輝きの舞台
サノ・カズマは、早朝の競走馬たちのトレーニングの様子を遠目から一人で眺めていた。一体ここで自分は何をしているのだろう、という疑問が浮かぶ。
名友との残酷な離別。あのような悪夢は二度と味わいたくない。この仕事から離れようと何度も考えた。それでも気づけば、この場所へ足を運んでしまっている自分がいる。
怖い。また同じことが起きるのではないかという恐怖。それでもやっぱり、自分は馬に乗って走ることが好きなのだ。ライバルたちと競い合うことが好きなのだ。大勢の観客に見守られて走る舞台が好きなのだ。
もう一度夢を見たい。悪夢ではなく、楽しい夢を。その願いが叶う時は来るのか。カズマは未だにその一歩を踏み出せずにいた。
「俺が乗るんですか?」
その騎手は明らかに気乗りしていない様子だった。
ミドリは馬装を施したシルバーライトをトレーニング場に連れてきた。調教師のミズタニとコンタクトを取り、馬に乗る騎手が呼ばれた。
「馬に乗るのが騎手の役目だろう?」
ミズタニに促され、騎手が恐る恐るシルバーライトに近づいていく。ミドリはシルバーライトの前に立ち、ハミに繋がった手綱を引いている。
騎手が近づくと、シルバーライトが反応した。すごい力で手綱を馬に引っ張られる。ミドリは転ばないようにするのがやっとだった。
シルバーライトは威嚇するように首を上げ、ブオオオと地鳴りのような声で吠えた。騎手はその迫力に負けて後ずさる。ミドリはシルバーライトが暴れないようにがっちりと手綱を掴んでいるが、どんなに力を込めても馬はびくともしない。静止力にもなりはしない。
その後何度もトライしたが、シルバーライトは決して騎手を背中に乗せようとはしなかった。強い警戒心を示している。この状態で無理に乗っても、昨日のようにすぐに振り落とされてしまうだろう。
「はあ。どうしたもんか」
調教師のミズタニもお手上げといった様子だ。
馬たちの調教の様子を見守っていたカズマは、騎手を乗せずに駄々をこね続ける一頭の葦毛の馬を見た。
すごくパワーのありそうな馬体だ。闘争心もある。はねっ返りの強さは危惧されるが、あの馬がどんなレースをするのか見てみたいと思った。良くも悪くもワクワクする。
「やあ」
近くから声がした。そちらを見ると、人の良さそうな顔の小太りの中年男性がいた。
「サノ・カズマ騎手ですね」
男は言った。自分は今は騎手ではない、とカズマは思った。
「サクマといいます。あの葦毛の馬の馬主をやっとります」
「そうですか。はじめまして」
サクマは握手のために手を差し出そうか迷っている様子だったが、無愛想な態度のカズマを見て遠慮したようだ。
カズマは再び馬のほうに目を向ける。馬が両前脚を上げて立ち上がり、手綱を持った女性厩務員が悪戦苦闘していた。
「ちょっとばかりやんちゃなようですな」
サクマがどこか嬉しそうに言った。ちょっとだったらいいけれど、とカズマは思った。
「あの馬はデビューを控えてるんですが、見ての通り上手くいっとりません。素質はあると思うんですが、それもちゃんとレースに出られればの話ですからな」
カズマは相槌も打たずに黙って馬を見ている。馬はついに厩務員を置き去りにして勝手に走り出してしまった。
「競走馬はレースに出るために育てられる。レースに出られなければ、安寧の生活を得ることは難しい」
カズマはサクマの言いたいことがわかった。悲しいことだが、それが現実だ。馬の維持費は安くない。
「カズさんは、最近全ての騎乗依頼を断っておられるようですね。やはり、あの事故を気にしておられるのですか?」
カズマの体は外目からではわからないほど僅かにピクッと反応した。
「あれは、悲しい事故でした。全ての競馬ファンにとって」
確かに、そうかもしれない。だけど、自分ほどあの馬と一体となれた人間はいなかった。あれほど間近で、夢が砕けた瞬間を目撃した人間はいなかった。
「レースは競うものであり、そこには当然勝ち負けが存在する」
サクマは一方的に話を続ける。
「だけどね、私はまず第一に、馬に健康で、そして幸せであってほしいと思っとります。偽善のように聞こえるかもしれませんがね」
立派な考えだ。馬も人間もそうであることに越したことはない。だけど時に、運命というものは無情にその幸せを奪い取る。
「あの馬にも」
サクマはトレーニング場を走り回っている葦毛の馬に目を向けた。
「素晴らしい舞台の景色を見せてやりたい。このまま終わってもらいたくない。勝手な考えですが、レースは走らされる馬にとっても、自分の力を発揮できる幸せな舞台だと思っています」
そう言い残し、サクマはその場から去っていった。
一人残されたカズマは、顔を下げて自分の両の手の平を見た。
この手にはまだ、馬の手綱を握る資格があるのだろうか?
東の空の太陽が少しずつ昇り始めている。
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