第5話「僕が守るから」



 僕は七ちゃんの家を発ち、自分の家へと帰ってゆく。既に夕陽が沈みかけており、紫色の影が住宅街を飲み込んでいく。


「……」


 角を曲がり、振り向いても七ちゃんの家が見えなくなるところまで進む。視界の奥に既に見えている自分の家まで歩きながら、今日の七ちゃんの様子を振り替える。






“可愛いぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!”


 そして心の中で叫ぶ。今日も七ちゃんは可愛かった。ダイエットをしなきゃと思いつつも、クレープを口にして緩む口元とか、あまりの美味しさに赤く染まる頬とか。あんな幸せそうな顔を前にして、ときめかないはずがない。


 何あれ、可愛過ぎるんだけど!?




 みんなは気付いてないかもしれないけど、僕は今日心の中で50回くらいは「七ちゃん可愛い」と叫んでいる。だって可愛いんだもの。本当に可愛い。


「星、そんなとこ突っ立ってないで入りな」

「あ、うん、ただいま」


 七ちゃんの可愛さの余韻に浸るあまり、玄関でボーッと突っ立ってしまっていたことに気付かなかった。お母さんに促され、速やかに家に入る。


 でも、本当に可愛くて仕方ないんだよ。


「今日も七瀬ちゃんとどっか行ってたの?」

「うん、クレープ食べに行ったんだよ」


 お母さんと軽い会話を交わし、自分の部屋に向かう。知り合った頃からお互い家族ぐるみの交流をしているため、お母さんやお父さんも七ちゃんのことは周知済みだ。




 もう七ちゃんとは小学生の頃からの付き合いになる。クラスメイトから押し付けられた放課後の掃除当番を一緒にやってくれたことが始まりだったかなぁ。泣きながら箒を掃いていたところを見られ、最初はすごく恥ずかしがった。


“箒はね、こう掃くの。ほら、こうやって手前でピタッと止めてね”


 ほら、もう思い返すだけで七ちゃんの声が聞こえるよ。正しい箒の掃き方を教えるとか言いながら、さりげなく掃除を手伝ってくれたよね。なんて優しいんだろう。

 七ちゃんは忘れちゃったかもしれないけど、僕は鮮明に覚えている。僕は彼女に救われたんだから。


「……」


 部屋の勉強机には、彼女とピクニックに行った時の写真が立てられている。写真に写るは満面の笑みの七ちゃんと、涙目の僕。当日僕は山道で転んで膝を擦りむいた。


“ほら、写真撮ろ!”


“うん……”


 小学生の頃僕はとても弱い人間で、悲しいことや苦しいことがあるとすぐ泣いてしまう。それでも七ちゃんは僕に優しく話しかけてくれて、慰めてくれる。

 ちょっと半ば無理矢理な時もたまにあるけど、僕の心身に巣食う悲しみをぶっ飛ばしてくれる。だって彼女はとても強いから。僕とは真逆の存在だ。




 仲良くなって一週間後くらいの帰り道、近所の人が飼っている大きな犬がとても怖かった。さっきも七ちゃんと一緒に通りかかったあの家だ。小学生の僕は怖くて怖くて、七ちゃんの後ろに隠れていた。


 七ちゃんは僕を守るように、柵の向こうで吠える犬に正面を向け、僕を背中に隠しながら家の前を通過した。決して犬の視界に僕を入れまいと、必死に守ってくれたんだ。


“あの犬よく吠えるけど、本当はすごく大人しいんだからね”


“うぅぅ……七ちゃんはよく平気だね……”


 僕を守ってくれてありがとう。あと、あの時は涙と鼻水で服びしょびしょに濡らしちゃってごめんね。




 小学校4年生の頃だったか、僕が国語の教科書を忘れて困っていた時があった。忘れた衝撃に囚われて、先生にも言い出せなくて泣いていた。国語の授業の時間がどんどん近付いて、どうすればいいのか分からなかった。


 そんな時に彼女は自分の席を僕の席にくっ付けて、教科書を見せてくれた。先生にも彼女の口から僕が忘れたことを伝えてくれたみたいだ。


“ほら、いつまでも泣いてないの。ノート出して”


“あ、ありがとう……”


 自分から忘れたことを言い出せなかったこと、うっかり彼女の教科書に涙の染みを付けてしまったこと、今でも申し訳なく思っている。それら全てをさりげなく許してくれたことも、すごく嬉しかった。




 中学1年生の頃、社会のワークで宿題が出されてたのを忘れてて、冷や汗をかいたこともある。そこでも助けてくれたのが七ちゃんだ。

 社会の授業までに昼休みを利用して、彼女のワークを写させてもらった。自分の力でやれよというツッコミは、ここでは野暮なのでやめてほしい。


“ほんと、しょうがないわねぇ”


“ありがとう七ちゃぁぁぁぁぁん”


 彼女は普段メガネをかけているから、姿が勉学に長けた優等生そのものだった。本当にしっかりしてるんだよなぁ。僕は彼女の優しさにベッタリとすがり付いた。

 あの時の七ちゃんは女神様のように荘厳に見えた。僕の命を救ってくれた救世主だ。あと、中学校の制服姿可愛かった。




 僕は彼女に憧れたんだ。彼女が手を差し伸べてくれる度に、なんて素敵な人なんだろうって尊敬してた。僕には誰かを助ける余裕なんてない。自分のことで精一杯……いや、自分のことすらまともにできなかったから。


 そして全てのきっかけは、今も彼女の右足の太ももに刻まれた傷。小学校4年生の頃、特訓と称して彼女が僕を連れ、プチクラ山へ肝試しに行き、山犬に噛まれた跡だ。


「……」


 思い返す度に拳に力が入る。怒りから来る凄まじい力だ。なんでこの力が、あの時の僕に備わっていなかったんだろう。僕が弱かったせいで、七ちゃんを守れなかったせいで、彼女は体に深い傷を負ってしまった。


“七ちゃん……傷、痛くない?”


“これくらい……大したことないわよ”


 想像するだけで腸が煮え返る。僕は泣きわめいてばかりいたのに、彼女は僕を守ってくれた。なんて情けないんだ。男のくせに、女の子の七ちゃんに助けられるなんて。

 彼女のスカートからそそり出る綺麗な足にあの傷があると思うだけで、自分の弱さに苛まれる。


 そして、僕は死に物狂いで自分を追い込んだ。たくさん体を鍛え、たくさん勉強して、彼女を守るための力を付けた。辛くても、苦しくても、泣いても頑張った。

 七ちゃんへの恩返しのためだ。僕を助けてくれてありがとう。守ってくれてありがとう。今度は僕が助ける番だ。男として。


「……」


 そして、忘れてはいけないことがある。七ちゃんは女の子ということ。




 知り合った頃は男勝りで、天真爛漫な明るい子だった。裏表のない姿がとても魅力的で、誰に対しても本音で接する素敵な女の子だ。

 でも、いつしか僕は彼女の背丈を追い越していた。当然歳を重ねれば、男女の体のつくりに明確な違いが生まれる。明るい性格は変わらないものの、僕と同様に彼女は変わっていった。


 短かった髪が長くさらさらになり、瞳は大きく綺麗に、手足はスラッとしていてモデルさんのようになった。肌もしっとりとして白く輝いている。胸の膨らみはまさに女の子特有だ。声も透き通っていて美しい。

 可愛い。本当に可愛い。でも、時折見せるあざとさや、非力で弱々しいところが心配になる。


“今の僕なら、七ちゃんを守れるのかな……”


 小学生の頃のピクニックの写真の隣にもう一枚、高校の入学式で撮った制服姿の僕と七ちゃんの写真がある。僕の方が七ちゃんより一際大きい。当然だ。僕は男で、彼女は女なんだ。僕達は良くも悪くも変わってしまった。


 彼女はとても強いけど、どこかか弱い女の子。だからこそ守ってあげなくちゃいけない。この世に蔓延はびこる数多の悲しみや苦しみから。


 ならば、誰が守る? 僕しかいないだろ。今まで彼女に助けられ、情けないところを見せてきた。それでもようやく強くなれて、力を手に入れた僕しかいない。


 ずっと彼女の隣で生きてきた……僕しか……。




「星~、ご飯よ~」


 お母さんが呼んでいる。一階に行くとしよう。一旦現実に意識を戻し、部屋を出て階段を下りる。それでも、七ちゃんへの誓いは決して忘れない。


“七ちゃん、僕が守るからね……”


 部屋の窓から見える大きな夜空には、綺麗な星が強い輝きを放っていた。


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