第100話

「……えっ!?」


 ウォーミングアップをしていた渉美は、近付いてくる皆の姿を見て言葉が出てきませんでした。しかも手に持っているのはコンビニの袋で、事態を全く理解出来ません。


「渉美さん、こんにちは。応援に来ましたわ。今日は、頑張ってくださいね。」


 楓に日傘は置いていくように言われていました。

 袋からペットボトルを1本取り出して、渉美に差し出します。


「えっ?……あ、ありがとうございます。……えっ?」


 渉美の反応を見ていた千和は笑ってしまいました。驚かそうとしてはいましたが、予想以上の反応を見せてくれています。他の陸上部員も同じでした。全員が動きを止めてしまい、彩音たちを茫然と眺めていました。


 それぞれに近くにいる部員たちにペットボトルを手渡していきます。その中にはペットボトルを受け取って、『頑張ってください』と声をかけられて頬を赤らめている後輩もいました。

 彩音も、他の4人も、聖ユトゥルナ女学園では憧れられている存在だったので当然のことでした。


「驚きました。何も聞いていなかったので、彩音さんがこんな所まで来てくださるなんて思ってもいませんでした。」


「そんなことありませんわ。大切な日ですから、応援に来たかったんです。」


「この差し入れも、買って来てくださったんですか?」


「……あっ、それは、楓さんと沙織さんが……。私もご一緒したかったんですが、『まだ私には早い』と言われて止められてしまいました。」


「えっ?コンビニでのお買い物が『まだ早い』んですか?」


 それでも、ここまで応援しに来てくれて、買い物にも一緒に行こうとしていた気持ちは十分に伝わってきました。


「でも、彩音さんと澪さんと悠花さん、ここまで電車に乗ってきたんです。」


 千和が教えると、再び渉美は動きを止めて驚きました。危なく手に持っていたペットボトルを落としそうになりました。普通のことが彩音たちにとっての事件になります。


「……えっ?……そうなんですか?」


「はい。私たちだけでは迷ってしまうので、楓さんと紅葉さんにご一緒してもらいましたけれど。」


 それで楓が『まだ早い』と言った理由が渉美にも分かりました。競技場に着くまでに楓が疲れてしまったことが容易に想像出来ていたのです。


「……でも、すごく嬉しいです。……本当に嬉しいです。頑張って走るので見ていてください。」


 渉美が力強く語る姿を見て、彩音は気持ちを伝えることの意味を理解しました。嬉しいと言ってもらえることが、嬉しいと思えています。



「大切な競技の前なのに、そんな貧乏くさい物しか準備してもらえないのですか?」


 和やかな雰囲気に突然割り込んできた男性が、皆の持っているスポーツドリンクのペットボトルを見て言いました。


「聖ユトゥルナ女学園の生徒が、そんな物を口にさせられる管理体制なんて許し難いですね。」


 高そうなスーツを着たふくよかな40代半ば位の男性で、後ろに従えている数人の若い男性は大きな保冷バッグを肩から下げて重そうにしています。


「皆さん、そんな物を飲んで大切な競技の前にお腹でも壊したら大変だ。……プロのアスリートたちが試合前に口にしている物をさらに調合して、わたしが特別な物を準備しました。そんな物は捨ててしまってください。」


 千和や沙織は不快な表情をしていましたが、彩音たちも保冷トラックで乗りつけて同じようなことをしていたはずなので何とも思っていません。


 ただ、彩音の近くにいた立っていた生徒が泣き出しそうな顔になっており、『パパ……。』と呟く小さな声が聞こえてきました。

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