涙の訳
シルバーライトは念のため入院し、翌日には退院して厩舎に帰ってきた。慢性的に心房細動を起こす場合は投薬による治療が施されるが、突発的な心房細動は自然と治癒することがほとんどだ。
厩舎の馬房に戻ったシルバーライトは、とても疲れている様子だった。ミドリは馬房に入り、馬の体に異常がないか隅から隅まで確認した。
馬房の外ではミズタニと調教助手たちが集まってシルバーライトについての話し合いをしている。年内はレースに出さずに休ませるべきかどうか検討しているようだ。
またこの子をレースに出すつもりなのだろうか? 今回のような発作や、怪我をすることだってあるかもしれない。命を脅かす事故だって考えられる。それでもまだこの子を走らせるのか?
シルバーライトは昨日のレースでとても苦しい思いをした。多くの人間の期待が、この馬を苦しめた。もう走りたいとは思わないかもしれない。
ミドリは今更ながら、競走馬と関わる仕事の厳しさを知った。
競走馬は生まれた瞬間から、自分の意思ではなく、人の都合によって生かされる。人間の娯楽や経済の歯車の一つの部品として、生産される。
ミドリはシルバーライトに今の気持ちを訊いてみたかった。何を感じ、何を思っているのか。けれど、馬に言葉は通じない。馬が真に何を望んでいるのか、知ることはできない。そして馬はまた、人に使われていく。
ミドリは元気のないシルバーライトの白いたてがみを撫でた。シルバーライトの瞳が動き、ミドリを向く。
「ねえ、昨日は大変だったね」
理解されないと知りながら、ミドリは自分の言葉で馬と話す。
「あの時は、何が起きたのかわからなかったんだよね? どうしてこんなに苦しいのか、わからなかったんだよね? だから暴れたんだよね? ごめんね。でもみんな、あなたの無事を願ってたの。本当だよ。たくさんのファンの人たちが、あなたのことを心配してた。もちろん私だって。お願い、人間のことを嫌いにならないでね。結果的にあなたを苦しめたのは人間だけど、でもみんなあなたのことが好きなの」
シルバーライトはミドリのほうを向いて彼女に意識を向けている。
「あなたが無事でよかった。本当に。ありがとう。無事でいてくれて」
ミドリのまぶたからポロポロと涙が零れた。
その様子を見たシルバーライトが、悲しそうに俯いた。この馬は、人間の感情を深く読み取る。悲しそうなシルバーライトを見て、ミドリは余計に悲しくなった。
ミドリはシルバーライトに優しく抱きついた。
シルバーライトの小さく嘶いた声が、儚げに馬房に響いた。
ミドリは夜遅くになってもまだ、シルバーライトの馬房の前にいた。時々隣の馬房のクラシオンが心配そうな顔で覗き込んでくる。
厩舎に戻ってきたシルバーライトはずっと元気がない。心房細動の症状は治まっているはずだが、この馬らしい覇気がまったく感じられない。今も寝わらの上に体を預けてぐったりとしている。
厩舎の入り口のほうから、つかつかと足音が響いてきた。
「こんばんは」
カズマだった。ミドリは一度彼のほうを向いて、それからまたシルバーライトのほうを向いた。
「そろそろ休んだほうがいいよ。ずっとここにいるんでしょ?」
彼の気遣いはありがたかったが、ミドリの足は一歩たりとも動かない。
カズマはミドリの隣に立って、馬房の中のシルバーライトを見た。シルバーライトは相変わらず力なげにじっとしている。
それからカズマは何も言わずにその場にいた。ミドリと一緒にシルバーライトをただ見守っている。
ここまで馬と寄り添う騎手というのも珍しいだろう。騎手は馬を走らせることが仕事、つまり競走馬が仕事をする時のパートナーであって、それ以外の時間に馬と関わる必要はない。そういえば初めのころからカズマはそうだった。彼は調教を始める前からこの馬に会いに来ていた。彼だからこそ、この馬に乗ることができた。シルバーライトが認めた唯一の乗り手。
おそらくカズマほど今のミドリの気持ちを理解してくれる人間はいない。シルバーライトはSⅠホースであり、多くの人間がこの馬と関わりを持っているが、ここまで近しい位置にいるのはここにいる二人だけだ。
「あの、カズマさんは」
ミドリは思っていることを口にした。
「騎手という仕事のことを、どう思っていますか?」
カズマは一度ちらっとミドリのほうを向いて、それから考え込むような表情になった。
彼は聡明な人間だ。おそらく、質問の背後にあるミドリの気持ちに気づいている。
ミドリが自分の仕事に疑問を抱いているということに。
カズマが口を開いた。
「大好きな仕事だ。大好きな馬と一緒にレースを走れるからね」
大好き、という言葉がミドリの胸に強く響いた。
「馬と毎日のんびり過ごすことだってきっと楽しい。だけど、目標を持って一緒にそこへ向かっていける。時に大きなことを成し遂げることがある。そしてその時、自分のすぐ隣に相棒の馬がいる。それはなににも代えがたい喜びだよ」
微笑みながら話すカズマの瞳が、少年のように煌めいていた。彼は立派な大人だが、子供のような純粋さを持っている。ミドリは彼のその瞳に惹かれた。
「僕はまたこのシルバーライトに乗ってレースに出たい。勝手な考えかもしれないけど、彼もそれを望んでくれている気がするんだ」
カズマが真剣な眼差しをシルバーライトに向けた。
ミドリは今年の初めごろにしたカズマとの誓いを思い出した。ともに力を合わせ、この馬を支えていく。困難があっても、力を合わせ乗り越える。ミドリにとってカズマはとても大きな存在だった。自分一人ではこの馬を支え切ることなどできなかっただろう。彼がいてくれて、よかった。
「本当言うとね」
カズマの声のトーンが少し落ちた。
「ビクビクしてたよ。怖かったよ。また大切な相棒を失うんじゃないかって。レースはいつだって危険と隣り合わせだ。安全の保障はない。人生と同じようにね」
カズマがミドリに対して弱音を吐くことは珍しかった。彼はそれだけ本当の気持ちを伝えようとしている。
「僕も何度も止まりかけたことがある。辞めようと思ったことだってある。だけどね、やっぱり好きなんだ。馬の走っている姿が。人と馬が力を合わせている姿が。気づくと馬の調教を見に来ている自分がいた」
かつてのことを話すカズマが、少し呆れたような笑いを浮かべた。
ミドリは親しみを込めながらカズマを見つめる。
「そして、この馬に出会った。騎手を振り落とすことで有名な、この暴れん坊にね。自分がなんとかしてあげたいと思った。だけど結果的になんとかしてもらったのは、僕のほうだ。僕はこの馬に救われた」
シルバーライトを見ながら語るカズマの顔には、優しい笑みが浮かんでいる。
「僕はまだ、彼に恩を返せていない。彼と一緒に、まだやりたいことがある」
シルバーライトを見つめるカズマの瞳は、未来を見ていた。
「私も」
ミドリは無意識のうちに言葉を発していた。
「私もお供させてもらっていいですか?」
カズマがミドリのほうを向いた。彼の瞳は優しかった。
「もちろん」
翌日の早朝、ミドリは厩舎にやってきた。
厩舎に入ると、奥のほうで物音が鳴っていた。
カッ、カッ、カッ、と叩き擦るような音。
それが何の音か気づいていくうちに、ミドリの心は喜びに満ちていった。
いつの間にか彼女は駆け出していた。
シルバーライトの馬房の前まで来た。
シルバーライトは馬房から首を出し、前脚でカッ、カッ、カッ、と床を叩いていた。
それは早くメシを寄越せというミドリへの合図だ。
ミドリはシルバーライトに近づき、首に抱きついた。
人が馬を使うのではなく、私はこの馬に使われているのかもしれない。
そう思いながらも、元気の出た様子のシルバーライトを見てミドリは涙を流した。
それは冷たい涙ではなく、温かい涙だった。
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