ベガ賞
その日の空は、いつどしゃぶりの雨が降り出してもおかしくないような黒々とした雲に覆われていた。
カズマとシルバーライトは三冠の最後のレース、ベガ賞の舞台に立った。
シルバーライトは堂々の一番人気。多くの観客はこの馬の二冠達成の瞬間を観にきている。
このベガ賞でアステリズム路線においての有終の美を飾り、来年のシニア路線へ向けて弾みをつけたい。国内に留まらず、海外遠征の道もある。
シルバーライトは歴史に名を刻む馬になると、カズマは感じていた。まだまだ底の見えないポテンシャル、そして白の葦毛という見栄え。競走馬らしからぬどこか人間くさい味のあるキャラクターも兼ね備え、シルバーライトは生粋の競馬ファン以外にもよく名前を知られるようになった。
カズマはシルバーライトに乗り、ゲート前で出走の時を待つ。
レース場に音楽隊のファンファーレの音色が鳴り響いた。
出走馬たちがゲートへ収まっていく。
前に立つミドリが、どこか不安げな表情でこちらを振り返った。どうしたのだろう? ミドリは何かを振り切るように左右に首を振り、手綱を引いてゲートへ導いた。
ミドリはゲートから出る前にも一度、カズマとシルバーライトに心配そうな目を向けた。
微かな疑問を感じながらも、カズマは今一度気を引き締めた。優勢と見られたレースだが、勝負に絶対は無い。
小気味良い音とともにゲートが開いた。
レースは向こう正面から始まり、直線の後三コーナーへ入っていく。
シルバーライトはいつも通り後方に構えた。
馬たちが鳴らす地鳴りに混じり、ゴロゴロと雷の予兆が空気を揺らした。
コーナーを曲がり切り、正面スタンド前の直線に入った。スタンドからの大きな声援が馬たちの走りを後押しする。
シルバーライトの状態は良かった。かかって前に出ていくようなこともなく、力まず心地良く走っているような感覚。いつまでも走っていられそうな気配だ。
スタンド前の直線を通過し、一コーナーへ入る。
そこで再び雷の音が鳴った。今日の空は機嫌が悪そうだ。鬱憤をぶつけられる前にレースを終えたい。
二コーナーを抜け、向こう正面へ。ここで一息入れて、最後のスパートに備えたい。普通の馬に乗る騎手ならそう思うだろう。
シルバーライトの前方には十頭以上が固まった馬群がある。カズマはシルバーライトを外めに動かし、この馬の最大の武器であるロングスパートを開始した。
外からグングンと順位を上げながら、三コーナーへ入っていく。何人かの騎手がシルバーライトの勢いに目を見張ってちらちらと視線を向けてきた。この馬の走りを脅威に感じただろう。
四コーナーを曲がり切り、最後の直線に入った。
シルバーライトは早くも先頭に立つ。
歓声。
後続を突き放していく。
誰もついてこれない。
残り200mのハロン棒を通過。
誰もがシルバーライトの勝利を確信しただろう。
その時、シルバーライトの体勢が僅かに崩れた。
シルバーライトは体勢を立て直し、勝利へ向かって走っていく。
だが明らかにスピードが落ちていたし、走りにどこか違和感があった。
一瞬カズマの脳裏に二年前の記憶がフラッシュバックした。
カズマは無意識のうちに手綱を引いていた。
その行為は、多くの馬券を紙屑に変える行為になる。それがわかっていながら、迷うことなくブレーキをかけた。
シルバーライトはカズマの指示に反抗した。ハミを食いしばり、トップでゴール板を駆け抜けようとする。
「やめろ!」
カズマは怒声を上げた。手綱を引く手により力を込める。
カズマは一瞬後方を振り返った。それは他の騎手たちに対する合図でもある。
シルバーライトはまだ走ろうとしていた。勝利に執着していた。
「もういいんだ」
この日のベガ賞、シルバーライトは競走を中止した。
冷たい雨が降り出した。
ミドリは急いでシルバーライトに駆け寄った。
馬から降りたカズマが手綱を持っているが、シルバーライトが暴れている。
いや、シルバーライトは苦しんでいた。ミドリにはそれがわかった。
シルバーライトの痛々しい姿を目にし、ミドリは心が引き裂かれそうだった。
周りに係員たちが集まり、馬運車の到着を待っている。
カズマがシルバーライトと格闘しながら、大声で係員たちに状況の説明をしていた。しかしミドリの耳には聞こえても、頭に内容が入ってこない。
ミドリはこの状況でどうすればいいのかわからない自分が、情けなかった。
大振りの雨が体を濡らしても、何も感じなかった。
馬運車が到着し、スロープを下ろしたが、シルバーライトは馬運車に乗ろうとしない。暴れて反抗した。
そしてミドリは気づいた。シルバーライトの尻尾につけていた赤いお守りが無くなっていることに。
遠くで雷が光った。
大粒の雨がターフを激しく打ちつける。
運命に怒り、呪うかのように。
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