第四章 馬と人
分かたれた道
シルバーライトは馬運車で馬の診療所まで運ばれた。移動の間、ミドリはつきっきりでシルバーライトの傍にいた。
シルバーライトはずっと息が荒く、苦しさから逃れるように動き、一度馬運車の壁を蹴り上げた。ミドリの姿もろくに目に入らないようで、内なる何かと必死に戦っている。雨に濡れた体を拭いてあげようとしても、シルバーライトは暴れてミドリを近づけなかった。
ベガ賞の最後の直線、シルバーライトはゴール前で突然失速した。カズマが馬を止めようとしているのがミドリにはわかった。何かが起きたのだと、すぐに察知した。
シルバーライトの身に何が起きたのか、まだミドリにはわからない。ミドリの脳は勝手に良くない方向ばかりに想像を巡らせてしまう。
予後不良。安楽死。
凍てつく氷のような感情が、ミドリの胸の内に突き刺さる。最も望んでいないことなのに、最悪の事態ばかりが頭に浮かぶ。
診療所に到着し、スタッフの指示で進んでいこうとするが、シルバーライトは何度も反抗した。この人たちはあなたを助けようとしているということを、わかってくれない。こうしている間にもシルバーライトの状態は悪化していっているかもしれない。ミドリは神経をすり減らしながら、シルバーライトに寄り添い続けた。
シルバーライトは診療所の中の柱で囲われた場所に繋がれ、検査を受けた。数人の獣医たちが集まり、真剣な表情で作業する。
検査の間も、シルバーライトは拒絶を示すように暴れた。この馬が人間のことをどんどん嫌いになっていっているような気がして、ミドリは悲しかった。
調教師のミズタニと馬主のサクマも到着し、獣医と話をしながら検査の様子を見守った。
シルバーライトはぐっしょりと汗をかいている。ミドリは体を拭いてあげたかったが、獣医たちの邪魔をするわけにもいかない。何かしてあげたいのに、何もしてあげられない。歯がゆさばかりが募っていく。
カズマはすぐに診療所に駆けつけた。しかし今のシルバーライトの姿を見ることができなかった。
怖い。
カズマは検査室の前のシートに座り、項垂れながらガタガタと体を震わせていた。
まただ。もしかして自分は、馬に不幸を呼ぶ人間なんだろうか? 自分の走らせ方が悪かったのだろうか? 原因はどこにある?
カズマはそんな思考ばかりが浮かぶ自分自身に、心底幻滅した。
大切なことは、シルバーライトの状態だ。それなのに自分は、馬のことではなく自身の不甲斐なさばかりに目を向けている。どうしようもない男だ。もう馬に乗る資格なんてない。
「カズ!」
鋭く響いた声に、カズマは顔を上げた。
雨に髪を濡らしたサツキが立っていた。
サツキはカズマに駆け寄り、隣に座って彼の手を取った。カズマの左手を両手で包み込み、温もりを与えた。
彼女のおかげで、カズマの心の乱れが幾分治まっていく。
あの時と、逆だ。去年の年末、カズマはサツキに対して同じことをした。
自分が苦しい時に、支えてくれる存在。足を踏み外しそうになった時、お互いに手を差し伸べられる関係。
彼女はとても大切な人だった。
「ありがとう」
カズマは気を取り直し、集中してじっと待った。
自分の相棒の無事を願った。
もう彼に乗れないなんて、そんなの嫌だ。
まるで子供の駄々みたいな言い分だが、それがカズマの確かな気持ちだった。
シルバーライトの一通りの検査が終わり、黒縁の眼鏡をかけた男性獣医が関係者たちに見解を述べた。
「検査の結果、脚部にこれといった異常は見受けられません。ただ心電図を見るかぎり、心房細動を起こしています」
心房細動。いわゆる不整脈だ。
「以前心房細動を起こしたことは?」
「いや、ない」
獣医の質問にミズタニが答えた。
「心房細動は健康な馬でも突然発症することがあります。今回はたまたま起きたケースだったかもしれません」
「あの!」
ミドリは我慢できずに口を挿んだ。
「シルバーライトは!? シルバーライトは大丈夫なんですか!?」
獣医の眼鏡の奥の瞳が、ミドリを捉えた。ミドリはその瞳にただただすがるしかない。
獣医は少し間を置き、思考を巡らせてから、言葉を継いだ。
「現時点で命に関わるような病状ではありません。もちろん経過を見る必要はありますが」
「そうですか……」
獣医の言葉に救われたところもあるが、ミドリの不安は消えなかった。気にかかるのは、シルバーライトの様子だ。シルバーライトは今日の出来事で精神的なダメージを負ってしまったかもしれない。走ることは、苦しいこと。人間は自分を苦しめる存在。そのようなことが彼の心理に刻まれてしまったら、それを取り除くことは難しい。
ミドリは獣医の許可を得て、シルバーライトに近寄った。
シルバーライトは暴れた影響か、若干ぐったりとしていた。
「ごめんね」
ミドリは体を震わせながら、馬の首を優しく抱いた。
シルバーライトのまぶたの中の瞳が動き、ミドリの顔を向いた。
「ごめんね」
ミドリはただただ謝ることしかできなかった。
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