ファンファーレ

 アルタイルステークスのレース当日、シルバーライトは同じ厩舎仲間で隣の馬房に住む仲良しのクラシオンと一緒に馬運車に乗った。クラシオンはデネブ賞には出走できなかったが、先日トライアルレースに勝利しこのアルタイルステークスに間に合わせた。毎年七千頭ほどの競走馬が生産される中、この最も偉大なレースに出走できるのはわずか十八頭。出走するだけで名誉と言われるレースは、おそらく他にないだろう。

 仲の良いクラシオンと一緒にいられるシルバーライトはご機嫌だった。体調も良さそうでなにより。

 ミドリは馬運車の中で、シルバーライトの尻尾のつけ根につけられている赤いボンボンを外した。かわりに神社で購入してきた赤色のお守りをくくりつけた。

 勝負運と、怪我なく無事にレースを終えてくれること。二つも願うなんて、ちょっと欲張りかもしれない。だけどこれは自分とシルバーライトの二人分の願いということで良しとしてもらおう。今日はこのお守りをつけて、レースに臨む。

 ミドリはシルバーライトの前に立ち、馬の様子を確認した。もうすぐすごいレースが始まるというのに、シルバーライトはいつも通りの惚けたような顔をしている。ミドリは時々シルバーライトはふざけて自分を笑わせようとしているのでは、と思うことがある。馬は頭の良い動物だが、この葦毛の馬にはとくに人間に近い感性を感じる。冗談を言って他者を笑わせるのは、人間にしかできない芸当だ。それが人間の大きな特性の一つだと思う。想像力がなければできないことだから。

 ミドリはシルバーライトの顔に自分の顔を近づけていった。馬の顔は遠目から見るとかっこよく見えるのに、近くで見るとなぜか可笑しく見える。にらめっこをすれば勝ち目はない。

 ミドリはさらに顔を近づけていく。

 何をしようとしているんだ、とシルバーライトは訝しげに首を振った。

 ミドリは一度後ろを振り返った。大丈夫、今クラシオンの厩務員は見える位置にいない。

 シルバーライトに向き直り、再度顔を近づけていく。

 ちょっと背の高い男の子。

 ゆっくり、慎重に、想いを込めて。

 ミドリはシルバーライトに口づけをした。

 シルバーライトはとくに反応せず、じっとミドリの顔を眺めている。

 そこでミドリは急に我に返り、顔が一気に熱くなった。

「な、内緒だからね!!」

 シルバーライトは退屈そうに欠伸をした。



 レース場建物内の廊下で、カズマはサツキとすれ違った。いや、すれ違ったというのは的確な表現ではない。彼女は明らかにカズマのことを待っていた。

 普段なら軽口の一つでも叩くカズマだが、彼女の神妙な顔つきに上手く言葉が出ない。サツキのほうも、何か言いたそうだが口に出せない様子だった。

 そのまま石像のように硬直し続けるわけにもいかないので、カズマは彼女の横を通り過ぎるように歩き出した。

「カズ」

 彼女の声に足を止めた。なんだかいつか見たシチュエーションだなと思った。

「待ってるから」

 彼女は言った。飾りのない、シンプルな言葉だ。

「ずっと、待ってるから」

 その言葉を聞いた時、カズマの中であることが決まった。

 アルタイルステークスで勝ちたい理由が、一つ増えた。

 もし勝てたら、彼女に言おう。

 今はただ、勝負へと向かう。

 カズマはサツキに背中を向け、歩き出した。



 ミドリとシルバーライトは、アルタイルステークスのパドックに出た。これからレースで競う十八頭が円周を歩く。

 シルバーライトはデネブ賞の時よりやや興奮気味だった。気合いをつけるようにブンブンと首を上下に振りながら歩いている。そのたびに手綱を握るミドリの手が揺らされた。

 この日シルバーライトは二番人気だった。デネブ賞で勝利したので一番人気でもおかしくないのだが、あのレースは実力というよりはたまたまコース取りが上手くいったから勝てたと考えている人間もいるようだ。憤慨である。デネブ賞ではカズマとシルバーライトの二人だったからこそ、あの道を走ることができたのだ。

 一番人気はテンペスタだ。デネブ賞の二着、そして昨年シルバーライトに先着したことも評価されている。

 他も世代を代表する強者揃いの三歳馬たちなので、オッズに大きな偏りはない。みんなこのレースでの勝利、最高の栄光を手にすることを夢見てやってきている。

 シルバーライトと同門で仲良しのクラシオンは十二番人気と穴馬になっていた。しかしクラシオンが見せる最後の末脚は鋭い。後方から一気に突っ込んでくるような上がり方をする。同じ追い込み型でもじりじり上がっていくシルバーライトとはまた違い、一瞬の切れ味に勝負をかけるタイプだ。調教では何度も一緒に走ってきた馬だが、レースでともに走るのは初めてだ。

 騎乗号令があり、カズマがやってきた。気負いのあるシルバーライトとは違い、カズマはリラックスしているような涼しい表情だった。緊張していないというよりは、それを吹っ切った後のような顔だ。

 カズマはシルバーライトに乗ろうとしたが、そこで動きが止まった。どうやら馬の尻尾にあるお守りに目を留めたようだ。

 ミドリはカズマに何か言われるかと身構えた。しかし彼は何も言わなかった。カズマは何かを悟ったような顔をして、それから馬に乗った。

 パドックが終わり、カズマとシルバーライトが本馬場へと向かう。



 天気は良く、ターフはすっきりとした良馬場。青空の下、カズマとシルバーライトは気持ち良く返し馬を行った。

 アルタイルステークスでは、小細工は通用しない。2400mのこのレースの終盤には、500mを超える長い長い直線が待っている。栄光はその厳しい道を乗り越えた先にある。

 ゲート前に到着し、馬をゆっくり歩かせながら発走の時を待った。

 いよいよ始まる。何度このレースに出ても、この特有の緊張感に慣れることはない。

 今ここにいる馬たちは、多くの人たちに想いを託されている。それは「夢」という想いだ。

 この場所には、夢がある。全てをそこに賭けてもいいと思えるほどの夢が。

 スターターが台に上り、旗を振った。スタンドから大きな歓声が上がる。

 レース場に音楽隊によるファンファーレの音色が鳴り響いた。

 カズマは先ほど目にしたお守りのことを考えた。今日はミドリの気持ちも一緒に乗せて、レースを走る。

 空を見上げた。

 あの青空の向こうに、このファンファーレの音は届いているだろうか?

 ノーザンスカイ。

 きっと彼も、この最高のレースを走ってみたかっただろう。

 空の上から、どうか見守っていてほしい。

 馬たちの無事と。

 そして最高の舞台を。

「行きましょう」

 前で手綱を握るミドリが珍しく促した。彼女も気合いが入っている。

 シルバーライトはゲートに入った。

 ミドリはシルバーライトとカズマを一瞥してから、ゲートから出た。

「さあ、行くぞ」

 カズマはシルバーライトに檄を飛ばした。

 シルバーライトはその言葉に応えるように嘶いた。

 そして、

 最高の舞台へと向かうゲートが開いた。

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