第10話「願い」



 私はお母さんに顔を寄せる。今お母さんが言ったことが間違いでないかどうかを確かめるべく、間近でもう一度聞いてみよう。


「お母さん、今日の晩ご飯すき焼きって言った?」

「え? うん……」


 聞き間違いではない。となると……


「さっき私が縁側で言ってたこと、聞いてた?」


 私は先程「すき焼きが食べたい」と声に出して呟いた。それをお母さんが聞き、望み通りにすき焼きの材料を買ってきた可能性を確かめる。


「聞いてないけど……何か言ってた?」


 聞いていないらしい。そりゃ当然か。ついさっきまで買い物に行っていたお母さんが、どうやって家にいた私の呟きを拾うことができるだろうか。


「いや、何でもない」

「七瀬、大丈夫?」

「大丈夫。行こっ」


 私は詮索するのをやめ、お母さんと一緒に買い物袋を持ってキッチンへ向かった。






「ん~、いい匂いだなぁ」


 私のお父さん、土屋賢士朗つちや けんしろうも帰ってきた。早速すき焼きの匂いを嗅ぎ付けた。私もサラダをかき混ぜながら堪能する。うーん……確かにいい匂い。もはや匂いだけで胃袋の一割は満たせそうだ。


 そして同時にこうなった原因を推測する。考えられるのは先程の流れ星。私は流れ星を見つけて願い事を唱えた。

 いや待てよ。三回唱える前に消えてしまったから、願いは叶わないはず。むしろ一回目を唱え始める前に消えてしまった。


 ちょっ、私ったらまたくだらない空想なんか信じてるわ。ダメダメダメ、考えちゃ。


「おぉ、すき焼きかぁ。たまにはいいな」


 お父さんは匂いを十分堪能した後、着替えるべく二階へ向かう。私は尚もすき焼きを食べたいという願いが叶った理由を考える。




 もう一つの可能性は、落ちてきたあの星だ。


「そろそろ煮えてきたかな?」

「えぇ、いただきましょうか」


 家族三人で手を合わせ、夕食が始まった。私は割った卵をかき混ぜながら思考を巡らせる。空から落ちてきたあの謎の星……スイッチを押したら消えた。もしかしたらあれは、願いを何でも叶える機械とか?


 いや、まさかなぁ。そんな非現実的なことがあるわけがない。漫画じゃないんだから。


「ん~、美味しい♪」

「お肉柔らかいわね~」


 結局原因は分からず終いだ。考えあぐねている私をよそに、すき焼きはことことと出汁が染み込んだ具材を揺らしながら能天気に泡立つ。


「それにしてもすき焼きだなんて、今日はやけに豪華だなぁ」

「宮原さん家がね、先週の日曜に作ったらしいの。それで食べたくなっちゃって♪」


 宮原さん家……星君の家だ。私は家族ぐるみで何年も仲良くしてきた。私のお母さんは星君のお母さんとよくお喋りをする。ママ友ってやつね。

 なるほど、お母さんの気まぐれという可能性もあるか。なるほどなるほど。もうそういうことにしておきたいな。考えるの疲れた。お腹空いてきたし。


「ほらほら、七瀬も食べな」

「お肉もお野菜もいっぱいあるわよ」


 考えたって分からないことは、この広い世界にたくさん存在する。でも、一つ分かっている事実がある。


 私は一枚の牛肉を口に放り込んだ。


「うまい!!!」


 そう、すき焼きは最高に美味しいということだ。




   * * * * * * *




「七ちゃん、おはよう」

「おはよう星君!」


 いつもは眠気を玄関まで引きずる七瀬だが、今日は威勢のいい挨拶を交わすことができた。


「朝から元気いいね。何か嬉しいことでもあった?」

「えぇ、昨日の晩ご飯がすき焼きだったの」

「おぉ~、僕も先週の日曜に食べたよ。すき焼き美味しいよね~♪」

「ね~」


 歩きながら愉快な会話を楽しむ二人。いつもなら星が一方的に話を展開し、目線を合わせられず、「そうね」だの「へぇ」だのそっけない返事をするだけの乾いた空気が作られるばかりだった。

 それが今は、面と面で向かい、賑やかに清々しく話すことができている。美味しい食べ物の力は偉大だ。




「恵美、おはよ♪」

「おはよう。朝から気持ち悪いくらいテンション高いみたいだけど、何かあった?」


 学校にたどり着き、教室に入って開口一番、恵美から少々心の痛む毒舌をくらう。しかし、心の中で踊る幸せな感情が、そんな事実を楽々とはね除ける。


「昨日の晩ご飯がすき焼きでしたのよ」

「そんだけ?」


 七瀬は鼻歌混じりでスキップをしながら席に着く。彼女がここまで気分が高揚している様を見るのは、恵美も初めてだった。


「ふふっ♪」


 もちろん美味しいすき焼きを食べることができたことも要因ではあるが、星と対等に会話できたことも嬉しかったのだ。ようやく彼の言葉を適当に受け流すことなく、堂々と受け止めて聞くことができた。星もいつもより楽しそうに話してくれた。


“なんか、珍しくいい気分かも♪”


 今だけは自分の弱さや性別へのコンプレックスなどを忘れることができた。




「そういえば七瀬、班別行動の件はどうなったの?」

「うっ!?」


 恵美の声かけの瞬間、右上がりだった七瀬の機嫌の線グラフがガクッと右下に傾いた。いくら気分がいいからとはいえ、修学旅行の班別行動のメンバーに勧誘する勇気は沸き上がることはなかった。


「いい加減恥ずかしがってないで誘いなさいよ」

「うぅぅ……」


 昨日は星の方から誘いかけていた。空から落ちてきた星云々で遮られてしまったが、彼に勇気を先取りされたことは恥だ。


「あぁもう、どうすればいいのよ……班別行動星君と一緒に回りたいのにぃ……」

「だから誘えばいいんだって」


 恵美は簡単に言ってくれる。




「あれ? 今なんか流れ星みたいなの見えなかった?」

「馬鹿言え。こんな明るいうちに星なんか見えるかよ」

「いや、でも今確かに……あれ?」


 窓際に集まっていた男子生徒達が空を見上げて騒ぎ出す。




「七ちゃん」

「え? わっ! 星君!?」


 すると、突然七瀬の席に星がやって来た。机に顔を伏せていた七瀬は、慌てて起き上がる。背筋を伸ばして座り、髪をいじくる。




「よかったら修学旅行の班別行動、一緒の班にならない?」

「え? えぇぇぇぇ!?」


 七瀬は声を上げて驚いた。星は教室に着いてからずっと自分の席にいた。七瀬と恵美の会話を聞いていたわけではない。しかし、突然七瀬の席へとやって来て、突拍子もなく勧誘をしてきた。


「僕も班決まってなくてさ。ダメ……かな?」

「い、いいよ……」

「ほんと? やった!」


 頬を赤らめ、おもちゃを買ってもらった子供のように喜ぶ星。純粋無垢な姿に心惹かれる。


「修学旅行、楽しもうね!」

「えぇ……」


 七瀬の手を握り、再び自分の席へと戻っていった。




「……ナニコレ?」

「知るか」


 機械音のような片言で真後ろの恵美に尋ねた。とても信じられない出来事を前にして、心の整理が追い付かない。


「ちょっと私の頬つねってみて」

「いいけど」

「うがががが!!!」


 七瀬の柔らかい頬が、恵美の怪力で餅のように伸びる。恵美が指を離すとバチンッと鈍い音がなり、ゴムパッチンのように素早く頬が縮んで元に戻る。


「痛くない! つまりこれは夢!」

「現実逃避してどうすんのよ。いいじゃない。同じ班になれたんだから」


 赤く腫れた頬をさすりながら、現実を噛み締める七瀬。星と共に班別行動を楽しむこととなった。自分から誘えなかったことは不本意ではあるが、星から誘ってもらえたことも十分幸せだ。

 しかし、こんな現実が贅沢に感じられる自分がいる。本当に自分がそんな幸せを味わっていいのかと不安になる。喜びと罪悪感が入り交じって複雑な心境だ。




 ふと、七瀬はこちらを見ていた星と目が合った。星はニコニコ笑い、手を振ってきた。


「……///」


 なぜか恥ずかしさを感じて頬を赤く染まってしまった。こちらも振り返す。




「……いいんだ」


 そして、頬の上を一筋の涙がつたう。 


「私……星君と一緒に修学旅行……楽しんでもいいんだ……」

「よしよし、よかったわね」


 罪悪感に打ち勝った喜びが、緩みきった涙腺を押し上げた。端から見れば大げさではあるものの、涙が出るほど嬉しいのだ。恵美は泣きじゃくる七瀬の頭を優しく撫でる。


 沖縄の美しい景色を眺めたり、美味しい料理を囲んだり、お土産選びに心を踊らせたり……。それら全てを星と楽しむことができるという幸せを手にして、七瀬は言葉に表し難い感動を胸に抱いた。


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