする。まるで心臓に何かが引っ掛かっているように、胸にズキリと鋭い痛みが走る。鼓動が早まる度に、痛みは増していく。
この感情の正体を、自分は知らない。恐らく手を伸ばせば届くところに答えがあるのに、その方向が分からない。
ガチャッ
家にたどり着き、玄関を潜る。
「ただいま」
「お帰りなさい」
お母さんの声が聞こえた。帰ってきた様子を見に来たのかは分からない。お母さんが来る前に、私は二階の自分の部屋へと向かってしまった。
部屋の扉を閉める。電気を点けず、着替えもせず、ベッドの上に飛び込んだ。
“分からない……何なの……この気持ち……”
枕に頭を埋め、顔の見えない感情に心を支配される。先程の真理亜が星に距離を詰める姿を思い返す。星も満更でもなさそうな表情だった。
ただ距離が近いだけ。ただそれだけのことだ。何の問題もない。気にする必要はない。そう自分に言い聞かせても、心のモヤモヤは駄々をこねる子供のように胸に留まる。
“星君……”
なぜだろう。星が他の女子と距離を近付けるのを、嫌だと思ってしまう自分がいる。隣にいるのは私だけがいいという、どうしようもないわがままが沸き立って収まらない。幼い頃から共に年月を数えてきた自分でなければ、どうしても納得できない。
“星君、行かないで……”
ずっと抱いてきた自分が弱い女というコンプレックスと共に、惨めな思いが更につのっていく。永遠の別れが決定したわけでもないのに、星が遠ざかってしまったように感じる。瞳に涙まで滲んできて、いよいよ自分の心が分からなくなってきた。
せっかく、同じ班になれたというのに。
ピロンッ
学校の鞄からスマフォの通知音が聞こえた。LINEのメッセージだ。
『今日は本当にごめん』
『調べてたら面白そうなところ見つけたよ。詳しいことは来週話すね』
『修学旅行、目一杯楽しもう!』
星のメッセージが画面に表示される。文面から彼が楽しそうに話す様が想像できる。
「星君……」
メッセージのおかげで、悲し涙は嬉し涙に変わった。来週まで会えないことすら寂しく思っていたが、来週会えるのが楽しみだという意識に切り替えることができた。
「ふふっ」
僅かに尻尾を出した希望を、七瀬は掴んで離さなかった。きっと先程までの不安は取り越し苦労だったのだろう。星が離れることなど絶対にない。大丈夫だ。安心しろ、自分。
メッセージを読んだだけで、一瞬にして冷たい未知の感情がどこかへ消し飛んだ。
『ありがとう、また来週ね』
『うん!』
星がいつまでも自分のことを大切に思ってくれている。そんな事実が確認できて、胸がすうっと軽くなった七瀬。
「大丈夫。きっと大丈夫」
安心を確かなものとするため、自分の心に言い聞かせる。それに、自分には願いを叶える能力がある。この能力があるだけで、自然と体が自信という名のエネルギーに満ちていくのを感じる。
「……」
謎の星が突如としてもたらした力。なぜ自分の元にこんな奇跡が舞い降りてきたのかは分からない。それでも、この8年間で星と開いてしまった性差を、この力で埋めることができるかもしれない。
やっと自分も対等の存在になれるのだ。
「もう、守られるだけじゃないから」
唯一誇れる自信という武器を手に、七瀬は星と共に歩むことを誓った。この先も、ずっと。
「はぁ……」
七瀬へのメッセージを送り、星はスマフォをポケットにしまった。真理亜は想像以上に星をパソコンの前に縛り付け、まだ帰すまいと浮わついた声で常に話しかけてきた。
「本当にごめんね、七ちゃん」
いくら迷惑に思える頼みでも、自分の性格上断れない。七瀬を含め、多くの人達にお人好しと言われてきた苦労を、身に染みて実感した。
それでも、自分の生きる道はただ一つ。今より更に強くなり、七瀬をあらゆる脅威から守ることだ。泣き崩れ、己の不甲斐なさに絶望した時から、この決意は揺らぐことはない。
「……」
不本意ではあるが、真理亜と共に様々な沖縄の観光地を調べることができた。自分の班の計画に役立てよう。自分の使命とは別に、七瀬との修学旅行を純粋に楽しむ気持ちを忘れないようにしなければいけない。
「ふふっ」
今日の七瀬はよく笑っていた。声としてこぼれてしまうくらいだ。彼女が笑っているだけで、自分も幸せになれる。これからも彼女の笑顔を作っていこう。それも自分の使命の一つだ。
そして、その隣で一瞬に笑うのは、自分がいい。
「七ちゃん……///」
彼女の可愛い笑顔を思い浮かべるだけで、やかましく高鳴る心臓の鼓動。この現象が意味するものとは、一体何だろう。僅か17年の命しか生きていない星には、想像し難い感情だった。
星と七瀬の身に起きる良くも悪くも微かな変化。心を大きく揺さぶるその感情が、果たして二人にどのような未来をもたらすのだろうか。
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