プラモデル

しおまねき

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 昇降口から外へ出ると、パタパタパタ、パタパタパタ、傘の上で雨が跳ねた。カシミヤのように毛羽立つアスファルトを踏みしめるたび、靴下に水がしみて、足の裏が冷たくなった――その日は朝から大雨だった。街路のモクレンがひとつ散った。


 昔のアイドルが歌うことには、春は別れの季節だそうだ。私もそう思う。卒業式が近づくにつれて、心を通わせあったはずの私たちの関係が、やおらにその実体を失っていくのがわかる。別れ際の、また会おうね、という言葉に、うわごとめいたむなしさを感じながら、誰もがそれに口をつぐんでいる。私たちがそうして痛みをごまかしあうことを、おかしいいとは思わない。そうするのが、きっと正しいことなんだ。


 私は、もやがかかって鮮やかな鼠色になった山道を、ひとりで歩いて帰った。まだ昼前だ、サッサと帰れば、家でゆったり寛ぐ時間が取れるだろう。にぎやかな同級生たちの声を惜しみつつ、足早に歩を進めてゆくと、しだいにあたりは静寂に包まれ、私の呼吸と、足音が、奇妙に同期するような感覚を覚える。いち、に、さん、いち、に、さん…………地面をパチパチと鳴らしながら、雨の中をこうして歩くのは、私のひそかな楽しみだった。


 * * *


 ところが、その日の計画は、あっけなく駄目になった。ようやく家に帰ってきたところで、自分が玄関の鍵を持っていないことに気づいたんだ。


 家族はみんな出掛けているし、昨晩、勝手口に錠をかけたのは、ほかでもない私だ。泥でべちゃべちゃの庭を回って確認したけれど、残念ながら、窓はすべて閉まっている。こじんまりした家庭にありがちな風習で、合鍵が庭のどこかに隠れているということも、ない。しまった。八方塞がりである…………家の中に入る伝手を失ってしまった私は、プラスティックの小さな廂にもぐり、十年来の住民さえ快く迎え入れてくれない、薄茶けたドアの前で、ぽつんと立ち尽くすしかない。どうしよう? 立ちっぱなしで脚がつるまで、ここで家族の帰りを待つよりは、駅まで戻り、喫茶店やらで時間を潰したほうがよいのだろうか? それとも、友人の家に転がり込むか?


 私がそこでもじもじしていると、つと、ブロック塀に挟まれた門の向こうから、こちらを見つめる人物に気づいた。それは、私と同じくらいのとしで、淡黄のブラウスに赤いアーガイルのカーディガンを羽織った女の子だった。正方形のスクールバッグと、甲のところに深いしわの付いた、てかてかした革のローファーとが、いかにも、学校帰りの女生徒にふさわしかった。

 近づいて検べるまでもなく、私は、あっ、あの子だっ…………、と直感した。どこか少年のようなあどけなさを残した顔立ちに、金糸雀カナリヤのように柔らかなバターブロンドの髪、鳶色の丸い瞳。背は伸びていたけれど、片足を引いて斜めに構える立ち姿には、確かに見覚えがあった。向こうもすぐに私のことを感じ取ったんだろう。笑いかけて手を振るか、あるいは、泣きながら飛びついてみせるか、どちらか分からない、という表情で、不安そうに傘の柄を撫でた。実のところ、私もまた、喜ばしい表情を浮かべることができていなかった。つまり、お互い、私と彼女の間にまだ一縷でも友情が残っているか、それを証せないでいるのだった。


 ――――そう、昔、彼女とは親友だった。でももう、ずいぶん長いこと会っていなかったんだ。というのは、彼女は、小学校の五年生に上がる直前、この街を去ってしまったから。それ以来、彼女とは手紙の一通、いや、電話の一本でさえ、交わすことはなかった。連絡を取ろうと試みたことはあった。しかし、当時の友人や、その親を当ってみても、彼女がどうなったかは分からないということだった。いつのまにか、私たちの間では、彼女はどこか遠くの国へ行ったとのうわさが立った。

 そんな経緯があっても、私が彼女のことを記憶に留めおけたのは、彼女がハーフで、その外見が周りと違っていたからではない。私は、なにより、その春日遅遅とした人柄に惹かれていたんだ。彼女は、ませた学生のやるように、上っ面の愛嬌を身につけるのではなく、その代わりに、色彩をまとった。ルノワールのように笑い、ラ・トゥールのように泣いていた。ロマンチストの私には、それがとても魅力的に思えた。もちろん、皆が彼女の性質をそう捉えていたのではなかったろう。彼女の周りにいたのはいつも、代り映えのしない数人だけだったのだから。


「あッ……久しぶり! やっぱり、あなたね! また会えて嬉しい」


 声を出したのは、あちらが先だった。


「本当に久しぶり。私も嬉しいよ、…………元気だった?」


 飛び飛びの会話の空白は、二人を引き裂いた年月の長さを象徴しているようだ。だけれども、その間に少しずつ紡がれる言葉には、わずかの含みもなかった。ほんの少しだけ低く、落ち着いた彼女の声に、胸の奥がじわりとする。


「うん。…………私のこと、覚えててくれたんだ? 小学生以来なのに」

「あは、忘れるわけないよ。そっちこそ、よく私だって分かったね」

「分かるよ。ほくろの位置がおんなじ」

「うそ。……これで私を見分けてるの?」

「まさか、冗談。そんなの見なくったって、分かったよ」


 くすり。彼女が頬に手を当て、しめやかに笑う。私もつられて、口角が上がる。昔なじみの無遠慮な冗談ほど、懐かしさを刺激するものって、一体あるだろうか? 私は、傘を開き、彼女に歩み寄る。


「実は、家の鍵を忘れちゃってさ、ここで立ち往生してたの」

「ええっ……それは大変……」

「だから、駅に戻ろうかなと思って」


 そう言って彼女の方に目をやると、彼女は、目をしばだたかせ、何か頭の中で考えを巡らせているように見えた。そうして、頭に浮かんだ単語をそのまま声に出しているような、ふらついた調子で、


「ねえ…………、もしよければ、私のうちに来るのはどう? ここから近いし、それに……その、あ、お金もかからないし」


 と言った。最後に付け加えたひと言のときだけ、ばつが悪そうに声をひそめつつ。

 私は、彼女の提案に驚いた。彼女と話せるのはうれしいし、雨宿りの場所ができるのもありがたいのだけれど、あまりに急ではないか? ……私は、彼女が悪い人間ではないことを知っている。とはいえ、ちっとも警戒をしていないわけじゃない。親友とはいえ、会うのは、もう七、八年ぶりだ。彼女が考え込むようなそぶりを見せたことも気にかかった。浮ついた様子でいたら、むしろ信用できたかもしれない。

 でも、断るほどの理由もなかった。


「ありがとう。お言葉に甘えようかな」

「よかった、じゃあ、ついてきて」


 彼女がぴたぴた歩き出し、私はそれに従った。二人の傘の上で、雨がいっそう激しくなった。


 * * *


 その赤屋根の小さな家には、すぐ着いた。木造で、壁や装飾の感じは年季が入っているけれど、一度リフォームが施されているみたいだ。柱のペンキはきれいだし、スイセンがまばらに咲く花壇は、すべすべした新しい煉瓦に囲まれている。

 彼女は品のいいオリーヴ色の傘を閉じて、猫をかたどった傘立てに挿した。私の赤いのを、その隣にもたせかける。現代的なデザインの玄関扉を引くと、フローリングの廊下と、二階へ続く階段が見えた。廊下の壁には家族旅行の写真がかけられていて、この家庭がそれなりにはうまくいっている――あるいは、もしかしたら過去形かもしれないけれど――ことを来客に示している。


「おかあさん、友達と部屋にいるからね」


 彼女が廊下の奥のキッチンへ叫んだ。キッチンからは水の音がジャアジャア鳴るだけで、返事はない。でも、それが了解の合図なんだろう。彼女は大きく扉を開いて、私を招き入れた。


「さ、上がって」

「急に押しかけて、ごめんね」

「いいのよ、私が呼んだんだから」


 彼女は、よくできたラタンのバスケットから、ふかふかの白いタオルを取り出し、顔を拭いた。細い黄金きんの髪は、その生地によく映えた。まるで、おろしたてのカンバスに刷毛ですうっと線を引いたみたいだ。彼女は、私にも新しいのを一枚渡してくれた。柔軟剤の良い匂いがした。


 彼女の部屋は一階にあった。かわいらしいけど洗練された、瀟洒な部屋だ。ヴィンテージふうのラバ・ランプとか、ガラス天板のテーブルとか、英語の本が並んだローズウッドのローシェルフみたいなものは、彼女が選んだのだろう。ああ、とくに、『エミリオ・プッチ』のショーウィンドウで見たことがあるような、薄桃と白と檸檬が、水切りの波紋みたく輪になった柄のソファなんかは、彼女のイメージにぴったりだ。


「座って、楽にしてね」


 私はその縞のソファに腰掛けた。ところが、勢いあまって、危うく後ろに転びかけてしまう。ごとり、と大きな音がして、テーブルに足をぶつけた私は、そのあまりの衝撃と恥ずかしさに、思わず泣きそうになった。音に気づいてこちらを見た彼女は、口に手を当て、あっけにとられている。痛みをこらえつつ、必死に苦笑いをすると、彼女のほうは、笑わないよう努力していた。私たちはしばらく顔を見合わせ、…………同じときに吹き出した。もう、それだけで、遠慮も心配も、要らなくなってしまった。私たちはすぐに仲良しの友だちに戻った。彼女が私の隣に座って、足を押さえている私の肩をさすってくれた。近況も語ったけれど、会話は自然と想い出話になった。不思議なもので、彼女と話しているうち、曖昧な想い出の断片が重なって、像を結んでゆくのである。彼女が捕まえた虫に、私はずっとおびえていたこと。小さなアイスを分け合って食べたこと、私がすべり台から落ちそうになって、彼女の父親が支えてくれたこと。…………


 そのうちにノックが二回あった。彼女の母親が、飲み物を運んできてくれたのだ。私もその女性のことは知っていた。物腰の柔らかい人で、身なりにとても気を使っているんだなと、子供ながらに感じたことを覚えている。今はゆるい部屋着を身に着けているけれど、それでも、一挙手一投足から、身につけられた教養の高さを窺い知ることができる。母親は、切子のコップを盆からテーブルに移し、


「この子と遊んでくれて、どうもありがとうございます」


 と、うやうやしく頭を下げた。という、その大仰な物言いは、その人の口から出るにはどうにも過剰な気がした。彼女をよく見ると、目の下にはができているし、やせて頬骨がすこし出てきたように思われる。だが、私の記憶の中の彼女は、もっと生き生きした人物ではなかったか? ……もちろん、年齢のせいかもしれないが、どうも、それだけとは考えられなかった。なにか病気でもしたのだろうか? …………私の勝手な想像をよそに、目のはしで笑った友人は、


「リンゴジュース。おかあさんの実家が、育ててるから。毎年送られてくるんだ」


 と、私にコップを渡した。それは果肉入りの上等だった。コップを傾け、よく冷えたジュースを少し飲むと、口の中でしゃくしゃくとリンゴのつぶれる音がした。……甘くておいしいね。うん、これは私も好き……彼女は口を小さく開いて、こくこくと飲んだ。


 昔から彼女は、周りの人が不安になったときにかぎって、きまって粛然としていた。暢達な活気の中に、どこか潔癖で、私たちの手の届かない高尚さを持っていた。そう、この一見奢っているとも、斜に構えているとも取れる性質が、皆を彼女から遠ざけたのかもしれなかった。しかし、彼女は、そんな下品な妬み嫉みにも、夜の静寂しじまの中に一人佇むような態度で対決するのだ。さっき私の胸をよぎった不自然さの正体がなんであれ、彼女を邪魔することはできまい、と思った。


「ねえ、あなた、将来の夢はあるの?」


 おもむろに、彼女が私に訊いた。


「なんでもいいわ。したいことでも、なりたいものでも、なんでも……」

「なぜそんなことを訊くの?」

「いいじゃない。気になるの」


 私は、ためらったけれど、


「そうね、私は…………実はね、ちゃんとした職業はきまってないの。でも例えば、――――そう、貧困地域で子どもたちの支援をするとか……そういうことがしたいなって思ってる。むかし、ボランティアに行って、興味を持ったの。たったそれだけで、大きな意味があるわけじゃないけど」


 正直にそう答えた。別に隠しているわけじゃないんだけど、夢を語るのはいつでも照れくさい。私の夢が、きれいごとに聞こえてしまうのが、怖いんだ。でも彼女は、


「すごいわ! それって立派なことよ。そういう夢を持つってのは、真に優しい人ってことよ。あなたって、やっぱりいい子ね」


 と、きっぱり言い切ってくれた。私は彼女の純真な瞳の暖かさに安堵しながら、自分の幼稚なプライドを恥じた。かなわないな。…………彼女があんまり褒めるので、あがり症の私は、すぐに真っ赤になってしまいそうで焦った。咄嗟に、彼女の夢も訊いてみよう、と考えついて、


「じゃあ、あなたの夢はなんなの?」


 私が彼女に尋ねた、その瞬間だった。彼女が私に、ちらりと不安げな視線を投げてよこしたんだ。その動きは、山にかかる薄雲の影がゆらりと動くほどの、ごく微かなものだったけれども、はっきりとわかった。なにかまずいことをしたのだろうか。心臓がどきりと鳴った。しかし彼女は、またすぐにすまして、


「実はね、あなたに見せたいものがあって」


 と言った。


「見せたいもの?」


 こっちだよ、と彼女は家の二階へ向かった。狭い廊下を進んで、富士山の絵付きのふすまに立ち止まると、これ、私が作ったんだよと言った。私が、襖の話? ととぼけるてみたら、違う違う、と笑って、


「今から見せるね」


 襖を開けた。背の高いシェルフに、真っ黒な塊がズラリと整列している。彼女が吊り電球のスイッチを引くと、オレンジ色の細い光が放射状に広がり、その正体を照らし出した。


 それは、プラモデルだった。


 せせこましい部屋に、飛行機やら戦車やらの精巧なフィギュアが、何十個も置いてある。私には、どれがなんの型式だとか、そういうことはわからなかったが、彼女の腕前の卓越しているのは理解できた。小さなジオラマの中の、これまた小さな人形たちは、今にも、金切り声で突進の合図を送り、闘いの火蓋を切ってしまいそうだ。どぎまぎしながら、目の前の模型へ目をやった。


「これ、何?」

「それはね、シュトゥーカ。第二次世界大戦のドイツ機。三十七ミリの迫力が好きなの」


 かつてヨーロッパの空を駆け、その雷名を轟かせたのであろう金属製の飛行機が、私の両目をしっかと睨んだ。鉄色の塗装がギラリと光り、異様に太い脚と翼で、私のことを威嚇している。これはこうで、あれはなにで、それで――彼女は模型のひとつひとつを指さして説明した。シュトゥーカ、ライデン、アハトアハト、スターリン。ひとつ名前を呼ぶたびに、彼女の声がギャロップする。ピアニストのような細い指で、無骨な模型戦車を持ち上げ、背中を反らせて陶然と眺める彼女の姿が、なんだかちぐはぐだった。…………私は、彼女に、聖歌隊で歌う少女の幻影を見ながら、いっぽうで、小銃を握ってこちらを見つめる少年兵のイメージを、そこに重ねた。はかないオレンジに染まった唇に浮かぶ、素朴な気高さをたたえた微笑と、蝋燭のように揺らめく彼女の瞳に、私は見惚れた。


「どうしてこれを私に見せてくれたの?」


 私が尋ねた。彼女は戦車を見つめたまま答える。


「ねえ、私はずっとイギリスにいたの。日本にいる友だちとは全然会えなかったのよ」


 そうか。やはり、彼女が突然いなくなったのは、外国に行ったからだったんだ。はじめて知ったことだけれど、なぜだかするりと合点がいった。あの噂のおかげかもしれない。それか、外国人である彼女の父親のせいかも。彼女は模型を棚に戻して、私を見る。


「あなたにこれを見せたのはね、あなたといちばん仲良しだったから。いっとうに見せたいと思っていたの…………」

「そう……うれしい、ありがとう」


 顔のどこかに諦めを偲ばせ、彼女は笑った。


「うん。見せられてよかった。私、これは処分しようと思っているから」

「ええっ!」


 吃驚した私の声は、家の外まで聞こえてしまうのではないかと思うほど、よく響いた。彼女は寸時目を閉じると、


「あは…………遠くの大学に行くから、一人暮らしなの。春からね。狭いアパートに模型飾ってても、でしょ」

「でも……この家にずっと置いていても、いいのに? こんなに上手なら」

「そうね…………そうかもね」


 …………私は彼女の真意を測りかねた――私が彼女に夢を訊いて、彼女はこれらを見せた。それならば、これは彼女の夢なのではないか? どういうことなんだろう? …………でも、彼女がこうして口を閉ざしてしまったときは、どんな方法も無駄なんだ。硨磲貝の口を割るような手応えで、うんともすんともならない。きっと、彼女が自分から言わないかぎり、追及すべきではないのだろう。彼女がこの閉ざされた四畳半の世界に私を招待しただけで、十分、大きな決断だったのに違いない。私は部屋をぐるりと見渡した。


「あのね。私のおとうさんは、空軍のパイロットだったのよ。イギリスでの話だけど」


 突然、彼女が口を開いた。パイロットという描写の仕方に、何かひやりとするものを感じ、息を凝らした。すると、にわかに、その卵の殻のような瞼へ、涙が満ちていくではないか。…………呆然とする私の前で、輝く小さい粒が、つうと流れた。


「本当は、私も空を飛びたかった」


 彼女は、言い終わる前に目を伏せた。畳の上に落ちた雫は音もせず、ただゆるやかに、藺草の繊維の奥へと染み込んでいった。荒い息とすすり泣きの音が、薄暗い部屋に谺する。私は、軽い目眩を覚えつつ、座ったまま彼女の傍に寄る。小さな手を握ると、彼女は、ごめんなさい、と囁いた。


「大丈夫よ、大丈夫だから……夢なんでしょ? 諦めちゃだめだよ…………」


 言うまいとしていても、舌が勝手に動いてしまった。そんな在り来りな慰めの文句が意味をなさないのは、わかりきっていたのに。私は自分の貧しい発想を呪った。


「諦めるとか、そういうんじゃないの」


 彼女は嗚咽の合間に声を絞り出し、私の手を強く握り返した。おとうさん、と、露の消え入るような声がして、心臓がきゅうと締まった。私の頭に、或る不吉な予感がして、それが段々と増幅してゆく。やがて頭が結論に達しても、状況が好転することはなかった。私は、悲しみに暮れる彼女の隣で、それを見つめることしかできない。皆の前で超然と振る舞っていた彼女も、いまや、私の掌に縋って、ぶるぶると体を震わせている。涙が彼女の輪郭となって、触れ合っている二人の肌の間に、湿っぽい、虚ろな壁を作っていた。


「ごめんなさい……もう雨も上がったでしょう、帰っていいのよ――――」

「でもっ…………」

「帰って! ……おねがい……」


 ……救いの神を求めるように、天井を見上げても、そこには電球がひとつ、ふわふわ揺れているだけだった。そうだ。この模型は、彼女の夢なんだ。彼女は夢と訣別する積りなんだ…………。なにか声をかけてあげなければいけない。なのに、のうのうと動いていたはずの口は、酷く腑抜けて、役立たずになってしまった。私は、涙淵に沈む彼女の体を引き上げることさえできず、それどころか、私まで奈落の底に沈んでしまう気持ちだった。なんと、この愚図め! 

 私は、辛うじて彼女を引き起こし、母親の許へ連れた。

 母親は、全てを承諾していたごとき態度で、私に引き取るよう告げた。私はそれを甘受するしかなかった。私は、何に追われているわけでもないのに、雨上がりの灰雲のなかを、走って帰った。木から零れて斜めに降る水滴が、冷たい私の頬を濡らした。帰る途中で、彼女と遊んでいた公園の隣も通った。あのすべり台はなくなっていた。余所見をしていたからか、愚鈍な私の脚が何度ももつれて、転びかけた。


 幸運にも、家には兄がすでに帰ってきていた。私は、心配する兄をなだめて自分の部屋に入り、布団へ倒れこんだ。あのリンゴジュースをまだ飲み切っていなかったのを、眠る前に思い出した。


 * * *


 卒業式は滞りなく行われた。連日の雨が今日は止んで、快晴とは言えないまでも、清々しい陽光が私たちを包んでいた。かまぼこ屋根の校舎は、歓喜と喧騒とに色めき立っていた。私は、百数枚に及ぶのではないかという写真撮影にクタクタになりながら、帰路についた。私は、心そこから喜ぶことはできなかった。数日前、彼女と出会ったときのことが、心の縁に溜まる灰汁のように、私の心に引っかかっていた。


 家の前まで戻ってくると、驚いたことに、そこにはまた彼女がいた。大きなボウタイがいじらしい、ピンク色のワンピースを着て、麦わら帽子を被っていた。今日は、スクールバッグじゃなく、キャリーケースを持っている。彼女は、私を見つけると、大きく頭を下げて、


「ごめんなさい、あなたのこと待ってたの。この間のことを謝りたくて。これ、お礼」


 と言った。彼女が持っていたのは、瓶詰めのリンゴジュースだった。遠慮する私に、おかあさんはどうせ飲み切らないんだから、と持たせた。


「実は、今日ここを発つから。お別れを言いに来たのよ」

「もう出ていっちゃうの」


 彼女は静かに頷く。じゃあ、見送るよと言った。すっかり疲れていたはずなのに、ごく自然にそうしたいと思えた。私はただ、最後の時間まで彼女に付き添っていたかった。今さらだけれど、それくらいしか私にできることはないと思った。

 私たちは、アルミ色の東海道線に乗って、街の大きな駅へ出た。彼女の母親も、そこで待っていた。都会の駅も、昼下がりにはひとがまばらで、以前ここへ来たときとは比較にならないほど、ゆったりした時間が流れていた。ひび割れたプラスティックのベンチが、哀愁をさそった。


「私、日本に帰ってきてよかった。あなたに会えたからね。向こうにいたときは、二度と会えないと思ってたから」


 そう言いながら、彼女はボウタイを掌に載せて遊んだ。彼女の眺める地平線には、高い山々が霞んで、空の端を歪にしながら、刻一刻とその形質を変化させていた。


「あなたの夢、素晴らしいと思うわ。世界中の人と出会える仕事よ」

「それは――ありがとう、あの…………」

「……こないだ、ごめんね。私、どうかしてた。久しぶりにあなたと会えたので、舞い上がっちゃったのね。ほんとに……」


 その言葉を聞いて、私は、今、ここで謝らなくちゃいけないと思った。あなたは謝らないでいいの、そうすべきなのは、私の方……、…………そう言いかけたとき、けたたましいチャイムが鳴って、まもなく電車がまいりますとアナウンスがあった。どうやら、彼女はそれに乗るらしく、慌ただしく荷物をまとめて、立ち上がった。私もつづいて腰を上げた。深呼吸のあと、彼女がしおらしく首を傾げて、白い歯を見せた。


「私、決めたの。いつかきっと、ちゃんと勉強して、操縦士になるわ。飛ばすのは、戦闘機じゃなくって旅客機がいいけど」

「――あの……それなんだけどね。あのとき、私なんにもできなかった。なにか、声をかけてあげるべきだったのに……。本当に、ごめんなさい」

「ううん。あなたと話して、あの部屋を見せて、そしてあなたが手を握ってくれて……、おとうさんのこと、いろいろ思い出せたの。それに、あなたが模型を褒めてくれてね、――――私、とても嬉しかった。それのお礼を、言ってなかった」


 そして、背中を伸ばして脱帽し、敬礼のふりをしてみせた。彼女に促されて、私もそうした。それから、姿勢を崩して大きく手を拡げた彼女は、私の背中へ両腕を回した。


「こうするのも、ずっと夢だったんだ」


 彼女が低く呟く。瞬間、私は戸惑ったけれど、すぐに彼女を強く抱き返した。梔子の髪が私の鼻を擽って、甘い香りがした。


「あなたと話せて、私、本当によかった」


 彼女はそれ以上のことは言わなかった。私もそれ以上訊かなかった。しばらくの沈黙は、決して居心地の悪いものじゃなかった。彼女の温度が私の内側へ伝わって、しゃぼん玉のように弾けた。それは、故郷の空を懐かしむような、もどかしい春の木漏れ日に似た、優しいあたたかさだった。


 そのうちに、新幹線がやってきた。私たちは、再会を約束してそこで別れた。あなたの夢が叶ったら、きっと私があなたを乗せて、どこへでも連れて行ってあげるわ、と、そう彼女は言った。そして、流線型の超特急は、目を疑うほど速く彼女を連れ去ってしまった。


 * * *


 帰りの電車のなかで、トンネルの明かりが走馬燈のように瞬いていたのを憶えている。窓がぴかりと光るたび、闇の中にゆるい陰影が浮かび上がった。私は電車に揺られ、まどろみの中に引き込まれていった。


 ……青春の悶え。

 噛んだ唇に滴る血の味。

 ラ・トゥールの蝋燭。

 火傷のような傷ましさ。

 曙光に歌う渡り鳥。

 誰かがくれたピンクのリボン。

 あの子が着ていたアーガイル。

 疾走する電車の中で、私は夢を見た。……


 はっと目を覚ますと、もう地元の駅に戻ってきていたので、急いで降りた。彼女の母親も一緒だった。私が挨拶して帰路につこうとすると、彼女は私を呼び留め、袋をひとつ渡してきた。


「主人があの子に買ったものです」


 袋の中には、古くなった紙の箱が入っている。取り出そうと掴んでみたら、ガチャガチャと音がした。箱のオモテには、大きな飛行機が三機、草原の上を飛んでいるイラストがある。その下には、"SPITFIRE Royal Air Force"の文字。誇らしげなユニオン・ジャックのシンボルを見るに、たぶん、英国イギリスの戦闘機だ。


「あの、これは…………」

「あの子が、あなたにと」


 箱を裏返すと、大きな文字で、私にも読めるくらいの、かんたんな英語のメッセージがあった。父親から娘に向けられたものに間違いなかった。その隣に、真新しい黄緑の付箋がついている。こちらは日本語で、『これはプレゼント。作ってみてね』。

そのとき、私はあっと気づいた。あの部屋で、彼女がほんとうに眺めていたのは、シュトゥーカじゃなかった。それを迎撃するスピットファイアだったんだ。彼女は、父親が生まれた国の戦闘機に、父の姿を投影していたんだ。


 それが切欠だった。私は、私が目を逸らしていた恐るべき事実が、心の底から這いだしてくるのをはっきりと感じた。私たちは、出会いと別れの繰り返しから、決して逃れることはできない。別れはあまり悲しく、寂しく、私たちは、別れに対して、あまりにも無力で…………。本当は、ずっと前からそう気づいていたのに、目を背けていた。私は、生まれてはじめて、人目も憚らず涙を流した。それは、私があの日、彼女の家で流すべきだった涙だった。


 ジンチョウゲの香りが、駅のホームへふわりと漂う。そう、春は別れの季節。私もいずれは、別れを受け入れ、そして乗り越えなければならない。彼女は乗り越えた。いつかは、私も……………………


 でも、と、付箋を触る。……それでも私は、彼女との再会の約束だけは、忘れないでいようと思う。だって、いつかまた、世界のどこかで彼女と巡り合って、それを喜びあえたのなら、それは、とても素敵なことじゃないかな――――?


「ありがとうございます。これ、完成したら、あの部屋に飾っても?」


 母親は小さく頷き、それに応えた。

 ――――涙で潤んだ両目を拭って、息を大きく吸い込むと、宝石のようなシアンブルーの空と、その清々しい空気とが、朧になった視界へいちめんに飛び込んで、きらきらと眩しかった。地平線のむこうへ、細長い飛行機雲が、ずうっと続いているのが見えた。


 了

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プラモデル しおまねき @oshio_oishii_

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