第2話「星の決意」



 彼女が僕の視界によく写るようになったのは、一体いつからだろうか。気がつくと、僕の隣にいるようになった。そして、この世の全ての幸せを一人占めしているかのような、朗らかな笑顔を浮かべている。


「君はどうしていつも笑っているの?」


 ふと僕は聞いてみた。彼女がいつもまぶしい笑顔を浮かべ、幸せそうに生きている理由を。きっと僕が苦し紛れに笑っても得られない幸せの在処を、彼女の笑顔をつくる口元の細胞はよく知っている。


「私は強い人間だから!」


 僕は彼女の気持ちが理解できなかった。僕は確実に弱い人間だからだ。僕は運動場で転んで傷ができてしまったら、僕は痛みに耐えられず、わんわんと泣きわめいてしまう。

 しかし、彼女は土や砂を払い、唾をつけて立ち上がってしまうらしい。


「うーん……」


 また、僕は一生懸命作った粘土細工を誰かにいたずらで壊された時は、悲しさに耐えられず、これまたわんわんと泣きわめいてしまう。しかし、彼女はいたずらしてきた子にやり返し、せっせと作り直してしまうらしい。


 


 どうしてそんなに強いんだろう。どうして泣かずにいられるのだろう。痛みや苦しみなどを、彼女の体は感じたことがないのだろうか。けろっとした表情でやり過ごすなんて、僕には到底できっこない。

 僕は産声を上げた瞬間よりはるかに大量の涙を流して泣きわめくような弱い人間だ。それ故に、彼女の返答は僕にとって理解し難いものだった。




「ねぇ、弱い自分は嫌い?」

「……うん」

「じゃあさ」


 彼女はとても綺麗な手で僕に手を差し伸べた。



「私が特訓してあげる」






 彼女は僕に臆病さを克服させるために、特訓を付けると言い出した。僕が連れてこられたのは、遊園地のジェットコースターやお化け屋敷などの絶叫マシンだ。彼女はそれらを体験し、屈強な精神力を鍛えろと無茶なことを言い出した。


「わぁぁぁぁぁん」


 もちろん僕はわんわん泣きわめいた。怖い。怖すぎる。どう頑張っても耐えられる気がしない。いくら待てど乾かない涙が溢れ出るばかりだ。僕は彼女の膝にすがり付き、幼稚園児のように震えた。


 この一件により、僕はお化けがトラウマとなってしまった。科学では説明のつかない未知の存在のことを認識するだけで、体中鳥肌が立ち、冷や汗が垂れて震えが止まらなくなる。


「お化け嫌だ……お化け怖い……」


 僕は彼女に手を引かれながら、遊園地を後にした。




 情けない。実に情けない。男のくせにこんな泣き虫様を晒して、女の子に助けてもらってるなんて、僕は本当に臆病者だ。




 でも、僕だって本音を言うと、自分の悪い癖を治したい。このままではいけない。男ならどんな事態を前にしても堂々として、勇敢に立ち向かっていきたい。




 それなのに……


「嫌だ……嫌だぁ……」

「いいから行くよ!」


 彼女は逃げ出そうとする僕のシャツの裾を掴み、夜のプチクラ山の山道へと進もうとする。彼女は最後の作戦としてプチクラ山の暗い夜道を歩き、一周して戻ってくるという肝試しを計画した。


「嫌だぁ……怖いよぉ……」

「しっかりしなさい! 男の子でしょ!」


 無理だ。時刻は既に午後8時を過ぎている。僕達はまだ小学生なんだよ。子どもだけで夜の山中を歩き回るなんて、危険極まりない。恐ろしいものが出てきたらどうするんだ。暗いし、怖い。


 それでも、彼女は僕を引っ張って山道を歩く。彼女が羨ましいよ。どうしてそんなに物怖じせずに振る舞えるんだ。女の子なのに心も体も強くてたくましい。それに比べて、僕はなんて弱いんだ。


「こんなのちっとも怖くないわ。ほら、さっさと歩きなさい」


 彼女は懐中電灯を照らし、胸を張ってズカズカと山道を進んだ。僕はその後ろを弱腰で付いていった。






 僕の悪い予感は的中した。雑木林から突然山犬が顔を出し、僕達に襲いかかってきた。


「うわぁぁぁ!!!」


 そういえば学校の先生が言っていた気がする。ペットの犬が山に捨てられて、野生で凶暴化することがあるって。ハイキングに来ていた人が襲われて大怪我したことがあるとか。


 そんな呑気なことを考えてる暇もなく、僕は情けない泣き声を立てながら逃げた。


「嫌だぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」


 一緒に来ていた彼女も、流石にまずいと思い逃げている。いくら強い彼女と言えど、凶暴な山犬の前では当然ながら逃げるしかないみたいだ。



 ガシッ


「うわっ!」


 すると、あろうことか地面のくぼみにつまづき、勢いよく横転してしまった。


「痛た……」

「大丈夫!?」


 彼女はすぐさま僕に歩み寄り、抱き起こしてくれた。彼女だって早く逃げないといけないのに、なんて優しいんだ。自分の膝を確認すると、擦りむいた箇所から血が滲み出ていた。


 そして瞳からも涙が……。


 ガルルル……


「うわぁ! 嫌だ! パパ……ママァ……」


 山犬がすぐそこまで迫っている。僕は頭を抱えて縮こまってしまった。もはや逃げる体力も気力もない。完全に恐怖と痛みに体が支配されてしまった。


「助けて……助けてぇ……」


 自分の臆病さに心底嫌気が差す。どうして怯えてばかりしかいられないんだ。こんなことをしていても、山犬が見過ごしてくれるはずもない。

 

 そして、彼女にも申し訳ない。男のくせに、女の子を化け物から守ることができない。




 ごめん……七瀬ななせさん……






「うあぁぁぁぁぁぁぁ!!!」


 すると、悲壮な叫び声が耳に飛び込んできた。反射的に頭を上げると、山犬に噛まれている彼女の姿が目に飛び込んだ。


「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」


 山犬は彼女の太ももに鋭い牙を食い込ませる。彼女は痛みをかき消そうとするように叫ぶ。彼女は短パンを履いていたから、太ももから直接生々しい血が溢れ出る。


 そうか、彼女は僕の身代わりに噛まれているんだ。


「あっ……あぁ……」


 僕のせいで……僕が逃げて怯えていたせいで……彼女が苦しんでいる……




 バシッ




 気付いた時には、体が動いていた。僕は山犬を彼女から離すために、勢いよく突き飛ばした。山犬は前方へと転がっていった。


「や、やめろ……これ以上……な……七瀬ななせさんを……か……噛むなぁ!」


 自分でもなぜこんなことをしているのか理解できない。いつものように瞳には大粒の涙が乗っかっている。それでも山犬から彼女を守るために、両腕を広げて立ち塞がった。




「や、やめ……」


 それでも、山犬は体勢を立て直して起き上がる。所詮小学生の力で一回突き飛ばしただけだ。ましてや僕の腕力など皆無に等しい。当然大したダメージを与えられず、山犬は再び僕達を睨み付けてくる。僕は弱腰に戻ってしまった。


 そして、山犬は再び飛びかかってきた。


「うわぁっ!」




 バン!






 凄まじい銃声が僕達の耳をつんざく。次に目を開けた時には、山犬は脱け殻のように横たわっていた。細かい血渋きを地面に撒き散らしながら。


「パパ……」

「七瀬」


 背の高い男の人だ。狩猟用のライフルを手に、静かに佇んでいる。彼女がパパと呼んでいることから、きっとお父さんなんだろう。彼女のお父さんが僕達のピンチを救ってくれた。


「二人共、早く山を出よう」 

「うっ……うぅ……」


 彼女の瞳からも大量の涙が溢れ出ている。いくら強い彼女でも、こんなに怖い目に遭ってしまっては怯えるのも仕方がない。僕だって自力で起き上がれなくなるくらいに怖かった。


 彼女のお父さんが僕らを抱きかかえようとする。


「待って……」


 僕は彼女を呼び止めた。彼女の太ももが目も当てられないほどに血まみれになっており、見過ごすことができなかった。ポケットからいつも持ち歩いている絆創膏を一枚取り出し、彼女の傷口に被せる。


 しかし、溢れ出る血の量が尋常ではないため、小さな絆創膏は血に滑って流れていってしまう。


「あれ? 待って……うぅ……」


 僕は何枚も何枚も絆創膏を貼り続ける。しかし、傷口にぴったり貼り付けられることはない。この時の僕は冷静ではなかった。先に血を拭き取るという考えが起こらなかった。


「大丈夫だよ……これを貼っておまじないをかれけば……すぐによくなるから……」


 再び涙が溢れ出てくる。絆創膏を貼っておまじないをかければ、傷なんかすぐに治るって、この間彼女が教えてくれた。早くくっ付け……治れ……。


 それでも、絆創膏は一向にくっ付かない。僕の力では彼女の傷は癒せないようだ。




「七瀬さん……ごめんね……」


 今すぐ死んでしまいたいほどに恥ずかしい。僕は男でありながら情けなく泣きわめいて、女の子を守ることもできなかった。逆に自分が守られ、彼女を傷付けさせてしまった。


 全部僕のせいだ。僕が弱いのがいけないんだ。




「星君」

「え?」


 すると、彼女は僕の頬を流れる涙を拭い、申し訳なさそうな表情で呟いた。




「……ごめんね」


 なんで彼女が謝るんだろう。僕が弱いのがいけないんだよ。僕が男のくせに弱虫で、泣き虫で、どうしようもない臆病者だからこんなことになってしまったんだ。




 あの夜、僕は心に誓った。このままではいけない。弱い自分を変えたい。強くならなきゃ。絶対に強くなってやる。




 強くなって……今度こそを守るんだ。


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